今回は天海僧正を取り上げるぞ。家康のアドバイザーだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、天海僧正について5分でわかるようにまとめた。

1-1、天海僧正は会津の生れ

天海僧正(てんかい)は、天文5年(1536年)頃、陸奥国会津高田(現福島県会津美里町)に生まれたとされています。諸説あるが、蘆名(あしな)氏の一族として生まれた、蘆名氏の女婿、船木兵部少輔景光の息子説が有力だそう。

天海は100歳以上の長寿を保ったということですが、前半生、生年、出身地なども不明なので、生年は逆算して、出身地なども色々な史料から推定されたものなんですね。僧としての名は、最初は随風、南光坊天海僧正が正式名、院号は智楽院、諡号は慈眼大師。

1-2、天海の前半生

天海は、11歳のときに龍興寺(現福島県大沼郡会津美里町)で出家して随風と名乗り、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事、そして1560年から4年間、下野国足利荘(現栃木県足利市)にあった関東の最高学府の足利学校で、儒教、易学、天文学、軍学などを学んだということ。次に長楽寺(現群馬県太田市世良田)で学び、比叡山延暦寺へ行って、天台学を、園城寺で倶舎論、南都では法相、三論、大寧禅徳から禅学を学びました。

1571年、織田信長によって比叡山延暦寺が焼き討ちされたのち、武田信玄に招かれて甲斐へ移住、そのあと蘆名盛氏の招聘で黒川城(若松城)の稲荷堂に、そして上野国の長楽寺を経て、1588年頃に武蔵国の無量寿寺北院(現埼玉県川越市、喜多院)に移って、天海と改名。

1-3、天海、家康に招聘される

天海は、無量寿寺北院の住職となってから世に出たのですが、江戸崎不動院の住持も兼任だったということです。家康との出会いははっきりしないが、浅草寺の史料では、北条攻めのときには、天海は家康の陣中にいたそう。

この浅草寺の史料からは、天海は家康のために関東に赴いたとされているということで、天海は1599年、北院の住職となったのち、家康の参謀として伺候し、家康の健康や信仰的な問題、朝廷との交渉、お寺関係の役割まで担うことに。

2-1、天海の業績

徳川家康の晩年に深くかかわった天海の業績についてご紹介しますね。

2-2、天海、比叡山再興に貢献

image by PIXTA / 55247766

家康は、天海のことを「人中(にんちゅう)の仏なり」といって、たいへんな信頼を寄せるように。そして天海は1607年、比叡山探題執行を命じられて、南光坊に住居して信長の焼き討ちの後の延暦寺再興に関わり、1609年に権僧正に任ぜられ、延暦寺中興の祖と言われた功績をあげました。1612年には無量寿寺北院の再建に着手して、喜多院と改めて関東の天台宗の本山に。

そして1613年、家康から日光山貫主を拝命して、本坊、光明院を再興天海はまた、家康の最大の懸念だった大坂の豊臣家に対しての策謀にも加担、たとえば、秀吉供養のためになるといって、淀殿、秀頼をだまして方広寺などの全国の有名な大寺を次々と再建させ秀吉の莫大な遺産をつぎ込ませたり、大坂の陣の発端の方広寺鐘銘事件にも金地院崇伝とともに深く関与したといわれています。

2-3、天海、家康の神号をめぐって争い、ライバルに勝利

1616年、臨終間近となった家康は、天海らに自身の神号、葬儀に関する遺言をしたということです。そして家康の死後、黒衣の宰相と言われた金地院以心崇伝、本多正純らは、家康の神号を「明神」として古来からの吉田神道で祀るべきだと主張したが、天海は「権現」として自らの宗教の山王一実神道で祀ると主張。

天海は2代将軍秀忠に、豊臣秀吉には「豊国大明神」の神号が贈られたが、豊臣氏は滅亡したために「明神」は不吉と提言、一発で家康の神号は「東照大権現」と決定、崇伝も失脚(のちに復帰)したということ。なお、家康の遺体は最初に埋葬された久能山から日光山に改葬することに。

2-4、天海、江戸の街作りに尽力

image by PIXTA / 46582667

天海は、江戸城の築城、城下町である江戸の街の建設に深くかかわったといわれています。天台密教の僧侶なので、遁甲、天文、方術などの陰陽道の豊富な知識を駆使して、古代中国の陰陽五行説の「四神相応」の考えをもとに、西は伊豆から東は下総(現在の千葉県)までの広大な土地の地相を調べた結果、江戸が幕府の本拠地とするのにふさわしいと家康に進言したということ。

江戸城は築城名人の藤堂高虎らが中心となって縄張りしたのですが、天海は陰陽道の面から、徳川家の繁栄を考えた江戸の街つくりとして、鬼門封じなどを積極的に行ったそう。天海は、江戸城の内部を「の」の字型、渦郭式という構造にし、城を取り囲む掘も螺旋状に掘ることなどを助言。この「の」の字型の構造は、城を中心にして、時計回りで町が無限に拡大していくうえ、敵を城に近づけにくくする効果もあったということです。また、火災のときには類焼の広がりをおさえたり、船で物資を運びやすいとか、堀の工事で出た土砂を埋め立てに利用するという効果もあったそう。

天海は鬼門封じのために、北東に寛永寺を建立し東叡山と称して東の比叡山を意識させ、不忍池を琵琶湖に見たてて、竹生島をまねた弁財天を祀ったということで、寛永寺の側に上野東照宮を建立し、神田明神を湯島に移転させ、浅草寺も配置するなど万全を期したそう。

また江戸城の南西の裏鬼門には、もうひとつの将軍菩提寺の増上寺を配置し、日吉大社から分祀した日枝神社を移転。 江戸の街作りの工事が完成したのは、1640年、3代将軍家光時代で、すでに家康も藤堂高虎も他界していたが、天海は存命していて、50年近くかかった江戸の都市計画の初期から完成まで見届けたことに。

2-5、大蔵経の出版に尽力

天海は生前、日本での一切経とよばれる大蔵経の印刷と出版を企図し、天海が亡くなって5年後の1648年、天海が着手した「寛永寺版(天海版)大蔵経」が、幕府の支援により完成しました。これらの経典の出版は、日本の印刷文化史上で最も重要な業績といわれていて、天海が作製させた膨大な木製活字は天海版木活字とよばれ、26万個以上が現存しているそう。

\次のページで「2-6、天海、特赦も願い出る」を解説!/

2-6、天海、特赦も願い出る

天海は、紫衣事件などで罪を問われた者について、将軍に特赦を願い出ることも多く、ほかにも大久保忠隣、福島正則、徳川忠長などの赦免を願い出たということで、のちに輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもとにもなったそう。柳生宗矩らと共に沢庵宗彭の赦免にも奔走し、1643年に108歳で死去。

3-1、天海の逸話

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木村了琢(自賛) - The Japanese book "聖地日光の至宝 (Seichi Nikkō no Shihō)", NHK, 2000, パブリック・ドメイン, リンクによる

天海は73歳のときに家康と出会い、天海の教養や人柄に感銘した家康は、もっと早く会いたかったと言ったほど。それまでの前半生が謎ですが、色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、川中島合戦を見物した

徳川幕府が「続本朝通鑑」を編纂する際、上杉家から献上された報告書によると、天海は1554年に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したと話したそうです。天海は武田信玄と上杉謙信が直に太刀打ちするのを見たが、後に信玄に聞くと「あれは影武者だ」と答えたという話があるが、この史料はこのときの天海の年齢が45歳(天文5年生まれならば18歳のはず)、また実在が疑われている謙信の武将宇佐美定行が上杉二十五将に数えられているなど、不自然な点も。

そして天海は、関ヶ原の戦いに参加したという話もあり、関ケ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」に描かれた家康本陣には、天海であるとされる鎧兜姿の「南光坊」という人物が配置されているそう。この屏風は彦根城博物館所蔵の、江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風の模写で、こちらには「南光坊」の記載はないということ。

3-3、家光にもらった柿の種

天海は、将軍家光から柿を拝領して御前で食べたあと、種を包んで懐に入れたので、家光がどうするのかと聞いたところ持って帰って植えると答えたのですね。果樹の実がなるまでには、桃栗3年柿8年といいますし、家光は、百歳になろうという老人なのにと家光がからかうと、天海は、天下を治める人が性急な考えではいけないと諭したそう。そして数年後、天海は家光に柿を献上。先年拝領した柿の種が育ってつけた実だと答えたという話です。

3-4、長寿の秘訣

天海は、秀忠と家光にそれぞれ長寿の秘訣を歌に詠んだそうで、実直な秀忠には「長命は、粗食、正直、日湯(毎日風呂に入ること)、陀羅尼(お経)、時折、ご下風(屁)あそばさるべし」、家光は短気だったので「気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ」だったそう。また天海は不老長寿の秘薬として家康に川越の納豆を献上し、家康は納豆を気に入り、この納豆は芝崎納豆として江戸の名物になったということです。

\次のページで「3-5、天海、明智光秀説」を解説!/

3-5、天海、明智光秀説

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天海は高名な僧で長生きでしたが、自らの出自を弟子たちに語らなかったために前半生はほとんど知られていません。そして家康と出会ってすぐに信頼篤いアドバイザーとなったので、なおさら天海の出自が普通ではないと思われたのでしょう。第12代将軍足利義晴の子古河公方足利高基の子とか、様々な説あり。そして一番有名なのが、惟任日向守明智光秀が天海となったという説ですね。

この説は、1916年出版の天海の伝記「大僧正天海」で著者須藤光暉は、天海は船木兵部少輔景光と妻の芦名氏の子と推定し、一部の奇説として「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」を挙げているということですが、天海と同時代史料に光秀説を明示したものは存在せず、筆跡も異なるとして歴史学者は否定。

それでも光秀説を唱えたくなるのは、天海が家康と初めて会ったとき、手を取り合った二人は旧知の仲で再会したようで初対面には見えなかったという話から、光秀のほうも、あれほどの武将が落ち武者狩りで倒されたはずがないとして生存説が多数あり、京都の宇治にある専修院と神明神社には、山崎合戦の後に光秀をかくまった伝承が、妙心寺にも山崎合戦の後、光秀が訪れ和泉の国に向かったとか、比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録があり、光秀が亡くなったはずの1582年以後の年号で、光秀の名で寄進された石碑が残っているなどなど。

また、天海所用の甲冑と鉄砲(光秀は鉄砲の名人)の遺品が現存すること、天海が誘致した日光東照宮の近くの明智平と呼ばれる場所は天海の命名という伝承があること、また、日光東照宮陽明門にある随身像の袴、多くの建物の装飾に光秀の家紋でもある桔梗紋の堀細工があるそう。

天海の墓所のひとつが光秀の居城があった近江坂本にあるほかに、光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたとか、徳川家光の乳母の春日局が光秀の重臣の斎藤利三の娘で(春日局と天海が初めて会ったとき、「お久しぶり」と挨拶をした話があるそう)、家光の子の徳川家綱の乳母には、光秀の重臣だった溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されたなどで、天海も光秀も生年や生誕地などが不明なのもふたりをつなぐ根拠に。

3-6、天海の予言、水戸藩から将軍を迎えると幕府は終焉する

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江戸幕府では、家康晩年の息子たちが初代藩主の紀州家、尾張家、水戸家とする御三家がもうけられ、徳川宗家である将軍家に世継ぎがなければ、この3家から跡継ぎを迎えるよう定められていました。

しかし尾張家からは結局出なかったというものの、水戸家には天海の予言として、水戸藩から将軍が出た場合、徳川家は滅びるというのがあったそう。15代将軍慶喜は水戸家出身ですが、この予言は当たったということに。これは風水を根拠にすると、水戸藩は江戸城から見て変化、相続をつかさどる東北鬼門方位にあったからではという説。

晩年の家康の宗教的なアドバイザーで、江戸の街の基礎を作った功労者

天海僧正は、前半生は不明ながら、足利学校から比叡山延暦寺まで、当時の天台宗の最高学府で勉学を治めた高僧でした。そして老人になってから家康と出会い、天台宗の僧としての高い教養や知識で信頼を得て、江戸に幕府を開き江戸城や江戸の街を建設するための知恵を授けたのですね。

家康没後も、秀忠、家光の3代にわたって仕えて影響力を持ち、日光東照宮や上野の寛永寺などを造営して、徳川宗家の祖家康を神格化に尽力し、不忍池に蓮を、上野に桜を植えと、陰陽道や天文学とかの知識をフルに活用、庶民の娯楽とかも考えた大江戸都市計画を実行したので、はるか後世の東京の繁栄さえもが、すべて天海のおかげとされるように。

天海は100歳を超えるまで現役で活躍したが、前半生は謎めいたまま、明智光秀の後身ではというロマンチックな伝説は、研究者は否定してもやっぱり捨てがたい魅力がありますよね。

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日本史歴史江戸時代

3分で簡単「天海僧正」の生涯!江戸の街をつくり晩年の家康のアドバイザーだった彼をわかりやすく歴女が解説

今回は天海僧正を取り上げるぞ。家康のアドバイザーだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、天海僧正について5分でわかるようにまとめた。

1-1、天海僧正は会津の生れ

天海僧正(てんかい)は、天文5年(1536年)頃、陸奥国会津高田(現福島県会津美里町)に生まれたとされています。諸説あるが、蘆名(あしな)氏の一族として生まれた、蘆名氏の女婿、船木兵部少輔景光の息子説が有力だそう。

天海は100歳以上の長寿を保ったということですが、前半生、生年、出身地なども不明なので、生年は逆算して、出身地なども色々な史料から推定されたものなんですね。僧としての名は、最初は随風、南光坊天海僧正が正式名、院号は智楽院、諡号は慈眼大師。

1-2、天海の前半生

天海は、11歳のときに龍興寺(現福島県大沼郡会津美里町)で出家して随風と名乗り、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事、そして1560年から4年間、下野国足利荘(現栃木県足利市)にあった関東の最高学府の足利学校で、儒教、易学、天文学、軍学などを学んだということ。次に長楽寺(現群馬県太田市世良田)で学び、比叡山延暦寺へ行って、天台学を、園城寺で倶舎論、南都では法相、三論、大寧禅徳から禅学を学びました。

1571年、織田信長によって比叡山延暦寺が焼き討ちされたのち、武田信玄に招かれて甲斐へ移住、そのあと蘆名盛氏の招聘で黒川城(若松城)の稲荷堂に、そして上野国の長楽寺を経て、1588年頃に武蔵国の無量寿寺北院(現埼玉県川越市、喜多院)に移って、天海と改名。

1-3、天海、家康に招聘される

天海は、無量寿寺北院の住職となってから世に出たのですが、江戸崎不動院の住持も兼任だったということです。家康との出会いははっきりしないが、浅草寺の史料では、北条攻めのときには、天海は家康の陣中にいたそう。

この浅草寺の史料からは、天海は家康のために関東に赴いたとされているということで、天海は1599年、北院の住職となったのち、家康の参謀として伺候し、家康の健康や信仰的な問題、朝廷との交渉、お寺関係の役割まで担うことに。

2-1、天海の業績

徳川家康の晩年に深くかかわった天海の業績についてご紹介しますね。

2-2、天海、比叡山再興に貢献

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家康は、天海のことを「人中(にんちゅう)の仏なり」といって、たいへんな信頼を寄せるように。そして天海は1607年、比叡山探題執行を命じられて、南光坊に住居して信長の焼き討ちの後の延暦寺再興に関わり、1609年に権僧正に任ぜられ、延暦寺中興の祖と言われた功績をあげました。1612年には無量寿寺北院の再建に着手して、喜多院と改めて関東の天台宗の本山に。

そして1613年、家康から日光山貫主を拝命して、本坊、光明院を再興天海はまた、家康の最大の懸念だった大坂の豊臣家に対しての策謀にも加担、たとえば、秀吉供養のためになるといって、淀殿、秀頼をだまして方広寺などの全国の有名な大寺を次々と再建させ秀吉の莫大な遺産をつぎ込ませたり、大坂の陣の発端の方広寺鐘銘事件にも金地院崇伝とともに深く関与したといわれています。

2-3、天海、家康の神号をめぐって争い、ライバルに勝利

1616年、臨終間近となった家康は、天海らに自身の神号、葬儀に関する遺言をしたということです。そして家康の死後、黒衣の宰相と言われた金地院以心崇伝、本多正純らは、家康の神号を「明神」として古来からの吉田神道で祀るべきだと主張したが、天海は「権現」として自らの宗教の山王一実神道で祀ると主張。

天海は2代将軍秀忠に、豊臣秀吉には「豊国大明神」の神号が贈られたが、豊臣氏は滅亡したために「明神」は不吉と提言、一発で家康の神号は「東照大権現」と決定、崇伝も失脚(のちに復帰)したということ。なお、家康の遺体は最初に埋葬された久能山から日光山に改葬することに。

2-4、天海、江戸の街作りに尽力

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天海は、江戸城の築城、城下町である江戸の街の建設に深くかかわったといわれています。天台密教の僧侶なので、遁甲、天文、方術などの陰陽道の豊富な知識を駆使して、古代中国の陰陽五行説の「四神相応」の考えをもとに、西は伊豆から東は下総(現在の千葉県)までの広大な土地の地相を調べた結果、江戸が幕府の本拠地とするのにふさわしいと家康に進言したということ。

江戸城は築城名人の藤堂高虎らが中心となって縄張りしたのですが、天海は陰陽道の面から、徳川家の繁栄を考えた江戸の街つくりとして、鬼門封じなどを積極的に行ったそう。天海は、江戸城の内部を「の」の字型、渦郭式という構造にし、城を取り囲む掘も螺旋状に掘ることなどを助言。この「の」の字型の構造は、城を中心にして、時計回りで町が無限に拡大していくうえ、敵を城に近づけにくくする効果もあったということです。また、火災のときには類焼の広がりをおさえたり、船で物資を運びやすいとか、堀の工事で出た土砂を埋め立てに利用するという効果もあったそう。

天海は鬼門封じのために、北東に寛永寺を建立し東叡山と称して東の比叡山を意識させ、不忍池を琵琶湖に見たてて、竹生島をまねた弁財天を祀ったということで、寛永寺の側に上野東照宮を建立し、神田明神を湯島に移転させ、浅草寺も配置するなど万全を期したそう。

また江戸城の南西の裏鬼門には、もうひとつの将軍菩提寺の増上寺を配置し、日吉大社から分祀した日枝神社を移転。 江戸の街作りの工事が完成したのは、1640年、3代将軍家光時代で、すでに家康も藤堂高虎も他界していたが、天海は存命していて、50年近くかかった江戸の都市計画の初期から完成まで見届けたことに。

2-5、大蔵経の出版に尽力

天海は生前、日本での一切経とよばれる大蔵経の印刷と出版を企図し、天海が亡くなって5年後の1648年、天海が着手した「寛永寺版(天海版)大蔵経」が、幕府の支援により完成しました。これらの経典の出版は、日本の印刷文化史上で最も重要な業績といわれていて、天海が作製させた膨大な木製活字は天海版木活字とよばれ、26万個以上が現存しているそう。

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