今回は武田四天王を取り上げるぞ。武田信玄と勝頼の重臣たちか、どんな人たちだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田四天王について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田四天王とは

武田四天王(たけだしてんのう)は、戦国時代の守護大名から戦国大名へと実力でのしあがった甲斐国の武田信玄と息子の勝頼の時代の重臣のうちで、馬場信房(信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)のこと、別名として武田四名臣

彼らは家柄ではなく有能さで信玄によって見出された武将たちで、信玄の壮年期に活躍した主要な家臣です。なお、信玄の父武田信虎の時代および信玄治世の初期には、板垣信方、飯富虎昌(おぶ)、甘利虎泰、小山田昌辰(虎満)が武田四名臣と言われるそうで、ほかにも武田二十四神将(信玄を含む)、武道の名人の足軽大将として武田五名臣も存在

2-1、山県昌景

山県昌景(やまがたまさかげ)は 享禄2年(1529年)の生まれ、別名は飯富(おぶ)源四郎、三郎兵衛尉で、武田家の譜代の家老飯富虎昌(おぶとらまさ)の弟といわれていますが、年齢的に差があるために甥説もあるそう。

「甲陽軍鑑」によれば、昌景ははじめは武田信玄の近習、つぎに使番として仕え、信玄の信濃侵攻では、伊奈攻めで初陣、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立て、信玄の側近で若い家臣だけで構成された「御使番衆12人」の1人にえらばれ、1552年には信濃攻めの功績で150騎の侍大将に抜擢されました。その後も虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」といわれたそう。

史料に登場するのは1556年8月で、昌景は水科修理亮に与えられた、信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めたそう。また、1561年、第4次の川中島最大の激戦では、信玄の本隊の前衛守備として上杉勢と激しく戦ったといわれています。そして1563年には、三郎兵衛尉と名乗り、順調に戦功を挙げたこともあって譜代家老衆に列せられ、300騎の大将に。

2-2、昌景、義信事件で兄を密告

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信玄は、桶狭間合戦で今川義元が倒れたあと、新興勢力の織田信長と同盟を結びたがり、それまでの今川、北条の両氏との三国同盟を破棄の方向へ。しかし嫡男の義信は今川義元の娘が正室だったため、信玄の考えに反対、1565年には、義信と守役だった昌景の兄の飯富虎昌らが信玄に対するクーデターを計画が発覚、虎昌は捕らえられて処刑、義信も幽閉されて廃嫡になり2年後に自害(または毒殺)という事件がぼっ発。

このとき、昌景は兄の密書を入手して信玄に報告したためにクーデターは未然に防げたということで、信玄は、念のために躑躅ヶ崎館の御閑所(信玄専用のトイレのこと)に立てこもり、昌景をふくむ3人の側近に身辺警護を命じたということです。

\次のページで「2-3、赤備えの継承」を解説!/

2-3、赤備えの継承

この義信事件後の1566年ころ、信玄は昌景に対して、兄の虎昌が謀反を起こして処罰されたことで昌景の肩身が狭いだろうと考えたそうで、昌景に譜代家老家の山県氏の名跡を継承させ、山県昌景と改名昌景はまた兄の部隊のうちの50騎を引き継いで昌景の赤備えが誕生

西上野侵攻では昌景の赤備え部隊が箕輪城攻めに参戦し、「赤備え」が最強部隊の代名詞となって諸国からおそれられるように

2-4、内政、外交でも活躍

昌景は内政、外交でも多くの実績を残していて、1567年、甘利信忠の死後、甲斐の国の警察権の裁判、検断権をつかさどるようになり、その他、諸役免許、参陣命令、寺社支配など多くの行政に関する仕事に関与したそう。また外交面で、会津の蘆名氏、三河の松平氏(徳川氏)との同盟に尽力し、1568年、信玄は徳川家康と今川領の割譲の密約を結び、駿河今川領への侵攻の計画時に家康との取次も担当。1569年、駿河江尻城代に任命。

2-5、西上作戦での昌景

1572年、武田軍による徳川領への大規模侵攻となった西上作戦が開始され、昌景は秋山虎繁らと本体とは別の別働隊を率いて信濃から三河に侵攻、11月には遠江国の二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流しました。

そして12月の三方ヶ原の戦いでは、昌景の軍勢が崩れかかったところを、武田勝頼隊が助け、その後、家康に猛攻を仕掛けて浜松城に逃げ帰った徳川軍を追跡したが、家康が空城の計として城門を開け放ったため、昌景は策に引っかかってしまい、城へ入るのに疑念をもって去ったそう。

2-6、勝頼時代の昌景

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1573年4月、西上作戦の途上で信玄が病死後、昌景ら重臣たちは後継者の勝頼の補佐に。勝頼は父信玄の勢力拡大路線を踏襲して積極的に織田、徳川軍と交戦したため、1574年、昌景は織田方の東美濃の明智城を攻略し、4万の信長の軍勢を6千の兵で迎撃して撃退

昌景は、内藤昌秀、馬場信春、高坂昌信と信玄時代からの老臣として、勝頼に仕えましたが、若い勝頼は彼らよりも、同年代の従兄の武田信豊や跡部勝資、長坂光堅らを重用、長篠の戦いの直前に、昌景が馬場や内藤らとともに、勝頼に撤退を進言したが、聞き入れられず勝頼と側近の長坂光堅(釣閑斎)、跡部勝資が決戦を主張し、勝頼は決戦を決断。

長篠の合戦では、昌景の隊は武田軍の左翼を担当して、1500の兵で6000余の徳川軍を相手に奮戦、昌景は徳川軍の鉄砲隊を前に馬上で銃弾を受けて47歳で討死。「信長公記」では、長篠の戦いで討ち取った武田方の武将の首の筆頭の名が昌景だったそう。なお、昌景の赤備えは、家康の武将の井伊直政、また真田信繁(幸村)に受け継がれることに

2-7、昌景の逸話

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昌景は身長は130wp_から140wp_という小柄で風采は冴えない、痩身で兎唇の醜男だったが、「戦にては信玄の小男出たりと恐怖しける程の侍大将に有りける也」と言う存在感があったということ。

また川中島の合戦の際、謙信の猛将であった鬼小島弥太郎と一騎討ちを行ったが、その最中に、信玄の嫡男の義信が窮地に陥るのを見て、昌景は弥太郎に「主君の御曹司の窮地を救いたいので、勝負を預けたい」と願い出、弥太郎快諾、昌景は弥太郎を「花も実もある勇士」と称賛したそうです(ただし鬼小島弥太郎は伝説の人物)。

そして信玄の異母弟の一条信龍が昌景に、山県隊の強さの秘訣をきいたところ、「訓練も重要だが、一番大切なのは戦に臨む心がけで、つねに初陣の覚悟をもって慎重に策を練り、勝てると確信しない限り戦わないようにしている」と答えという話もあります。

3-1、高坂昌信

高坂昌信(こうさかまさのぶ)は 大永7年(1527年)の生まれで、父は甲斐国八代郡石和(現在の山梨県笛吹市石和町)の豪農春日大隅といい、幼名は、源助、または春日源五郎。

一般的に「高坂昌信」の名前で知られているのですが、「高坂」または「香坂」姓は、信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督継承した1556年から1566年9月までの11年間に名乗っていたということで、史料に載っている実名は春日虎綱(かすが とらつな)、出家して「昌信」(しょうしん)、高坂弾正という呼び名も有名

3-2、信玄に仕えたきっかけは美男子だったから

「甲陽軍鑑」によると、昌信は、1542年に父が死去後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴、しかし裁判のときに信玄が立ち会っていて美男子だった昌信を見初め、その後は信玄の奥近習として召抱えられたそう。

昌信は、最初は使番、1552年には100騎持ちの足軽大将となり、春日弾正忠を名乗るように。そして信玄による信濃攻略で、1553年に信濃佐久郡小諸城(現長野県小諸市)の城代に。その後は香坂氏をはじめとする川中島衆を率い、対越後上杉氏の最前線である海津領の守将に就任。北信濃の寺尾、屋代両氏の取次役も務めたそう。

昌信は第4次川中島合戦でも、妻女山攻撃の別動隊として戦功があったということです。そしてその後も1572年の三方ヶ原の戦いにも参戦。退却の処理がうまかったため殿(しんがり)を努めることが多く、三方ヶ原の大勝後も深追いに反対したことなどで「逃げの弾正」の異名も。

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3-3、勝頼の時代の昌信

1573年4月、西上作戦中の信玄の死後、昌信は勝頼に海津城代として対上杉氏の抑えを任されていたために、1575年5月の長篠の合戦には参戦せずに海津城を守備したが、昌信の代わりに長篠で戦った嫡男の昌澄が戦死。

「甲陽軍鑑」によれば、勝頼の時代には武田家一門の武田信豊、穴山信君、譜代家臣の跡部勝資、長坂光堅らが重用され、信玄の老臣である昌信らは勝頼に疎まれていたといわれています。

長篠の合戦での大敗後、武田家は多くの有力家臣を失って、領国の動揺を招き武田家は衰退に向かうのですが、勝頼が信濃へ逃れたとき、昌信は信濃駒場で勝頼を出迎えて、衣服や武具などを見苦しくないように整える配慮をし、さらに勝頼に五箇条の献策を行ったそう。この献策は、相模国の後北条氏との同盟強化、戦死した山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らの子弟を奥近習衆としてた家臣団の再編、そして長篠敗戦の責任を取らせるために、戦場を離脱した親族衆の穴山信君と武田信豊の切腹などだったということです。

その後昌信は、1578年の謙信急死後の上杉家の跡目相続争いの御館の乱で、信繫の嫡男の武田信豊とともに上杉景勝に対しての取次を努め、甲越同盟の締結に携わったそう。しかし昌信の名は、甲越間の交渉が行われていた6月8日付の書状が最後で、6月12日付では信豊の単独名での交渉、10月からは昌信の息子の信達が登場しているということで、昌信は6月14日に海津城で52歳で死去したということ。

3-4、昌信の逸話

甲斐武田家の信玄と勝頼の事績を記した「甲陽軍鑑」は、江戸時代の元和年間に成立した軍学書。「甲陽軍鑑」の奥書きによれば、原本は長篠合戦の後、武田氏の行く末を案じた昌信が勝頼や重臣たちに対する諫言を込めて記したという口述記録で、昌信の死後も甥の春日惣次郎と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続して、昌信の海津城代時代の家臣の小幡昌盛の子景憲が完成させたということです。

また、武田信玄からの恋文が残っているため、衆道の愛人説も。

4-1、馬場信春

馬場信春(ばばのぶはる) は永正11年(1514年)または永正12年(1515年)の生まれ。父は土豪の教来石信保(きょうらいいし)。 「馬場家系図」によると馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光の曾孫の源仲政(馬場仲政)を遠祖とする源姓の氏族。美濃国土岐郡に土着した土岐光衡の一族が、甲斐国教来石村に移って教来石氏を名乗ることに。

信春も最初は教来石(きょうらいし)景政と名乗っていたが、後に馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名し、その後信春と改名。通称ははじめ民部少輔、のち美濃守、鬼美濃といわれたそう。

4-2、信虎時代の信春

信春は武田信虎の時代から武田氏に仕え、最初は武川衆の一員として、現在の山梨県北巨摩郡一帯に分拠。そして信玄の初陣の海ノ口城攻めに参加して敵将の平賀源心を討って功績を挙げ、また1541年には、信玄による父信虎追放計画に参加していたといわれています。

4-3、信玄時代の信春

信春は、信玄が武田氏の当主となった直後の諏訪、伊那攻めで武功を挙げ、信玄の命令で、信虎時代、信虎に当主馬場虎貞が殺害されて名跡が絶えていた甲斐武田氏譜代の名門の馬場氏を継承。信春は同時に50騎持の侍大将となって、景政から信房と改名。その後も信玄の信濃攻めで武功を挙げたので1559年、120騎持に加増、譜代家老衆のひとりに。

また、1561年の第4次川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任され、翌年、隠退した原虎胤にあやかり美濃守の名乗りを許されて馬場美濃守信春と改名しました。信春は、1568年の駿河攻めにも参加、1569年の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍と戦って武功を挙げたということ。1572年の信玄の西上作戦では、一隊の指揮を任されて、只来城を攻略。三方ヶ原の戦いにも参加して、徳川軍を浜松城下まで追い詰めたそう。

4-4、勝頼時代の信春

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1573年4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれました。1575年5月の長篠の合戦では、山県と共に勝頼に撤退を進言したが受け入れられず、代替策策も勝頼の側近に退けられたといわれていますが、これは資料にはなく、後世の作り話ではということ。

そして信春隊は最後まで戦線を保って武田軍の殿(しんがり)を務め、内藤昌豊と残った兵数百で、勝頼の退却を助け、織田徳川連合軍を阻み、勝頼の退却を見届けたのちに、信春軍は追撃の織田軍と戦った、または首を差し出したということで、「信長公記」には「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評され、61歳で討ち死に。

4-5、信春の逸話

信春は武田家3代に仕えましたが、その40数年で70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いで戦死するまでかすり傷一つ負わなかったそうで、「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と呼ばれたということ。

「甲陽軍鑑」によると、信春は、足軽大将の山本勘助から城取(築城術)を教授され、深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城などの武田方の支城を築城、築城の名手ともいわれているそうです。また、江戸時代後期の「甲斐国志」には「智勇常に諸将に冠たり」と一国の太守になれる器量人という評も。

また、信春は、1568年の駿河国侵攻では先鋒を務め、その際、信玄が今川氏の財宝や名物の焼失するのを惜しみ、宝物を運び出すよう指示したのですが、信春は「貪欲な武将として後世の物笑いになる」と、周囲が止めるのも聞かずに財宝を火中に投げ込んだといわれています。しかし信玄はこれを知っても、7歳年上の信春が後世の名を惜しんでの処置に自らを恥じ入ったそう。

\次のページで「5-1、内藤昌豊」を解説!/

5-1、内藤昌豊

内藤昌豊(ないとうまさとよ)は 大永2年(1522年)生まれで、「武田三代軍記」によると父は武田信虎の重臣工藤下総守虎豊で、昌豊は次男だということ。最初の名は工藤祐長(すけなが)、実名は昌秀という説も。1567年8月「工藤源左衛門尉昌秀」と名乗っていたが、1569年8月には「内藤修理亮」を名乗っているので、昌豊は、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承して内藤姓となり、修理亮を名乗って箕輪城代に就任したということです。

5-2、信玄時代の昌豊

箕輪城の石碑
デジタルカメラ - 自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

昌豊の父虎豊については不明のことが多いが、1508年に武田信虎に反乱して敗北、郡内地方の小山田平三と、伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って逃れた「工藤殿」という人物ではということで、昌豊は父が信虎に殺された後に甲斐国を離れたが、信虎追放のクーデター後に信玄によって呼び戻されたそう。

昌豊は、1559年6月、「工藤源左衛門大尉」を名乗る信玄の側近として史料に初登場、1563年ころから1570年ころまで信濃国深志城を守備。「甲陽軍鑑」によれば、1561年の第4次川中島の戦いでは信玄の本隊に所属して、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍したということです。また、1566年までに信濃国深志城(現長野県松本市)の城代として、信玄が西上野侵攻を行い、西上野を領国化したのち、昌豊は後閑氏などの上野国衆の取次を務めたそう。また昌豊は、1570年から箕輪城代をつとめたということ。

5-3、勝頼時代の昌豊

1573年4月、信玄が死去した後、昌豊は勝頼に仕え、1575年5月の長篠の合戦は、原昌胤や山県昌景とともに左翼に配置されていたということです。「甲陽軍鑑」によれば昌豊の隊は織田軍本隊と戦った、また「本多家武功聞書」では家康家臣の本多忠勝と戦ったとされていて、「甲陽軍鑑」では武田勢が敗退するなかで昌豊は馬場信春とともに勝頼を逃すために戦場に踏みとどまって、徳川家家臣の朝比奈泰勝に54歳で討ち取られたそう。

5-4、昌豊の逸話

「甲陽軍鑑」には、山県昌景が昌豊について「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したと記述があるそう。

昌豊は信玄の代表的な戦さのほとんどすべてに参加し、常に武功を立てたのにもかかわらず、信玄からは一度として感状をもらわなかったということです。「甲陽軍鑑」によれば信玄は、「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と、当たり前のように言い、昌豊のほうも、「合戦は大将の軍配に従って勝利を得るもので、個人の手柄にこだわるものではない」と感状について気にもかけなかったということで、いかに信玄と昌豊の信頼関係が厚かったかということでしょう。

武田信玄、勝頼に仕えて、武田軍団最強伝説を作った家臣たち

武田四天王、山県昌景、高坂昌信、馬場信春、内藤昌豊の4名は、数多かった信玄の武将のなかでももっともすぐれた働きをしたといわれる名将たちで、彼らは名家の出身ではなく才能などを見込んだ信玄が見出して以後重臣に。

信玄は上杉謙信との伝説的な川中島合戦での対決、信濃攻略に西上作戦と、最強の武田軍団に支えられ、山県昌景の赤備えは敵を震え上がらせたほどでしたが、息子の勝頼の時代には長篠合戦の大敗後、高坂昌信をのぞく3名も戦死、坂を転げ落ちるように崩壊して武田家は滅亡。

しかし徳川家康が、武田軍団、赤備えも継承したことで、江戸時代には高坂昌信の口述が元ネタという「甲陽軍鑑」なども出来、武田流、甲州流軍学として、信玄とその最強軍団、名将たちの名も虚実取り混ぜてたたえられ語り継がれることになったのですね。

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室町時代戦国時代日本史歴史

3分で簡単「武田四天王」信玄・勝頼に仕えた伝説の重臣たちをわかりやすく歴女が解説

今回は武田四天王を取り上げるぞ。武田信玄と勝頼の重臣たちか、どんな人たちだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田四天王について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田四天王とは

武田四天王(たけだしてんのう)は、戦国時代の守護大名から戦国大名へと実力でのしあがった甲斐国の武田信玄と息子の勝頼の時代の重臣のうちで、馬場信房(信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)のこと、別名として武田四名臣

彼らは家柄ではなく有能さで信玄によって見出された武将たちで、信玄の壮年期に活躍した主要な家臣です。なお、信玄の父武田信虎の時代および信玄治世の初期には、板垣信方、飯富虎昌(おぶ)、甘利虎泰、小山田昌辰(虎満)が武田四名臣と言われるそうで、ほかにも武田二十四神将(信玄を含む)、武道の名人の足軽大将として武田五名臣も存在

2-1、山県昌景

山県昌景(やまがたまさかげ)は 享禄2年(1529年)の生まれ、別名は飯富(おぶ)源四郎、三郎兵衛尉で、武田家の譜代の家老飯富虎昌(おぶとらまさ)の弟といわれていますが、年齢的に差があるために甥説もあるそう。

「甲陽軍鑑」によれば、昌景ははじめは武田信玄の近習、つぎに使番として仕え、信玄の信濃侵攻では、伊奈攻めで初陣、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立て、信玄の側近で若い家臣だけで構成された「御使番衆12人」の1人にえらばれ、1552年には信濃攻めの功績で150騎の侍大将に抜擢されました。その後も虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」といわれたそう。

史料に登場するのは1556年8月で、昌景は水科修理亮に与えられた、信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めたそう。また、1561年、第4次の川中島最大の激戦では、信玄の本隊の前衛守備として上杉勢と激しく戦ったといわれています。そして1563年には、三郎兵衛尉と名乗り、順調に戦功を挙げたこともあって譜代家老衆に列せられ、300騎の大将に。

2-2、昌景、義信事件で兄を密告

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信玄は、桶狭間合戦で今川義元が倒れたあと、新興勢力の織田信長と同盟を結びたがり、それまでの今川、北条の両氏との三国同盟を破棄の方向へ。しかし嫡男の義信は今川義元の娘が正室だったため、信玄の考えに反対、1565年には、義信と守役だった昌景の兄の飯富虎昌らが信玄に対するクーデターを計画が発覚、虎昌は捕らえられて処刑、義信も幽閉されて廃嫡になり2年後に自害(または毒殺)という事件がぼっ発。

このとき、昌景は兄の密書を入手して信玄に報告したためにクーデターは未然に防げたということで、信玄は、念のために躑躅ヶ崎館の御閑所(信玄専用のトイレのこと)に立てこもり、昌景をふくむ3人の側近に身辺警護を命じたということです。

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