今回は徳川光圀を取り上げるぞ。水戸黄門として有名ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川光圀について5分でわかるようにまとめた。

1-1、徳川光圀は水戸の生まれ

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Miyuki Meinaka - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

徳川光圀(とくがわみつくに)は、寛永5年(1628年)6月、水戸で生まれました。父は水戸徳川家初代藩主頼房で、母は谷重則(佐野信吉家臣、のち鳥居忠政家臣)の娘久子。光圀は頼房の3男。幼名は長丸、千代松、徳亮で、諱は光国、のちに光圀、字は子龍、号は梅里、おくり名は義公です。きょうだいは兄2人、弟が9人、姉妹が15人。なお、水戸藩主で水戸生まれは、光圀だけだそう。

image by PIXTA / 61462100

水戸徳川家とは
水戸徳川家は、光圀の父で家康の末子である頼房が初代藩主。水戸徳川家は御三家だが、頼房の兄たちの尾張家、紀州家が大納言で50万石の大大名なのにくらべて、水戸家は格下で26万石で権中納言でした。そして水戸藩は参勤交代が強制されず、藩主は江戸常駐(国元の水戸へは届け出制だったそう)のため副将軍といわれるように。

なお、水戸黄門の黄門は中納言の中国ふうの呼び方なので、厳密にいえば、光圀以外の中納言に任命された水戸藩主7人とも水戸黄門ということになりますね。

1-2、光圀の出生の秘密

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光圀は父頼房が25歳のときの生まれで、「桃源遺事」によれば、頼房は光圀の母の世話をしていた家老三木之次夫妻に久子の堕胎を命じたのに、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させて光圀を養育しました。光圀の母久子は奥付きの老女の娘で正式な側室ではなかったが、光圀の6歳上の頼房長男頼重も生んでいて、この長男頼重についても父頼房は堕胎を命じたが、奥付老女だった三木之次の妻が頼房の養母で家康の側室だった英勝院と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産させたのち、ひそかに京都に送られ、後には高松で育てられていたということ。

しかし頼重と光圀の間にうまれた、別の女性との間の子供たちには堕胎命令はなく、この光圀兄弟への処置は謎とされていて、光圀の回想によれば、母久子に後ろ盾がなかったから、また頼房はまだ正室がいなかった(結局正室は迎えなかった)が側室のお勝(円理院、佐々木氏)の機嫌を損ねたからではと推測されているそう。
ということで、光圀兄弟が初めて会ったのは頼重12歳、光圀6歳になってから。

1-3、光圀の子供時代

「西山遺文」によれば、光圀の幼少時は三木夫妻の子または孫として育てられ、「玄桐筆記」には生誕後間もない光圀と頼房が対面したらしい逸話も記述、数ある光圀の伝記史料には、幼少時から非凡な才を示した逸話があるということです。

そして1632年、光圀は5歳で水戸城に迎えられて、翌年には跡継ぎに決定。翌月には江戸の水戸藩上屋敷の小石川邸に送られ、世子として教育を受けるように。跡継ぎ内定は、父頼房の付家老である中山信吉が水戸へ下向して行われ、頼房と一緒に育ち頼房の1歳違いの甥にあたる3代将軍家光、父頼房の養母英勝院の意向も反映されたそう。

そして1634年、7歳の光圀は義祖母である英勝院に伴われて江戸城で将軍で従兄でもある家光にお目見えしました。

1-4、光圀、不良少年となったが、改心

光圀は9歳になった1636年に元服して、将軍家光から偏諱を与えられて光国と名乗りました。この年に水戸家家臣の伊藤友玄、小野言員、内藤高康の3人が傅役となり、水戸藩の有能な家老だった山野辺義忠も光圀の養育に尽力。

まだ戦国の気風が残っていたのか、光圀は7歳で、暗夜にたった1人で邸内の桜ノ馬場まで、斬罪となっていた囚人のさらし首を取りに行かされ12歳で、汚物や死体が流れる浅草川を泳いで横断というスパルタ教育を受けたそう。兄の頼重は温和な性格だが、光圀は粗暴だったという話もあって、16~17歳になると、いわゆる不良少年に成長。

光圀は、木綿の小袖にビロードの襟、帯を腰に巻き付けた派手な服装をして江戸の街を練り歩き、行儀も悪い「かぶきもの」だったということで、父の教訓(頼房も若いころはかぶき者だったそう)に耳を貸さずに、自由奔放にふるまっていたとのことです。その頃の光圀は大変な美男子で、登城の日は光圀見たさの群衆が江戸城近くに人垣を作り、騒動になったことがあったほどという話も。光圀自身は、兄頼重を差し置いて跡継ぎになったことなどで複雑な思いがあったらしく、吉原遊廓通いも頻繁にし、さらには刀を振り回して辻斬りを行うまでになったので、傅役が「小野言員諫草」を書いて自省を求めたそう。

しかし光圀は18歳のときに、司馬遷の「史記」の伯夷伝を読んで感銘を受け、別人のように勉学に打ち込むように。そして19歳で上京した侍読の人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合って以後も交流。人見卜幽は光圀について、朝夕文武の道に励む向学の青年と話したということです。

1657年には、明暦の大火の直後に駒込邸で史局を設け、大日本史の編纂に取り掛かることに。

\次のページで「1-5、光圀、藩主に就任」を解説!/

1-5、光圀、藩主に就任

1661年7月、父頼房が水戸城で死去。光圀は33歳になっていたが、父の頼房を自ら看病し、死去後は3日も食事をしなかったということ。

また、父頼房が家臣の殉死を禁じたため、光圀は殉死をしそうな家臣の家をひとつずつまわって説得、殉死を阻止したという話があります。なお、幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後。

8月には光圀は正式に水戸藩28万石の2代藩主となったが、「桃源遺事」では、この前日、兄頼重と弟たちに、兄の長男松千代(綱方)を養子にして跡継ぎにしなければ、自分は家督相続を断って、遁世すると宣言。兄弟は光圀を説得したが、光圀の意志が固かったために弟たちは頼重を説得し、頼重もやむなく承諾。綱方は2年後、正式に光圀の養子となり、その数か月後に光圀の実子頼常が頼重の養子となったということで、その後綱方が早世したので次男の綱條(つなえだ)が養子となったそう。また、弟頼元に那珂郡2万石、頼隆に久慈郡2万石を分与して支藩に。

2-1、光圀の治世

後々まで名君と言われ、色々な業績を残しています。

2-2、水戸の街の水道を整備

光圀は、藩主就任直後の1662年に、町奉行望月恒隆に命じて水戸に水道を設置しました。水戸の下町は頼房時代に造営されたが、もともと湿地帯だったので井戸水が濁り、飲料水に不自由だったそう。町奉行の望月は、笠原不動谷の湧水を水源に、笠原から細谷までの全長約10kmを埋設した岩樋でつないだ笠原水道を着工することに。敷設は永田勘衛門とその息子が担当して約1年半で完成。その後も改修を重ねて、明治時代になって近代的な水道が整備されるまで利用されたということです。

2-3、「大日本史」編纂事業の開始

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papakuro - 投稿者が撮影, CC 表示 3.0, リンクによる

光圀は18歳のときに「史記」伯夷伝を読んで感銘を受けた経験から、紀伝体の日本の史書の編纂を考案しました。紀伝体の史書の編纂で歴史を振り返って物事の善悪や行動の指針とし、儒教の正名論にもとづき、個人が歴史でどのような役割を果たしたかを明らかにして、ふさわしい名をその人物に与えようとしたのですね。また、光圀は太平の世のため武名が立てられないので、書物を編纂すれば後世に名が残るかもと手紙に書いているということで、後世に名を残したい思いも。

そして前述のように、まだ藩主になる前の1657年、明暦の大火の直後に、駒込邸(小石川の上屋敷が被災したときの別荘的役割だった水戸藩邸)に史局を設置し、紀伝体の歴史書史稿「大日本史」の編纂作業に着手。当初の史局員は4名、林羅山門下で水戸藩に仕えていた人見卜幽、辻端亭などで、大火で多くの書籍、諸記録が失われ、光圀も親交があった幕府おかかえの儒者林羅山が蔵書を焼失して落胆のあまりに亡くなり、衝撃を受けたために早急に手を打ったということ。

その後、藩主に就任した翌年、修史事業を本格化し、1672年、駒込邸内の史局を小石川邸内に移して「彰考館」と名付け、正式な編纂局となったということ。その後は史館員を派遣して史料調査も行い、訪問先の神社仏閣、通過、滞在する藩や旗本領なども協力、派遣員が歓迎されて手厚く接待という記録も残っているそう。

編纂事業は光圀が隠居後も続けられ、生前に完成を希望した光圀のために、「大日本史」の根本部分は出来上がっていたが、完成したのはなんと光圀の死後250年後、明治になってからのことで、この光圀の歴史編纂事業は後に水戸学と呼ばれ、水戸藩からは学者、思想家が輩出して幕末明治維新への多大な思想的影響も与えることに。

なお、この「大日本史」編纂に多大な費用注ぎ込んだせいで、初代藩主の頃から苦しかった水戸藩の財政はさらに苦しくなり、光圀の治世の後期には財政難が表面化し、財政改革が何度も行われたが失敗、一揆や逃散も頻繁に起るなど、その後も水戸藩の財政を苦しめることに。

2-4、寺社改革を行う

光圀は1663年に水戸藩領内の寺社改革に乗り出し、村単位で開基帳を作成させました。そして1665年には寺社奉行2人を任じて、翌年に寺社の破却、移転などを断行。開基帳には2377寺が記されているが、この約半分が、不行跡などで処分され、神社については、神仏分離を徹底するために僧を別院に住まわせたということ。

また、特定の寺院宗派に属さない藩士の共有墓地を水戸上町と下町それぞれに造成。そして由緒正しい寺院を支援、保護し、神主を京都に派遣して神道を学ばせ、静神社、吉田神社などの修造を助けたということです。

\次のページで「2-5、朱舜水を招聘」を解説!/

2-5、朱舜水を招聘

1665年、光圀は日本に亡命してきた明の遺臣朱舜水を招聘して師事しました。朱舜水は、実理を重んじる実学派で、儒学と実学をむすびつけた学風が、その後の水戸藩の学風になったそう。

2-6、蝦夷地探検

光圀は、1684年ごろから、建造した巨船快風丸を使い蝦夷地探検を3度行ったということです。3度目は1688年に出航し、松前から北上して石狩まで到達して米、麹、酒などと引き換えて手に入れた塩鮭、熊皮、トド、ラッコの皮などとともに帰還。水戸藩ではこの経験から、幕末に至るまで蝦夷地に強い関心を持つことに。

しかし、この航海は藩主が光圀のために幕府が黙認していたようで以降は行われず、光圀の死後快風丸も解体されたそう。

2-7、徳川御三家の長老として、幕府にも存在感があった

光圀は、4代家綱の死後、宮将軍になりかけたときには綱吉を将軍に押したので、綱吉としては恩を感じていたが、光圀は生類憐みの令などについて、綱吉に直接苦言を呈することがあったためか、次第に疎まれるようになったそう。

また1684年、大老堀田正俊が稲葉正休に刺殺されたあと、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害されたとき、光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒、この幕閣の対応に強い不信を抱いたということです。

3-1、光圀、ご隠居に

1690年10月、幕府から隠居の許可がおり、兄の子である養嗣子の綱條が水戸藩主を継承。光圀は11月末に江戸を立って5か月ほど水戸城に滞在し、翌年の5月に、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所の西山荘に隠棲することに。

3-2、光圀、古墳の発掘調査、楠公の墓を建造

1690年、光圀は、水戸藩領那須郡馬頭村近隣の湯津上村で旗本領にあった那須国造碑の周辺の土地を買い取って、碑の修繕、鞘堂を建設。碑のそばの古墳を那須国造の墓と推定して日本初の学術的発掘調査を行い、出土品は絵師に描き取らせ、厚い松板の箱に入れて古墳内におさめたということです。

そして同年4月には、佐々十竹を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川に派遣、楠木正成を讃える「嗚呼忠臣楠氏之墓」墓を建造。また1693年から数年間、水戸藩領内で、神仏習合神である八幡社を整理して神仏分離を目的とした、八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる神社整理を行ったそう。

3-3、光圀、藤井紋太夫をお手討ちに

1694年3月に光圀は、5代将軍綱吉の命で隠居後初めて江戸にのぼって小石川藩邸に入り、11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を手討ちに

紋太夫は池田家の家老の荒尾家と親戚で光圀が重用したのだが、光圀は自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後に突然殺害したということ。幕府に出された届出では、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せ、家臣の間に不安があったためとされているそう。また、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったなどの憶測も。

光圀は1696年12月、21歳で亡くなった正室泰姫の命日に落飾、72歳頃から食欲不振となり、1701年1月、食道癌のため74歳で死去。

\次のページで「4-1、光圀の逸話」を解説!/

4-1、光圀の逸話

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不明 author - 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

光圀は、学者肌だったようですが、様々な逸話をご紹介しますね。

4-2、日本で初めて食べたものが多い

光圀は、かなり好奇心が強い人だったらしく、日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるもの、チーズ、餃子、牛乳酒、黒豆納豆などで、ラーメンも光圀が最初と言われてきたのですが、2017年に、光圀より200年以上前の京都の相国寺の僧の日記「蔭涼軒日録」に、ラーメンのルーツの経帯麺を食べた記述が発見されたそう。

また光圀は仏教のせいで肉食が忌避され、5代将軍徳川綱吉の生類憐れみの令があったというのに、牛肉、豚肉、羊肉なども食べていたということで、生類憐みの令を批判するために、野犬20匹(50匹説)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという話も創作されることに。

光圀は南蛮渡来品にも関心があり、オランダ製の靴下で日本最古となるメリヤス足袋を履き、ワインを愛飲、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せて育てるなどし、蝦夷地(後の石狩国)探索のためにアフリカ系黒人を2人雇って家臣としたそう。

そして亡命してきた明の儒学者・朱舜水が献上した中華麺をもとにして、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、うどん作りを趣味にしたそうで、汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとり、薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使った現在のラーメンで、光圀は「後楽うどん」という名をつけ、後に西山荘で客人や家臣らにふるまったといわれています。

4-3、「水戸黄門漫遊記」はフィクション

テレビの時代劇の「水戸黄門」では、越後のちりめん問屋の隠居として日本全国を諸国漫遊しているが、実際の光圀は水戸と江戸の往復、越後のお寺とか、鎌倉の養祖母英勝院の菩提寺(英勝寺)に数度足を運んだ程度だそう。

なのになぜ「水戸黄門漫遊記」が創作されたかといえば、光圀が、「大日本史」のために、彰考館の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行ったこと、光圀は名君として名高く、身近に学者が多いため伝記も多く書かれたのでなおのこと名君としての事績が広まったこと、などがベースにあるということで、幕末に、ある講談師が光圀の伝記や十返舎一九作の滑稽話「東海道中膝栗毛」などを参考に「水戸黄門漫遊記」を創作、「天下の副将軍」がお供の俳人を連れて諸国漫遊して世直しをする内容は大変な人気作になったのですね。そして明治後に、大阪の講釈師玉田玉知が、お供を俳人ではなく家臣の助さん格さんに改変。

なお、助さん、格さんのモデルは、史料集めに派遣された家臣の佐々十竹(佐々宗淳)と、彰考館総裁だった安積澹泊(あさかたんぱく、覚兵衛)の二人だそう。

水戸家に生まれ、ちょい悪だったが立ち直って名君となり、「水戸黄門」で人気者になった

徳川光圀は、徳川家康の末息子で水戸の初代藩主の頼房の次男として生まれ、跡継ぎに決定。が、生まれる前に水子にされる運命だったことや、兄を差し置いて跡継ぎに選ばれたことなどで複雑な心境だったのか、ティーンエイジャーの頃にぐれて不良少年に。

吉原通い、辻斬りまでやったものの、もともとは優秀な人だったため、ある日伯夷伝の話を読んだことでコロッと態度を改めて勉学に励むようになり、藩主就任後は後々まで讃えられるような名君となりました。光圀は兄を差し置いて当主を継承したことを、分家の支藩高松藩をたてた兄の息子と自分の息子の交換継承で折り合いをつけ、また不良の自分が立ち直ったきっかけの学問奨励のため、彰考館を建てて「大日本史」編纂事業を行うことに。これが幕末には「水戸学」として明治維新に多大な影響を与えることになったのですね。

そしていまでは学者の書いた光圀の伝記を参考に、「水戸黄門」として創作物の中で世直しのために悪代官たちと戦う正義の味方、お茶の間のアイドルに。本人は歴史に名を残したかったようなので、明治維新への影響も現代の自分の人気と名声にも満足しているかも。

" /> 水戸藩二代目藩主「徳川光圀(水戸黄門)」の生涯をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
日本史歴史江戸時代

水戸藩二代目藩主「徳川光圀(水戸黄門)」の生涯をわかりやすく歴女が解説

今回は徳川光圀を取り上げるぞ。水戸黄門として有名ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川光圀について5分でわかるようにまとめた。

1-1、徳川光圀は水戸の生まれ

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Miyuki Meinaka投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

徳川光圀(とくがわみつくに)は、寛永5年(1628年)6月、水戸で生まれました。父は水戸徳川家初代藩主頼房で、母は谷重則(佐野信吉家臣、のち鳥居忠政家臣)の娘久子。光圀は頼房の3男。幼名は長丸、千代松、徳亮で、諱は光国、のちに光圀、字は子龍、号は梅里、おくり名は義公です。きょうだいは兄2人、弟が9人、姉妹が15人。なお、水戸藩主で水戸生まれは、光圀だけだそう。

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水戸徳川家とは
水戸徳川家は、光圀の父で家康の末子である頼房が初代藩主。水戸徳川家は御三家だが、頼房の兄たちの尾張家、紀州家が大納言で50万石の大大名なのにくらべて、水戸家は格下で26万石で権中納言でした。そして水戸藩は参勤交代が強制されず、藩主は江戸常駐(国元の水戸へは届け出制だったそう)のため副将軍といわれるように。

なお、水戸黄門の黄門は中納言の中国ふうの呼び方なので、厳密にいえば、光圀以外の中納言に任命された水戸藩主7人とも水戸黄門ということになりますね。

1-2、光圀の出生の秘密

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光圀は父頼房が25歳のときの生まれで、「桃源遺事」によれば、頼房は光圀の母の世話をしていた家老三木之次夫妻に久子の堕胎を命じたのに、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させて光圀を養育しました。光圀の母久子は奥付きの老女の娘で正式な側室ではなかったが、光圀の6歳上の頼房長男頼重も生んでいて、この長男頼重についても父頼房は堕胎を命じたが、奥付老女だった三木之次の妻が頼房の養母で家康の側室だった英勝院と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産させたのち、ひそかに京都に送られ、後には高松で育てられていたということ。

しかし頼重と光圀の間にうまれた、別の女性との間の子供たちには堕胎命令はなく、この光圀兄弟への処置は謎とされていて、光圀の回想によれば、母久子に後ろ盾がなかったから、また頼房はまだ正室がいなかった(結局正室は迎えなかった)が側室のお勝(円理院、佐々木氏)の機嫌を損ねたからではと推測されているそう。
ということで、光圀兄弟が初めて会ったのは頼重12歳、光圀6歳になってから。

1-3、光圀の子供時代

「西山遺文」によれば、光圀の幼少時は三木夫妻の子または孫として育てられ、「玄桐筆記」には生誕後間もない光圀と頼房が対面したらしい逸話も記述、数ある光圀の伝記史料には、幼少時から非凡な才を示した逸話があるということです。

そして1632年、光圀は5歳で水戸城に迎えられて、翌年には跡継ぎに決定。翌月には江戸の水戸藩上屋敷の小石川邸に送られ、世子として教育を受けるように。跡継ぎ内定は、父頼房の付家老である中山信吉が水戸へ下向して行われ、頼房と一緒に育ち頼房の1歳違いの甥にあたる3代将軍家光、父頼房の養母英勝院の意向も反映されたそう。

そして1634年、7歳の光圀は義祖母である英勝院に伴われて江戸城で将軍で従兄でもある家光にお目見えしました。

1-4、光圀、不良少年となったが、改心

光圀は9歳になった1636年に元服して、将軍家光から偏諱を与えられて光国と名乗りました。この年に水戸家家臣の伊藤友玄、小野言員、内藤高康の3人が傅役となり、水戸藩の有能な家老だった山野辺義忠も光圀の養育に尽力。

まだ戦国の気風が残っていたのか、光圀は7歳で、暗夜にたった1人で邸内の桜ノ馬場まで、斬罪となっていた囚人のさらし首を取りに行かされ12歳で、汚物や死体が流れる浅草川を泳いで横断というスパルタ教育を受けたそう。兄の頼重は温和な性格だが、光圀は粗暴だったという話もあって、16~17歳になると、いわゆる不良少年に成長。

光圀は、木綿の小袖にビロードの襟、帯を腰に巻き付けた派手な服装をして江戸の街を練り歩き、行儀も悪い「かぶきもの」だったということで、父の教訓(頼房も若いころはかぶき者だったそう)に耳を貸さずに、自由奔放にふるまっていたとのことです。その頃の光圀は大変な美男子で、登城の日は光圀見たさの群衆が江戸城近くに人垣を作り、騒動になったことがあったほどという話も。光圀自身は、兄頼重を差し置いて跡継ぎになったことなどで複雑な思いがあったらしく、吉原遊廓通いも頻繁にし、さらには刀を振り回して辻斬りを行うまでになったので、傅役が「小野言員諫草」を書いて自省を求めたそう。

しかし光圀は18歳のときに、司馬遷の「史記」の伯夷伝を読んで感銘を受け、別人のように勉学に打ち込むように。そして19歳で上京した侍読の人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合って以後も交流。人見卜幽は光圀について、朝夕文武の道に励む向学の青年と話したということです。

1657年には、明暦の大火の直後に駒込邸で史局を設け、大日本史の編纂に取り掛かることに。

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