
そういうわけで、今回は鎌倉幕府滅亡の決定打となった「元弘の乱」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。義経を討った頼朝が作った幕府がいったいどんな課程を辿ったのかを、少し複雑な心境になりながらもまとめた。
当時の鎌倉幕府の体制
鎌倉幕府滅亡の前に説明しておかなければならないのは、幕府の歴史ですね。ここで軽くおさらいしておきましょう。
まず、鎌倉幕府は武士の源頼朝(みなもとのよりとも)によって開かれました。「1185年(イイハコ)つくろう 鎌倉幕府」の語呂合わせで有名ですね。1185年は頼朝が朝廷から「文治の勅許」をもらい、全国に守護と地頭を設置したことで実質的な支配権を得たのです。一昔前の語呂合わせだった1192年のほうは頼朝が征夷大将軍に任命された年で、最近は征夷大将軍よりも「文治の勅許」のほうが重要視され、1185年が鎌倉幕府成立の年になりました。
幕府で将軍の次に力を持ったのが、「執権」と呼ばれる役職です。執権は頼朝の妻であった北条政子の実家「北条家」が世襲することになります。また、途中で源頼朝の系譜が途絶えると、京都から頼朝の遠縁にあたる藤原摂関家の子どもを連れて来て将軍にし、執権が実質的な幕府の指導者となりました。
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大帝国「元」の侵攻
幕府成立から時は流れ、1200年代。海を渡った向こうのユーラシア大陸では、モンゴルのチンギス=ハンが勢力を拡大し、東の朝鮮半島から西のトルコに至る広大な「モンゴル帝国」を築き上げていました。
そして、孫のフビライ=ハンが皇帝となったあとに国の名前を「元」と定め、周辺諸国を次々に支配下におさていきます。そうして、朝鮮半島の「高麗」を手に入れると、次はいよいよ海の向こう、日本への侵攻が始まったのです。
この大帝国「元」との戦いで鎌倉幕府は大苦戦を強いられることになりますが、戦いの最中に台風によって元の船が沈んでいき、結果は鎌倉軍の勝利となりました。それでもフビライ=ハンは諦めずに七年後に二度目の侵攻をしかけてきますが、こちらもまた台風のお陰で鎌倉の勝利に終わります。この二度にわたる元の攻撃をあわせて「元寇」といいました。
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勝ったはいいけど、報奨がない!
元を退け、日本を属国しなくて済んだ鎌倉幕府でしたが、元寇はあくまでも鎌倉側の防衛戦。勝ったとしても、元から土地を奪うことはできませんでした。
そして、本来なら戦いに参加した御家人たちはご褒美がもらえるわけですが、ご褒美とはすなわち「土地」のこと。ところが、奪った土地がないので、当然、御家人にあげられる土地もありません。
さらに、この当時の武士たちの装備品、戦地への遠征費は自腹です。北九州までいったどれくらいかかると思います?その費用すら幕府は返してはくれなかったため、一部をのぞいた御家人以外は莫大な出費で貧乏になってしまったのでした。
借金が苦しい?それならチャラにしてあげよう
先立つものがなければどうにもならない世の中、それならひとまず商人からお金を借りて糊口をしのぐしかありません。そうしたら今度は借金で首が回らなくなるわけで。貧困にあえぐ御家人たちを見た鎌倉幕府は、「徳政令」を発布して御家人たちの借金をチャラにしたのです。
しかし、これが最悪の手でした。お金の貸主からしてみれば、武士たちに貸したお金が一円も返ってこないという大損です。またそんなことが起こるのは絶対にごめんですから、二度と武士にお金は貸さないということになりますよね。そうなると、借金でしのいでいたカツカツの武士たちが困ります。最初は借金帳消しで喜んでいた武士たちも、幕府はなんて余計なことをしてくれたんだ、と。
こうして味方であったはずの武士たちから鎌倉幕府への不満が膨れあがっていったのでした。
打倒鎌倉幕府に燃える後醍醐天皇
不満を日々募らせる武士たちを見て、これは倒幕のチャンスだと立ち上がったのが「後醍醐(ごだいご)天皇」です。後醍醐天皇は大の幕府嫌いの武士嫌いで、特に幕府が朝廷へ干渉するのを嫌がっていました。その最たるものが、天皇の後継問題です。
このころ天皇の位を継げる家系はふたつあり、鎌倉幕府はそこで争いが起きないようにふたつの家系が順番に天皇に即位するよう取り決めていました。けれど、後醍醐天皇には自分の息子を天皇にしたいという強い思いがあり、そんな約束を守らせる幕府をすぐにでも倒してしまいたかったのです。
そんな折に起こった元寇や徳政令は、後醍醐天皇にとってはまたとないチャンスとなったのでした。
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計画を密告され挙兵へ
倒幕に燃え、計画を練り始めた後醍醐天皇でしたが、1331年に後醍醐天皇の側近だった吉田定房(よしださだふさ)が六波羅探題へリークしたことで計画が鎌倉幕府に発覚。このままでは危ないと考えた後醍醐天皇は正当な天皇の証となる「三種の神器」を持って京都から逃亡します。
そうして、尊良親王(たかよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)のふたりの息子とともに挙兵し、笠置山(京都府相楽郡笠置町)に籠城する「笠置山の戦い」を起こしました。
笠置山の天然要塞に助けられながらも、しかし、幕府軍の大戦力の前に後醍醐天皇側は負けてしまいます。笠置山で捕まった後醍醐天皇は、隠岐島へと配流されることになりました。
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まだ倒幕運動は終わらない
笠置山に呼応して河内国(現在の大阪府東部)の武将「楠木正成(くすのきまさしげ)」が赤坂城で挙兵していました。そこへ笠置山から落ち延びた護良親王が保護され、幕府軍に籠城戦を仕掛けます。
この「赤坂城の戦い」で幕府側は苦戦したため、籠城は一ヶ月に渡りました。そして、幕府軍がやっと赤坂城を陥落させたと思いきや、楠木正成と護良親王は自害したと見せかけてすでに城から逃亡していたのです。
そして、翌1332年。潜伏を続けていた楠木正成は河内国金剛山(奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村の境目の山)の千早城で再び兵を挙げます。楠木正成はこの「千早城の戦い」で長期の籠城戦を展開。少ない兵力にもかかわらず、長びく戦いに幕府軍の兵が気を緩めたところを叩き、数々の策で被害を拡大させていきました。
そして、楠木正成の善戦に勇気づけられた各地の反幕府勢力の活動が活発になり、1333年の頭には播磨国(兵庫県南西部)の赤松則村などが反乱を起こしていったのです。
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後醍醐天皇、再びの挙兵
幕府軍が楠木正成に釘付けになり、各地での反乱を見た後醍醐天皇は密かに隠岐島を脱出を果たしました。そして、伯耆国(鳥取県)で再び挙兵。後醍醐天皇の復権と都を目指して進撃を開始します。
そうして、「船上山の戦い」で勝利を決めると、寝返った元幕府軍の武士らも加えて戦力を増強。寡兵から一転、攻撃の体勢を整えて伯耆国から幕府軍を一掃してしまうのです。
足利尊氏の寝返り
後醍醐天皇の脱出と攻勢の知らせを受けた鎌倉幕府も、もちろん黙っているわけではありません。急いで現地に北条一門の名越高家と、御家人の「足利尊氏(あしかがたかうじ)」を派遣します。
ところが、名越高家は赤松則村に迎え討たれて戦死。そして、かねてより幕府への反感を持っていた足利尊氏は後醍醐天皇の誘いを受けて寝返ったのです。
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鎌倉幕府の特別な御家人「足利尊氏」
不明 – The Japanese book “Ashikagashi no Rekishi (足利氏の歴史)”, Tochigi Prefectural Museum, 1991, パブリック・ドメイン, リンクによる
ところで、鎌倉幕府にとって足利尊氏という御家人は少し特別な存在でした。それは鎌倉時代前期、北条泰時の時代に起こった「承久の乱」において、足利尊氏の祖先にあたる足利義氏が幕府軍を勝利に導く活躍をしたことに由来します。以来、足利氏は勝利のゲン担ぎとして代々大将を務めていたのです。
後醍醐天皇の最初の挙兵のときも、もちろん鎌倉幕府は足利尊氏に出陣命令を下していました。ところが、このとき足利尊氏は父の喪中だったのです。それを理由に今回ばかりはと辞退するものの、幕府は許さずに彼は戦場へと送り込まれてしまいます。
さらに、今度の出陣が決まった時、足利尊氏は病気で臥せっているような状態でした。それでも幕府が行けというなら行くしかありません。せめて妻子も一緒に連れていきたいという要望も断られ、渋々の出陣となりました。
望まぬ出陣に足利尊氏は幕府に対する大きな不満を抱き、それが今回の裏切りへと繋がったわけですね。
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