その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田信廉について5分でわかるようにまとめた。
1-1、武田信廉は甲斐の国の生まれ
武田信廉(たけだのぶかど)は、天文元年(1532年)(享禄元年(1528年)生年説もあり)に甲斐の国、躑躅が崎の館で生まれました。父は、甲斐国守護大名の武田氏第18代当主武田信虎で母は正室の大井の方です。信玄(晴信)、典厩と呼ばれた信繁の同母弟で、信廉は4男(夭折の兄が2人いるため6男説も)、兄弟は他に弟が7人、姉妹が9人。幼名は孫六、諱は信廉、信連、官位は刑部少輔。のちに出家して逍遙軒信綱と号したので、武田逍遙軒(しょうようけん)と呼ばれることもあります。
信廉の少年時代はよくわかっていないが、長兄の信玄の同母弟なので、母の大井の方が同じように岐秀元伯から「四書五経」、「孫子」「呉子」等を学ばせ教育したと思われ、漢詩、歌道、絵画や彫刻なども学んだよう。
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1-2、長兄信玄が父信虎を追放して当主に
1541年6月、信廉が11歳のとき、長兄の信玄は父の信虎を駿河国の今川義元の元へ追放、家督を相続しました。信玄はその後、信濃侵攻を本格化させて、翌年には父信虎が和睦していたはずの諏訪氏を攻めて滅亡に。
信廉が史料に登場するのは、信玄が諏訪統治を確立しつつあった1548年11月で、「高白斎記」には、信廉が諏訪衆に対し取次役をしていたようで、諏訪衆千野氏に武田方に謀反を起こした諏訪西川衆の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束したこと、また、同じ「高白斎記」に、1551年7月、兄信玄の命令で、駿河の今川義元の娘を義信の正室に迎えることを諏訪衆に伝えたりもしたと記述されているそうです。
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1-3、信廉、高遠城主に
信廉の次兄信繫は、父信虎が溺愛し、信玄に代えて跡継ぎにしようと思ったほど優秀で、家訓をあらわしたりと兄信玄の信頼も絶大だったのですが、信廉にはあまりそのような話はなくて、「甲陽軍鑑」によれば合戦においては信廉はわずか80騎ばかりを指揮したという記述があり、兄信玄の馬廻り役として本陣を守ったり、後方任務ばかりで、ほとんど実績を挙げていないということ。
しかし武田家臣団編成を記した「軍鑑」の「惣人数」によれば、信廉は武田一族のなかでも武田姓の使用を許された御一門衆のうちでは、次兄の武田信繫の嫡男信豊の次に記載されているということで、1561年に第4次川中島の戦いで次兄の信繁が戦死したのちは、御一門衆の筆頭となりました。
そして1570年、信廉は、信濃国の高遠城主に任じられましたが、兄信玄が信濃を攻略し、上杉謙信と戦い、駿河攻めにと着々と領土を広げていくなかでの軍事面においては、次兄典厩信繁と異母弟の一条右衛門大夫信龍を最も信頼していたと「甲陽軍鑑」などに記述されているそう。
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2-1、信廉、信玄死後、父信虎を引き取る
とはいうものの、「甲陽軍鑑」や「三河物語」には、信廉は、信玄の西上作戦のときの三方ヶ原の合戦で、徳川四天王の本多忠勝と榊原康政相手に戦ったという記述があるそう。
そして1573年4月に信玄が死去した後、46歳だった信廉は、出家して逍遥軒信綱と名乗ったが、兄の息子で武田家を継いだ勝頼に仕えました。信廉は一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任され、天竜川流域の伊那郡一帯を治めていた記録が残っているということ。
また、兄信玄に甲斐の国を追放されていた父の信虎は、当時80歳を過ぎていて駿河の国や京都などで隠居後もそれなりの活躍をしていたのですが、信玄の死後に甲斐の国への帰国を望んだために、息子の信廉が信虎の身柄を引き取って、居城の高遠城に住まわせたということ。画家でもある信廉はこのときに「信虎像」を描いたそう。
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2-2、信廉、長篠の合戦に出陣
信廉は、1575年5月の長篠の合戦では、小幡信貞、次兄信繫の息子の武田信豊と中央隊に布陣していたということで、「信長公記」によれば、信廉は山県昌景に続いて攻撃を仕掛けたそう。しかし穴山信君らと、さっさと戦線離脱したという話です。
信廉は、長篠合戦までは、戦にも出て重要拠点の城に城代となったりしたのですが、長篠合戦後になると、勝頼が信長、家康連合軍に備えて、信濃、遠江に兵を派遣したなかに信廉の名はなく、北条氏との戦いでの決戦に備えた布陣にも信廉の名前はないということで、合戦に出る状態ではなかったよう。長篠合戦で多くの武将を失った勝頼にとって、叔父の信廉が頼りになる存在でないのは痛手だったはず。
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2-3、信廉、隠居状態に
長篠合戦以降の信廉は、隠居状態でまた病気がちでもあったよう。1579年の日付で、自分の手で自分の位牌をつくって寺に納めたり、形見分けなどをして死について準備をしていたということで、娘宛の手紙に「もうすぐ目も見えなくなるかもと」と書いていたということです。
信廉の正室は不明ですが、嫡男で1560年生まれの信澄(のぶずみ)、大龍寺麟岳(だいりゅうじりんがく、諸説あり)が、父信廉に代わって勝頼に仕え、武田家親族として武田家の問題や外交に対処していたということで、信廉は逍遥軒という名(きままにぶらぶらするという意味)のごとく、絵を描いたり仏像などを彫ったりと趣味に生きるようになったのかも。
そして1581年、信玄の息子で勝頼の弟、甥で娘婿にもあたる仁科盛信が高遠城主に就任したために、信廉は信濃国大島城(現長野県下伊那郡松川町)に移りました。
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