日本史歴史鎌倉時代

3分で簡単「元弘の乱」後醍醐天皇の倒幕計画と鎌倉幕府の滅亡を歴史オタクがわかりやすく解説

六波羅探題の陥落

朝廷を監視するため、鎌倉幕府が京都の六波羅に置いていた「六波羅探題」。最初、快進撃を繰り広げていた赤松則村がそこを落とそうとするものの、幕府が多くの兵を六波羅探題に集めたために攻めあぐねていました。そこへさっきの名越高家と足利尊氏が派遣されてきたというわけですね。ところが、幕府の思惑とは裏腹に名越高家は討ち取られ、足利尊氏は寝返る結果となりました。

そして、足利尊氏の軍勢が加わったことにより、天皇側は一気に六波羅探題を攻め滅ぼしてしまいます。六波羅探題が落ちたことで京都に置かれた幕府の勢力は壊滅。幕府が後醍醐天皇の代わりに即位させていた光厳天皇らを捕えました。

後醍醐天皇は、幕府によって行われた自らの廃位と光厳天皇の即位を否定し、再び天皇として権勢を取り戻したのです。

さらなる御家人の寝返り

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足利尊氏らが六波羅探題を攻めていたのと同時期、鎌倉では「新田義貞(にったよしさだ)」が挙兵し、鎌倉幕府に対して反旗を翻しました。

もともと新田義貞は幕府の御家人で、それも家系を辿れば源頼朝と同じ河内源氏の血を引くひとりです。そんな新田義貞が幕府を裏切った理由は、幕府に無茶な徴税を言い渡されたからでした。

戦争をするのには必ず資金が必要ですよね。それもちょっとやそっとでは足りません。新田義貞は莫大な額を徴税され、しかもたった5日で用意しろと言われたのです。この無理難題に対して新田義貞は徴税にきた使者と争うことになり、結果として使者を殺してしまいます。それがもとで幕府は新田義貞の討伐を決定しますが、しかし、その情報を事前に知った新田義貞は挙兵を決意したのでした。

新田義貞と鎌倉の戦い

兵を挙げた新田義貞に対し、鎌倉幕府は連敗を喫します。というのも、新田義貞は非常の優れた武将だったことに加え、彼の軍勢に鎌倉を脱出した足利尊氏の息子と合流したことで味方の数は万単位で膨れ上がりました。それで幕府と十分に戦うことができたんですね。

そうして新田義貞の勢力が鎌倉へ攻め上がり、鎌倉幕府の執権・北条氏が戦死、および自刃した末に鎌倉幕府は滅びたのです。1333年7月のことでした。

弱ったところを叩かれた鎌倉幕府

1185年から1333年まで約148年に渡った鎌倉幕府。武士の治める強い幕府として君臨してきましたが、外部から元に攻め込まれ、御家人たちの財政状況をボロボロにされて弱ってしまいます。

そのチャンスを見逃さなかった後醍醐天皇によって「元弘の乱」が始まり、最終的に味方だったはずの足利尊氏や新田義貞ら幕府の御家人たちによる寝返りが滅亡の決定打となりました。

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