古代日本に登場して以来、長く日本を支配し続けてきた「朝廷」ですが、それがどんな風にできて、どうしてなくなったのか整理できているか?

今回は日本史のキーワードとなる「朝廷」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。日本の政治の中心となった「朝廷」について、改めて勉強してまとめました。

1.日本を治めた「朝廷」の誕生

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そもそも「朝廷」ってなに?

『日本書紀』や『古事記』といった古代日本の歴史書に登場する「朝廷」。まずはその言葉の意味や誕生から見ていきましょう。

「朝廷」はもとは中国の言葉であり、皇帝が政治を行う場所を指しました。日本でも政治の場を指すこともありますが、支配者となる君主(天皇や王様のこと)を頂点にして、官僚組織とともに政治を動かしている政府を意味します。

古代日本において「朝廷」が確立されたのは、大王(おおきみ。天皇の昔の呼び方)の地位が確立して、各地の豪族がその下に官僚としてついた第21代目の雄略天皇から第26代目の継体天皇の間と考えられています。

朝廷ができるまでの日本

では、初代天皇となる「神武天皇」があらわれるまでの日本はどのような世界だったのでしょうか。

神武天皇の即位は紀元前660年とされています。当時の日本は、縄文時代末期から弥生時代の早期にあたるころですね。

縄文時代は紀元前14000年ごろから紀元前10世紀。

ただし、このころ形成された集団には身分の上下などの社会的な構想ははっきりしていません。そういったものが姿を現したのは、弥生時代に入ってからでした。

渡来人の登場で弥生時代へ

狩猟と採取で生活していた縄文人たちに変化をもたらしたのは、中国や朝鮮半島からやってきた「渡来人」たちにでした。

渡来人が日本に稲作を伝えると、水田で米を栽培する農耕がはじまります。農業がはじまることによって、狩猟と採取だけでは不安定だった食糧事情が改善したわけですね。食料の土台となる米が生産され、もちろん、狩猟と採取も続けられていました。

米の他に、渡来人は「青銅器」をもたらします。そうして、日本でも銅剣や銅の鉾といった石器よりも強力な武器が作られました。

さて、ここで武器と食料が揃いましたね。食料とはつまり、集団を維持し、仲間を増やすために最も重要なものです。集団の人口が増え、数軒しかなかった集落は、やがて「ムラ」を形成するほどの人数になっていきます。人が増えれば増えるほど田んぼの開墾と維持ができたり、狩りの安全性の確保など、さまざまなメリットがありますよね。

戦争のはじまり

しかし、集団を支える米が、自然災害や病気によって収穫前の稲穂がダメになってしまったらどうなるでしょう。奇しくも、弥生時代は涼しい気候が続いていて、冷夏によって米が不足ことも少なくありませんでした。狩猟や採取でまかなえればいいですが、すべてのムラが毎日十分な食料を手に入れられるとは限りません。

当時の米を現代の価値観に照らし合わせると、ほとんどお金と同じになります。米はムラの財産でした。土地によって米の収穫量に差ができることはすなわち、貧富の差が広がるということ。

米がなければ明日餓え死にするかもしれない、というとき、もし裕福なムラが近場にあったなら……。分けてもらえればいいのですが、米は大事な財産。よそ者に毎日分け与えていては、自分のムラが飢えてしまうかもしれません。だから、飢えたムラは裕福なムラから米を奪うしかなかったのです。

こうして、日本でも集団と集団による戦争がはじまりました。

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ムラのなかで発生した身分

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米や、あるいは土地を巡る戦争がはじまり、人々は防衛のため、ムラの周りに堀をめぐらせて「濠(ごう)」をつくり、逆茂木や乱杭、高い柵で外敵の侵入に備えました。このようなムラを「環濠集落」といいます。戦争がはじまった弥生時代に欠かせないムラの構造となりました。

農業に建設、戦争と、縄文時代とは打って変わって忙しくなった弥生時代。こうした発展のなかで、集団のリーダーが現れ始めました。リーダーは日々の作業のなかで才能やカリスマ性をもって仲間の信頼を得てなったり、あるいは、占いなどによる宗教的な権威を帯びたものが指導者となったのです。

そうして、リーダーはムラの長となっていきました。さらに集団が大きくなると、ムラはクニとなり、リーダーは王になります。このようにして、集団の中に身分という概念が生まれていったのでした。

九州、神武天皇の登場

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Ginko Adachi (active 1874-1897) - Stories from "Nihon Shoki" (Chronicles of Japan), artelino - Japanese Prints - Archive 29th May 2009, パブリック・ドメイン, リンクによる

こういった状況のなかで登場したのが神武天皇です。『日本書紀』や『古事記』によると、神武天皇は日向国(現在の宮崎県)の王族で、45歳のときに兄や子どもたちとともに軍勢を率いて東征をはじめました。これを神武天皇の「東征神話」といいます。

神武天皇は高千穂の宮を出立し、各地を治める王や豪族を下していきました。最後に近畿の平定が終わると、神武天皇は奈良南部の畝傍山(うねびやま)のほとりを都と宣言し、辛酉年一月一日に橿原宮で初代天皇として即位したのです。

こうして神武天皇から天皇家が始まり、やがて天皇を君主とした「朝廷」という政府組織を形成していきました。

雄略天皇の渡来人組織化

その後、第21代雄略天皇の御代。475年に朝鮮半島の国「高句麗」が同じく朝鮮半島にあった「百済」を攻撃し、百済の都が落ちるという大事件が起こりました。百済自体は別の場所に都を遷して継続するのですが、多くの百済人が日本に逃れてきたのです。

そうして、雄略天皇は逃げてきた百済人を技術集団として管理することにしました。このことをきっかけにして、「管理者と配下」からなる官僚組織がつくられていったと考えられています。それが「朝廷」への最初の一歩だったのでしょうね。

2.朝廷も一枚岩じゃない

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壬申の乱で分立した朝廷

神武天皇からこちら、天皇を頂点とする政治形態が築かれていきました。しかし、天皇家もずっと一枚岩だったわけではありません。

飛鳥時代の終わりごろ、第38代天智天皇の弟「大海人皇子(おおあまのみこ)」と、天智天皇の息子「大友皇子(おおとものみこ)」が天皇の位を巡って対立。天智天皇の崩御後に状況は悪化し、ついに大海人皇子が挙兵する事態となります。このふたりの争いを「壬申の乱」といいました。

その際、大海人皇子を戴く「飛鳥朝廷」と大友皇子(弘文天皇)を戴く「近江朝廷」と、朝廷が同時にふたつも存在することになったのです。

戦いの結果は大海人皇子の勝利。大友皇子を退けたあと、大海人皇子は都を大津(滋賀県)から飛鳥(奈良県)に遷都し、天武天皇として即位しました。

平城太上天皇の変で再び分立

壬申の乱以降もふたつの朝廷が同時に存在していた時期がふたつあります。

ひとつは、平安時代初期に起こった「平城太上天皇の変」。私の世代では「薬子の変」として教科書に載っていた事件です。

当時、弟の嵯峨天皇へと譲位したのち、奈良時代の首都だった平城京へ戻っていた平城上皇。しかし、平城上皇が天皇時代につくった地方行政を監察する「観察使」という制度を嵯峨天皇が変えようとしたことに激怒してしまいます。そうして、平城上皇は再び天皇に復位しようとしました。

嵯峨天皇としても、せっかく天皇になれたのですから、そう簡単にやめるわけにはいきません。なにより、平城上皇の天皇時代に好き勝手振る舞っていた藤原薬子や藤原仲成がようやく大人しくなっていたのに、元の木阿弥にするわけにはいかないのです。

坂上田村麻呂の出陣で終幕

平城京の平城上皇と、平安京の嵯峨天皇の対立は「二所朝廷」と呼ばれ、どんどん激しくなっていきました。平城上皇が平城京を再び遷都して都に戻そうと画策するなか、嵯峨天皇は周辺諸国の国府や関を固め、藤原仲成を捕縛します。そうして、藤原仲成を左遷して権力を奪い、藤原薬子の官位をはく奪。平城上皇の周りの権力を弱らせたことで、怒った平城天皇は関東で挙兵することを決めました。

ところが、東へ向かうその途中、嵯峨天皇の命令を受けた坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ、征夷大将軍)によって阻止されてしまいます。歩みを止められた平城上皇にあとはなく、これにて「平城太上天皇の変」は終幕となりました。

\次のページで「室町時代と同時スタート「南北朝時代」」を解説!/

室町時代と同時スタート「南北朝時代」

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前の二件に比べて長期戦となったのが室町時代と同時に始まった「南北朝時代」。「元弘の乱」で鎌倉幕府を滅ぼした第96代後醍醐天皇は、天皇自ら政治を執る親政を開始。建武元年にはじまったことから「建武の新政」といいます。

ここで後醍醐天皇は平安時代のような天皇と貴族中心の社会を取り戻そうと考えました。しかし、武士たちは、武士が中心になった鎌倉時代をすでに経験しています。さらに言えば、倒幕の最前線で戦っていたのは貴族ではなく武士です。それなのに後醍醐天皇は、その武士たちへの報酬を無視し、もっとひどい場合は武士の所領を没収するなどして、武士たちの怒りを買いました。その結果、先の戦いで戦績をおさめた足利尊氏のもとに武士たちの支持が集まったのです。

南北で対立する朝廷の誕生

さて、当時、実は後醍醐天皇の家系の他に天皇の位を継ぐことのできる血統がもうひとつありました。鎌倉時代は、幕府がこの家系と後醍醐天皇の家系が交互に天皇を継ぐように約束させていたのです。しかし、幕府が倒れた今となっては約束の保証人はなく、従う必要もありません。

憂き目を見ることとなったもうひとつの血統に目をつけたのが足利尊氏でした。足利尊氏は、彼の開く幕府を認めてくれるなら、見返りに天皇にしてさしあげましょう、と取引を持ち掛けたのです。

そうして、足利尊氏の力で光明天皇が京都で即位。一方で、京都から逃れた後醍醐天皇は奈良の吉野で朝廷を立て、以降、京都の北朝と奈良の南朝とで争う「南北朝時代」が成立したのでした。

南北朝時代の終わり

室町時代へ移行して少しは落ち着くかと思われましたが、そうはいきません。各地の守護大名たちが全員室町幕府に従ったわけではなく、自分たちの利益を優先したために敵味方が瞬く間に入れ替わるような巡るましい戦いが起こり続けたのです。

南北朝時代の争いを終わらせたのが、室町幕府の三代目将軍「足利義満」でした。戦い続きで弱った南朝に、足利義満は鎌倉時代と同じように北朝と南朝から交互に天皇を継ぎ合う形にしないか、と持ち掛けます。この約束を受けることにした南朝は、彼らの正当性を示す三種の神器を北朝に渡したのです。

これにて北朝と南朝が再びひとつの朝廷に戻った……のですが、足利義満の約束が守られることはありませんでした。

3.新しい時代の風、朝廷の権威の衰え

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鎌倉幕府と源頼朝の登場

話はさかのぼって、平安時代末期。ここで一番のポイントとなったのが「平清盛」の台頭です。平清盛は武士であり、貴族ではありません。にもかかわらず、太政大臣(現代の総理大臣にあたる)にまで上り詰めたのです。

平清盛に連なる平氏一族は次々に朝廷の官僚に登用され、自分たちが有利になる政治をはじめます。そんなことをしていれば、もちろん他の貴族や武士たちに疎まれますよね。平清盛はそういう勢力を極力排除していきましたが、とうとう後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が挙兵し、全国の源氏たちに向けて平家討伐の令旨を送る事態となったのです。

令旨を受けて立ち上がったうちのひとりが、源頼朝でした。源頼朝は関東で挙兵し、鎌倉に拠点を置いて平家討伐に乗り出します。そうして、紆余曲折のあと、平氏を壇ノ浦の戦いで滅ぼすと、源頼朝は合戦の最中に朝廷からもぎとった関東の権限を使い、朝廷とは別の政治勢力として「鎌倉幕府」を開いたのでした。

文治の勅許で実質的な支配を得た頼朝

幕府は朝廷と別なだけで、朝廷は朝廷として政治をすればいいと思いますよね。ところが、1185年、鎌倉幕府が成立したとされると年に、朝廷は源頼朝に諸国に守護と地頭の設置を許可する「文治の勅許」を発します。

各国に置かれた守護と地頭は、簡単に言うとその国の武士たちの責任者で、租税徴収や軍役を行いました。本来なら朝廷が行うべきことですよね。特に租税の徴収なんて直接的な収入になりそうなことまで。

ともかく、「文治の勅許」によって重要な権限を持った源頼朝が実質的な支配者となったのです。

明治時代まで細々と続く朝廷

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不明 (photo was made in London) - 1. From the arabic Wikipedia [1] 2. Japanese class [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

鎌倉幕府の登場によって武士の世が訪れ、それまでの天皇と貴族を中心とした朝廷にとってかわるようになりました。しかし、これで朝廷がなくなったわけではありません。鎌倉時代はもちろん、室町時代、江戸時代の間も朝廷は京都にあり続けました。

そうして、再び朝廷に転機が訪れたのが1867年の江戸幕府十五代将軍徳川慶喜による「大政奉還」です。江戸幕府は政権を天皇に返したことにより、武士の世が終わりを告げたのでした。

じゃあ、明治時代はまた天皇による政治が行われたのかと言うと、そうではありません。新たに誕生した「明治政府」は表向きには天皇中心となっていましたが、即位した明治天皇は子どもで、実際に命じ政治を動かしていたのは旧薩摩藩や旧長州藩の大久保利通や木戸孝允たちでした。

さらに明治政府は旧来の朝廷のしくみを事実上廃止して、日本を近代国家へと作り替えていきます。その途上にあったのが1855年の「内閣制度」の成立です。これによって古代日本から続いた「朝廷」はなくなったのでした。

日本史のキーマン

古代日本に始まり、明治まで続いた朝廷。武士の世の到来によって実質的な支配権を失いましたが、「朝廷」は日本の歴史とは切っては切り離せない重要なキーワードです。

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日本史歴史

3分で簡単「朝廷」古代日本からのキーワードを歴史オタクがわかりやすく解説

古代日本に登場して以来、長く日本を支配し続けてきた「朝廷」ですが、それがどんな風にできて、どうしてなくなったのか整理できているか?

今回は日本史のキーワードとなる「朝廷」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。日本の政治の中心となった「朝廷」について、改めて勉強してまとめました。

1.日本を治めた「朝廷」の誕生

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そもそも「朝廷」ってなに?

『日本書紀』や『古事記』といった古代日本の歴史書に登場する「朝廷」。まずはその言葉の意味や誕生から見ていきましょう。

「朝廷」はもとは中国の言葉であり、皇帝が政治を行う場所を指しました。日本でも政治の場を指すこともありますが、支配者となる君主(天皇や王様のこと)を頂点にして、官僚組織とともに政治を動かしている政府を意味します。

古代日本において「朝廷」が確立されたのは、大王(おおきみ。天皇の昔の呼び方)の地位が確立して、各地の豪族がその下に官僚としてついた第21代目の雄略天皇から第26代目の継体天皇の間と考えられています。

朝廷ができるまでの日本

では、初代天皇となる「神武天皇」があらわれるまでの日本はどのような世界だったのでしょうか。

神武天皇の即位は紀元前660年とされています。当時の日本は、縄文時代末期から弥生時代の早期にあたるころですね。

縄文時代は紀元前14000年ごろから紀元前10世紀。

ただし、このころ形成された集団には身分の上下などの社会的な構想ははっきりしていません。そういったものが姿を現したのは、弥生時代に入ってからでした。

渡来人の登場で弥生時代へ

狩猟と採取で生活していた縄文人たちに変化をもたらしたのは、中国や朝鮮半島からやってきた「渡来人」たちにでした。

渡来人が日本に稲作を伝えると、水田で米を栽培する農耕がはじまります。農業がはじまることによって、狩猟と採取だけでは不安定だった食糧事情が改善したわけですね。食料の土台となる米が生産され、もちろん、狩猟と採取も続けられていました。

米の他に、渡来人は「青銅器」をもたらします。そうして、日本でも銅剣や銅の鉾といった石器よりも強力な武器が作られました。

さて、ここで武器と食料が揃いましたね。食料とはつまり、集団を維持し、仲間を増やすために最も重要なものです。集団の人口が増え、数軒しかなかった集落は、やがて「ムラ」を形成するほどの人数になっていきます。人が増えれば増えるほど田んぼの開墾と維持ができたり、狩りの安全性の確保など、さまざまなメリットがありますよね。

戦争のはじまり

しかし、集団を支える米が、自然災害や病気によって収穫前の稲穂がダメになってしまったらどうなるでしょう。奇しくも、弥生時代は涼しい気候が続いていて、冷夏によって米が不足ことも少なくありませんでした。狩猟や採取でまかなえればいいですが、すべてのムラが毎日十分な食料を手に入れられるとは限りません。

当時の米を現代の価値観に照らし合わせると、ほとんどお金と同じになります。米はムラの財産でした。土地によって米の収穫量に差ができることはすなわち、貧富の差が広がるということ。

米がなければ明日餓え死にするかもしれない、というとき、もし裕福なムラが近場にあったなら……。分けてもらえればいいのですが、米は大事な財産。よそ者に毎日分け与えていては、自分のムラが飢えてしまうかもしれません。だから、飢えたムラは裕福なムラから米を奪うしかなかったのです。

こうして、日本でも集団と集団による戦争がはじまりました。

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