今回は結城秀康を取り上げるぞ。家康の次男なのに2代将軍にならなかったのか、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを伏見桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、伏見桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、結城秀康について5分でわかるようにまとめた。

1-1、結城秀康は遠江の国の生まれ

結城秀康(ゆうきひでやす)は、天正2年(1574年)2月、遠江国敷知郡宇布見村(現静岡県雄踏町)で生まれました。

父は徳川家康で、母は側室のお万の方(三河国池鯉鮒明神の社人永見吉英(ながみ)の娘(通称おこちゃ、小督局、長勝院)で、家康の次男です。兄弟は兄信康、異母弟たちは2代将軍秀忠以下9人(夭折2人)で、姉2人妹3人。幼名は於義伊、於義丸で、元服して秀康。

1-2、秀康の子供時代

image by PIXTA / 11944302

秀康の母お万は、家康の正室築山殿付きの女中で、築山殿はかなり嫉妬深いとされています。そしてお万が家康の子供を身ごもったと知るとお万をせっかんして夜も木に縛り付けたまま庭に放置したそう。

偶然、泣き叫ぶお万を見つけた家康家臣本多重次がお万を保護して出産させ、家康に報告したが、秀康が生まれても関心を寄せなかったという話。そして重次が描いた秀康の似顔絵をちらっと見た家康が、魚のギギ(ナマズっぽく、全然かわいくない顔の淡水魚)に似ているといったために、於義伊、於義丸と名付けられ、葵の紋の産着は与えたが、ひきつづき本多作左衛門重次(しげつぐ)が養育していました。

その後3歳になっても家康が対面しないので(息子と認知しないという意味)、本多重次が家康の長男の信康に相談したところ、16歳年上の兄信康はそんな弟がいると知って憐れんで、父家康と秀康との対面に一役買い、家康はしょうがなく認知したといわれています。

秀康冷遇の理由とは
家康は後には多くの子供が出来ましたが、このときは31歳で長男の信康と娘が2人だけでした。家康が秀康をなかなか認知しなかった理由は、正室で年上、それに今川家の親戚で気位の高かったという築山殿の嫉妬を恐れた、またはお万に愛情がなかったために実子かどうか疑った、そして秀康は双子で、当時は双子が忌み嫌われていたためということだそう。

なお、秀康の双子の弟を家康は実子として認めなかったので、夭折したとして母お万の方の実家の永見家に預けられて育ち、永見貞愛と名乗り、伯父から譲られて知立神社の神職となったという話もあるそう。

また当時の家康は、武田勝頼との戦いの最中だったため、それどころではなかったのではという研究も。

2-1、秀康、秀吉の養子に

1579年、徳川家では、武田勝頼との内通疑惑などがあったとして、21歳の異母兄信康が家康の命令で切腹、正室の築山殿も家康の命令で殺害される事件がぼっ発。この事件は信長の命令で切腹となったといわれていましたが、岡崎城の信康、浜松城の家康とその家臣との対立で、徳川家(当時は松平)のお家騒動という説も。

当時次男の秀康は5歳で、家康の跡継ぎになるはずなのですが、1584年、小牧、長久手の合戦後、家康と羽柴秀吉との和睦の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子という名の人質として差し出されることに。そして家康の後継者は秀康の5歳下で生まれたばかりの異母弟の長松(秀忠)に決定。これは秀忠の生母西郷の局のほうが秀康の母お万の方よりも良い家の出身だったことや、家康は西郷の局を寵愛していたなどが要因。

\次のページで「2-2、秀康、秀吉に可愛がられて成長」を解説!/

2-2、秀康、秀吉に可愛がられて成長

秀康は、父家康より「童子切」の刀と采配を餞別にもらい、傅役の小栗大六(小栗重国)、小姓の石川勝千代、本多仙千代がつき従って大坂へ。

1584年12月、羽柴秀吉の養子となって、すぐに元服式が行われ、家康と秀吉の一字ずつもらって「羽柴三河守秀康」と名乗り、河内(かわち)(現大阪府)に1万石を与えられました。秀吉はスキンシップが上手な人で、北政所寧々も秀康を可愛がったため、疎遠だった実父の家康よりも秀康は秀吉を親しく思ったということ。

その後の秀康は1587年の九州征伐で初陣を飾って豊前岩石城攻めで先鋒をつとめ、日向国平定戦でも抜群の戦功をあげ、1588年、豊臣姓を下賜されたということで、1590年の小田原平定、1592年からの文禄、慶長の役でも秀吉について名護屋へ行ったが、実戦には参加せず。

2-3、秀康、結城家の養子に

しかし1589年、秀吉と淀殿に鶴松がうまれ、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者としたため、秀康は他の養子たちと同様に、他家に養子に出されることに。そこで北関東の名家である結城晴朝に子供がなく養子を求めてきたために、秀吉は家康の了承を得て、秀康を結城家の養子とすることに。

15歳の秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の養女(姪)と結婚し、結城氏の家督と結城領11万1000石を継承。また改めて羽柴姓を賜って官位をもらって羽柴結城少将と呼ばれたそう。しかし秀康は領地にはいかず、伏見城で養父秀吉の病床につきっきりだったということです。

なお、1590年、実父の家康は、駿遠三甲信から、関東一円(旧北条領)に国替えされて240万石となったが、秀康が結城氏を継いだことで、家康への加増にもなったということに。

2-4、石田三成襲撃事件での秀康

Katana - Masamune.jpg
Kakidai - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

秀吉が病死後の1599年閏3月、五大老筆頭の前田利家が病死したが、加藤清正、福島正則、細川忠興、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がぼっ発。三成はこのときに家康の屋敷に逃げ込んだといわれているが、これは定かではなく、この後、三成と加藤清正らは伏見城内外でにらみあいとなり、仲裁に乗り出した家康によって和談が成立、三成は五奉行をやめて佐和山城に帰城することになりました。

この際、家康の命令で秀康と堀尾吉晴が三成を瀬田まで警護、秀康は自分が弟の秀頼を守ると言い、弟に危害を加える者は許さないと言ったために、三成は感激、正宗の刀を秀康に贈ったということで、この名刀はその後も「石田政宗」として秀康子孫の津山松平家に伝わったそう(現在は東京国立博物館蔵)。

2-5、関ヶ原合戦前夜の秀康

そして秀康は関ヶ原前哨戦の会津征伐に加わり、父家康とともに会津へ向かったが、小山評定の後、本隊は家康が東海道から、弟の秀忠が率いた別隊が中山道から進軍することになり、秀康は上杉景勝の抑えとして宇都宮にとどまることになりました。

これは家康が秀康の器量を見込んでおこなった配置といわれますが、秀康が戦場で活躍して手柄を立てると秀忠の影が薄くなる、または加藤清正らとおなじく、秀吉恩顧の気持ちの強い秀康を戦場にいかせたくないという処置だったという見方もあるそう。

2-6、秀康、越前68万石に加増

image by PIXTA / 35633061

関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1000石から越前北庄68万石に加増移封。秀康は雪国に閉じ込められると不満だったそうですが、1601年に初入国し、北庄城(のちに福井城)の修築、城下町の建設にとりかかり、現在の福井の基礎がここに築かれることに。1604年、結城氏から松平氏に復帰が赦されました。

秀康は1605年、権中納言となり、翌年は伏見城の留守居となったが、発病して職務ができなくなったため、1608年3月に越前へ帰国し、閏4月に34歳で死去。死因は梅毒ではという説。

3-1、秀康の逸話

Yūki Hideyasu.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

武将としての評価が高かったということで、色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、本多重次、兄信康らの恩を忘れず

合戦の際、敵味方を区別する越前家の合印「剣大」は、秀康を育ててくれた本多重次の忠義を代々忘れないために、本多の「本」という字を二つに分けたもので、「大」を合印とし「十」は槍の鞘の形で、父家康との対面を取りはからった異母兄信康から授かったものだということ。この合印は越前から越後、津山へと秀康の子孫へと継承されました。

また秀康の誕生地は、今川氏以来、代官や浜名湖周辺の船、兵糧奉行だった領主中村正吉の屋敷でしたが、秀康子孫の歴代の福井藩主は参勤交代の際にはこの中村屋敷に立ち寄り、供応を受ける慣例だったそう。

3-3、無礼討ちもほめられる

image by PIXTA / 54008259

秀康は、まだ10代だった秀吉の人質のころ、伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の家臣が秀吉の馬に調教のために駆けさせて、秀康に馬首を並べて並走したため、身分の高い秀康は無礼者と乗馬のまま刀を振るって無礼討ちに。しかし秀吉は、「自分の養子をないがしろにするのは、自分に無礼を働いたのと同じだ。秀康も乗馬のまま刀の使い方がうまいじゃないか」と褒め称えたそう。


また後々のこと、秀康が鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして碓氷峠の関所で関守に止められ、秀康は徳川家中で別格扱いであるのに知らなかったという関守を不届きだ成敗すると脅したため、関守は江戸にお伺いを立てたということもあったのですが、それを聞いた江戸の秀忠は、秀康に殺されなかっただけ幸いだと言ったそう。

3-4、カリスマ性もあったが、戦場では発揮できず

秀康の武将としての器量は周囲からも認められていて、剛毅で体格も良かったということで、あるとき、秀康が父家康と伏見城で相撲観戦中、一般人観客が熱狂して騒ぎ始めたが、秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけたところ、秀康の威厳のある姿に威嚇され、騒ぎは一瞬で静まった話があります。これには家康も驚いたということです。

また、伏見城で行われた秀忠の将軍就任祝いの席で、上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとしたところ、秀康と景勝は同じ権中納言だが景勝の方が任官がはやかったからと、秀康も景勝に上座を譲ろうとしたので、譲り合いになってしまい、結局秀忠が裁定して秀康が上座になったそう。人々は秀康の礼節と謙譲に感心したということです。

3-5、徳川重臣たちの評価も高かった

1600年、大坂城西ノ丸で家康が重臣たちに、どの息子を後継者にすればいいか質問したのですが、本多正信は秀康を後継にすべきだと主張し、大久保忠隣は秀忠を支持したといわれています。

また、旗本の永井直清が、三成挙兵の一報が小山の陣に届いたとき、「秀忠は物を案ずる体に、秀康はにこにこ笑い、忠吉(秀忠の同母弟で早世)はいきりて高名せんとよろこびたまう」という様子だったということで、家臣から見ると秀忠はせっかく家康から譲られる天下が取られちゃうかも、秀康はこの機に天下をとってやろうという気が見えたという、性格の違いがあらわれた反応だそう。

\次のページで「3-6、家康、秀忠が非常に気を使っていた」を解説!/

3-6、家康、秀忠が非常に気を使っていた

家康は秀康が生まれたときから疎遠にしていたが、秀吉のもとで秀康が成長し、なかなかの武将となったことで、秀康の機嫌を損ねて内紛が起こらないよう、かなり気を使ったということです。そしてそれは兄を差し置いて跡継ぎとなった秀忠にも家康が言い聞かせたようで、秀康が江戸へ来る際には、秀忠は品川宿まで迎えに来て、籠に乗った兄秀康を先に行かせようとし、また秀康は秀忠を先に行かせようとして、ついには2台の籠が並んで進んだという話があるそう。

秀康亡き後、残された遺児のなかで次男忠昌は秀忠が引き取って育て、長女喜佐姫は秀忠の養女として毛利家に嫁いだということです。

3-7、秀康の子孫

結城家は秀康の遺言で、後に5男の直基が継ぎ松平姓となり、直基は勝山藩3万石から大野藩5万石へ、山形藩15万石から姫路藩15万石と転封となり、姫路入りの直前に死去。また徳川将軍家一門として嫡子の松平忠直(お家騒動で後に強制隠居に)が継承し、忠直は秀忠の3女で従妹の勝姫と結婚。秀康の子の5人の男子は徳川将軍家の御家門の越前松平家となり明治維新まで続きました。

3-8、宮将軍候補の義理の曽祖父

4代将軍家綱が跡継ぎの子供なくして危篤になったとき、老中酒井忠清は鎌倉時代に将軍源実朝の死後に宮将軍を迎えた例により、家綱の祖父秀忠の兄の秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、堀田正俊の反対にあって実現しなかった宮将軍擁立説があります。

この宮将軍候補となった有栖川幸仁親王は後西天皇の皇子で高松宮(有栖川宮)好仁親王の養子で、好仁親王妃が秀康の嫡子の忠直の娘であったが、秀康とは血はつながっていなかったそう。

3-9、結城家の埋蔵金伝説

秀康の継承した結城家には埋蔵金伝説があり、知名度は低いが、埋蔵金マニアの間にはよく知られているそう。

この財宝は、結城家の初代朝光(ともみつ)が源頼朝に従って奥州藤原氏を滅ぼした際の恩賞の平泉の黄金で、秀康が越前北の庄に転封となり、松平姓に復姓したために結城城は廃城となり結城家は断絶となると思った、秀康の義父の17代の結城晴朝が、現在の茨城県結城市か栃木県下野市の旧結城領に埋蔵したという話です。

結城市の晴朝が建てた金光寺の山門に彫られた和歌や絵の意味を解読すれば、財宝のありかがわかるといわれていて、この財宝を徳川家康や、なんと大岡越前守も探したという話があり、結城家の重臣が書き残した古文書によると、重さ約8キロの金の延べ棒2万5千本、30キロの砂金入りの樽108個などとなっているそう。

徳川家康の次男だが、武将としての実力を発揮できる機会がなかった

結城秀康は、徳川家康の次男として生まれたが、女中に手を付けただけの家康は父として自覚なく、なかなか認知してもらえず、16歳違いの兄信康のおかげでようやく3歳で認知された人。

そして秀吉との同盟で人質として送られたところ、秀吉、北政所に可愛がられたため、実父家康よりも養父秀吉に対しての肉親の情が強くなったそう。その後は家康の後継者と決定していた弟秀忠を超えないようにとの配慮から、関ヶ原でも東北の抑えで合戦に出させてもらえず、家康も秀忠も秀康を怒らせまいとけっこう気を使っていたということ。秀康は武将としての色々な逸話もあり、カリスマ性もあり家臣にも尊敬されたようだが、結局、合戦で華々しい活躍をすることはありませんでした。

秀吉亡き後、自分が兄として秀頼を守ると公言していたのですが、残念ながら関ヶ原の合戦後、大坂の陣の前に若くして亡くなり、もう少し長生きしていれば歴史も変わったかもという武将のひとりとして記憶されることに。

" /> 3分で簡単家康の次男「結城秀康」の生涯!わかりやすく歴女が解説 – Study-Z
安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単家康の次男「結城秀康」の生涯!わかりやすく歴女が解説

今回は結城秀康を取り上げるぞ。家康の次男なのに2代将軍にならなかったのか、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを伏見桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、伏見桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、結城秀康について5分でわかるようにまとめた。

1-1、結城秀康は遠江の国の生まれ

結城秀康(ゆうきひでやす)は、天正2年(1574年)2月、遠江国敷知郡宇布見村(現静岡県雄踏町)で生まれました。

父は徳川家康で、母は側室のお万の方(三河国池鯉鮒明神の社人永見吉英(ながみ)の娘(通称おこちゃ、小督局、長勝院)で、家康の次男です。兄弟は兄信康、異母弟たちは2代将軍秀忠以下9人(夭折2人)で、姉2人妹3人。幼名は於義伊、於義丸で、元服して秀康。

1-2、秀康の子供時代

image by PIXTA / 11944302

秀康の母お万は、家康の正室築山殿付きの女中で、築山殿はかなり嫉妬深いとされています。そしてお万が家康の子供を身ごもったと知るとお万をせっかんして夜も木に縛り付けたまま庭に放置したそう。

偶然、泣き叫ぶお万を見つけた家康家臣本多重次がお万を保護して出産させ、家康に報告したが、秀康が生まれても関心を寄せなかったという話。そして重次が描いた秀康の似顔絵をちらっと見た家康が、魚のギギ(ナマズっぽく、全然かわいくない顔の淡水魚)に似ているといったために、於義伊、於義丸と名付けられ、葵の紋の産着は与えたが、ひきつづき本多作左衛門重次(しげつぐ)が養育していました。

その後3歳になっても家康が対面しないので(息子と認知しないという意味)、本多重次が家康の長男の信康に相談したところ、16歳年上の兄信康はそんな弟がいると知って憐れんで、父家康と秀康との対面に一役買い、家康はしょうがなく認知したといわれています。

秀康冷遇の理由とは
家康は後には多くの子供が出来ましたが、このときは31歳で長男の信康と娘が2人だけでした。家康が秀康をなかなか認知しなかった理由は、正室で年上、それに今川家の親戚で気位の高かったという築山殿の嫉妬を恐れた、またはお万に愛情がなかったために実子かどうか疑った、そして秀康は双子で、当時は双子が忌み嫌われていたためということだそう。

なお、秀康の双子の弟を家康は実子として認めなかったので、夭折したとして母お万の方の実家の永見家に預けられて育ち、永見貞愛と名乗り、伯父から譲られて知立神社の神職となったという話もあるそう。

また当時の家康は、武田勝頼との戦いの最中だったため、それどころではなかったのではという研究も。

2-1、秀康、秀吉の養子に

1579年、徳川家では、武田勝頼との内通疑惑などがあったとして、21歳の異母兄信康が家康の命令で切腹、正室の築山殿も家康の命令で殺害される事件がぼっ発。この事件は信長の命令で切腹となったといわれていましたが、岡崎城の信康、浜松城の家康とその家臣との対立で、徳川家(当時は松平)のお家騒動という説も。

当時次男の秀康は5歳で、家康の跡継ぎになるはずなのですが、1584年、小牧、長久手の合戦後、家康と羽柴秀吉との和睦の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子という名の人質として差し出されることに。そして家康の後継者は秀康の5歳下で生まれたばかりの異母弟の長松(秀忠)に決定。これは秀忠の生母西郷の局のほうが秀康の母お万の方よりも良い家の出身だったことや、家康は西郷の局を寵愛していたなどが要因。

\次のページで「2-2、秀康、秀吉に可愛がられて成長」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: