室町時代戦国時代日本史歴史

三好三人衆のリーダー「三好長逸」の生涯とは?わかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は三好長逸を取り上げるぞ。三好三人衆のリーダーだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

angelica

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三好長逸について5分でわかるようにまとめた。

1-1、三好長逸はおそらくは阿波の生まれ

image by PIXTA / 39469448

三好長逸(みよし ながやす)の生年は不明、永正17年(1520年)に祖父の之長と父長則が、等持院の戦いで敗れて処刑されているため、長則の子とすれば出生はそれ以前、おそらくは1510年前後のうまれではということ。通称は孫四郎、または弓介、初名は長縁(ながより)で、のち長逸、長綱と署名したこともあり、法号は宗功。

母の素性は不明で、「如意寺過去帳」では1550年10月に亡くなったようですが、長逸の生い立ちははっきりせず、幼少時は阿波で育った程度しかわからないということです。

1-2、出自は諸説あり

長逸は、三好一族ではあるのですが、はっきりしたことが不明で、父親は三好長光説と芥川長則説があるそう。ふたりとも三好長慶の曽祖父の三好之長の息子なのですが、前述のように1520年の等持院の戦いで、父之長が敗れて、兄弟は父とともに処刑されたため混同されることが多く、兄弟ではなくて同一人物の別名という説もあるということです。

また「芥川系図」では長逸は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」で、「史略名称訓義」では「豊前守之康の男、彦次郎也」で、三好政康(三好宗渭)の兄弟と記され、「三好長光画像摸本」には、「孝子長逸朝臣賛」とあるので三好長光の息子となっているなど、史料によって違うわけなんです。

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滅びてしまったら、きちんと史料が伝わらないんだな、残念だ。

1-3、長逸、三好長慶の家臣となる

三好家は、管領細川勝元に従い応仁の乱に東軍として参加し、阿波細川家の澄元が勝元の子細川政元の養子となったのち、澄元をささえて各地を転戦、畿内にも大きな影響力を持つほどに。そして長逸の祖父三好之長(ゆきなが)は細川京兆家の直臣に組み入れられ、かつ阿波細川家ともその後も主従関係があったということです。

之長の死後、一時勢力がおとろえ、また孫の元長(長慶の父)が阿波公方足利義維(よしつな、14代将軍義栄の父)と細川晴元を擁し、1527年には畿内にも勢力を盛り返したので、長逸も本家の従兄弟の元長に従っていただろうということ。

そして元長が主君晴元の策謀によって1532年に一向一揆に攻め殺されたあと、晴元が制御できなくなった一向一揆を12歳の元長の跡継ぎの長慶が仲介して和睦にもちこみ、長慶は晴元の家臣として復帰。
1534年、「細川両家記」によれば三好伊賀守連盛と三好久助が本願寺の過激派の下間頼盛と結び、細川晴元に反旗を翻して本願寺10代目の証如を監禁。証如は解放されたが、和睦は破棄に。このときは最終的に伊丹氏と木沢長政が連盛と久助を説得したので、晴元の旗下に復帰したという事件があり、この三好久助が若き長逸だということです。

なお、三好伊賀守連盛は長慶を支える三好一族の重鎮だったが、その後の1535年にも長慶を無視して摂津国長洲庄の代官となったなどで、1539年に長慶のもとを去って浪人、翌年には戦死したそう。

その後長逸は、長慶に仕える三好一族の従叔父として、長慶をささえることに。

2-1、長逸、長慶一族の長老格として活躍

長逸は、山城、摂津、河内、丹波、大和といった、三好家の勢力圏全域に文書を発給していて、所領安堵や年貢の督促などを行ったことが残っているそうで、三好長慶は10歳で父を亡くし、他の一族も多くが細川家の内紛で若死にしていたため、三好本家の長慶にとっては、長逸は数少ない頼れる年長者であったことがわかるということです。

長慶は同族の三好宗三(政長)が晴元の寵臣として専横が極まっていると宗三討伐を訴えて、これが容れられないと主君晴元をも敵にすることを明らかにして、三好氏は細川晴元から離反、晴元の政敵の周辺大名、将軍足利義晴を巻き込んでいくのですが、長逸も1549年の江口の戦いでは、細川晴元の部将香西元成を攻撃し、1550年には京都奪回のために、近江国から進軍した細川晴元軍を長慶の末弟の十河一存らと東山の戦いで阻止。そして長慶に反発し、晴元と近江に逃げた13代将軍足利義輝とも戦い、1552年に長慶と義輝が和睦を結んだときに、長逸は義輝を亡命先の近江から出迎える役を務めたということ。

なお1554年に、長逸は公家の清原業賢に足利尊氏が室町幕府の施政方針をあらわした「建武式目」の写本の貸出を依頼して「当家秘伝」を授けられたということで、行政法を当時の最高の知識人に学んだということ。

2-2、長逸、山科飯岡城主に

1554年、摂津国の有馬重則が、長慶に対して播磨国の三木氏の横暴を訴えたので、長慶は8月末に長逸を大将に軍勢を播磨国に派遣、長逸は国人別所就治の守る三木氏の城を7つ落城させたそう。そして11月には長慶と弟たち3人が全員出陣して、東播磨を三好氏の勢力圏にしました。長逸は、翌年の丹波の波多野晴通討伐には敗北して、松永長頼と交代したとはいえ長慶の勢力拡大に貢献したため、1558年頃までには山城飯岡城主として山城南半分の統治を任されたということ。長慶と義輝が対立した北白川の戦いでは、6月に松永久秀と将軍山城へ出陣して、11月の和睦するまで戦ったそう。

2-3、長逸、申し次、接待なども担当

長逸は、1561年、長慶の息子の義興が将軍足利義輝を屋敷で歓迎した際、接待役の1人を務めていて、三好祐長(三好左衛門尉)に代わって、松永久秀と共に訴訟の取次ぎや長慶の補佐などを扱う側近、申次としての役目も果たしていたということです。長逸は、こういう役目のためと長慶に重用されていたために、室町幕府の同名衆に列せられて、長慶の弟の実休や長慶の息子の義興、松永久秀よりも先に、1560年に従四位下に叙せられたそう。

これは三好家中での長逸の地位の高さや、影響力の大きさのあらわれていたということで、同年、長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、息子の義興が芥川山城を与えられたが、義興が幕府出仕で京都に常駐後、長逸が芥川山城をまかされたことでも、三好家の中での長逸の重要さがわかるそう。1561年、足利義輝が京都の三好邸に御成の際、長逸の席次は長慶と息子義興、松永久秀の次だったということです。

2-4、長逸、教興寺の戦いで勝利に貢献

1562年、三好政権の畿内制覇を決定付けた畠山、六角連合軍との久米田の戦いでは、長慶の弟の実休が討死して三好軍は大敗北、畠山軍は長慶の居城の河内国飯盛山城を包囲し、六角軍は京都を窺うなど劣勢に立たされました。そして三好軍は勢力圏から軍勢を募って6万といわれる勢力を結集、ここでも長逸は重要な役割を果たしたといわれていて、5月の教興寺の戦いで長逸は、池田長正、松山重治、伊丹親興らと畠山軍に攻撃を仕掛けて、勝利に貢献。

3-1、長慶死後、義継の後見人となり永禄の変を起こす

1563年、長慶の跡つぎとなった義興が22歳で早死にしたため、長慶の末弟の十河の遺児で甥の15歳の義継が三好本家の後継者となりました。そして翌年に長慶が死去、3年その死は秘されて、長逸は、三好三人衆として、三好宗渭(そうい)、岩成友通、そして松永久秀らと共に若い義継を補佐することに。長逸は以後、三好三人衆のリーダー格として活動するが、成り上がりの岩成友通と同格にとられるのはいやがったそう。

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