今回は三好義継を取り上げるぞ。三好長慶の跡継ぎって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三好義継について5分でわかるようにまとめた。

1-1、三好義継はおそらく畿内の生まれ

三好義継(みよしよしつぐ)は、天文18年(1549年)に、十河一存(そごうかずまさ、かずなが)の長男として生まれました。父は三好長慶の末の弟で、母は公家で五摂家の関白九条稙通(くじょうたねみち)の娘(養女説もあり)。異母弟がふたり。

幼名は熊王丸、孫六郎、諱は義詰、最初の名は十河重存(そごうしげまさ)。

1-2、義継、伯父長慶の跡取りに

1561年4月、義継が12歳のときに父十河一存が急死。父の長兄で一族の家長でもある伯父の三好長慶が、5月に十河家の老臣に対して、7月には義継の乳母に対して、それぞれ自分が義継の養育に責任を持つと約束したということです。

そして2年後、義継の従兄で伯父長慶の跡継ぎだった三好義興が早世したので、義継は長慶の養子になり三好本家の跡継ぎに決定、三好姓に改めたそう。

義継が三好家の跡継ぎになった理由は
長慶には早世した義興しか息子がいなかったため、弟の息子たちから後継者を選びました。その候補としては、次弟三好実休(じっきゅう)の3人の息子達のほか、3番目の弟である安宅冬康と、その息子らがいたのですが、長慶は、母が摂関家の九条家の出身、経済的には困窮していても関白の娘であった義継を選んだのではといわれています。

そのわけは、将軍足利義晴、義輝は九条家と同じ五摂家の近衛家と縁組していて、近衛家はこれまた九条家と対立関係にあったので、九条家は足利将軍に対抗する勢力の三好長慶の弟十河一存と縁組してうまれたのが、義継。

また義継の外祖父である九条稙通は公家なのに、娘婿の一存の軍に手勢を率いて加わったほど、三好政権と結びつきが強かったということで、稙通の後押しもあったはずで三好家としても摂関家の血筋の跡継ぎは、京都政権を確実にするために必要だったというなんですね。

なお、十河家は長慶の次弟の実休の次男存保(まさやす、ながやす)が継承することに。

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2-1、伯父長慶が亡くなり、義継が三好家を継承

1564年6月、義継は三好長逸、久秀の息子の松永久通ら4000人の軍勢を率いて上洛し、大納言の広橋国光らとともに将軍義輝に謁見して、三好家の家督相続の許可を得ました。そして重病の長慶を見舞うためにすぐに河内飯盛山城に戻ったが、7月に長慶が死去。義継は15歳で、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)と松永久秀に後見されて家督を継承したのですね。

義継は、翌年5月1日に三好長逸や久秀の息子の松永久通をひきいてふたたび上洛、将軍義輝に謁見、義輝から偏諱を賜って「義重」に改名、左京大夫に任官されました。

2-2、義継、永禄の変を起こす

image by PIXTA / 50078740

その18日後、義継は三好長逸、松永久通と軍勢をひきいて再再度上洛し、将軍義輝の二条御所を包囲して襲撃。義輝と家族、側近たちの多くは殺害され、22日には生き残りの室町幕府の吏僚たちは義継に従ったということ。そして三好長逸が朝廷に参内、朝廷の承認を得たそう。先日義重と改名したばかりだが、ここで義継と改名して、三好義継と名乗るようになったのですが、これは三好家の本家の当主が、武家の最高位である将軍足利家の通字の「義」の字を「継」ぐということで、義継は独自の政治体制を表明したという意味にとれるということです。

2-3、義継の後見の三好三人衆と松永久秀の対立

image by PIXTA / 33201491

足利義輝の暗殺後、僧籍に入っていたひとりは殺害され、もうひとりの一乗院覚慶は奈良の興福寺にいたため、大和の国を統治していた松永久秀が幽閉、しかし義輝の側近だった細川藤孝らが救出し逃亡しました。また8月には久秀の弟で丹波国の統治担当だった内藤宗勝が、萩野直正と交戦し戦死して丹波を奪われてしまったこともあり、久秀の地位は悪化、三好三人衆と対立が激化したということ。

そういうわけで11月に、三好長逸、三好宗渭、石成友通、三好康長らが、義継の居城飯盛山城に軍勢を率いて入城し、義継の奉行人の長松軒淳世らを殺害、主君の義継に久秀討伐を迫ったそう。三好政権から排除された松永久秀は、畠山氏と結んで三人衆に対して抗戦を開始。

そして覚慶は織田信長などの協力のもとで、1567年4月に還俗して足利義秋(後に義昭と改名)を名乗り、左馬頭にも任官され、室町幕府再興へ動き出したのですが、久秀はこの室町幕府再興運動に加担し、織田信長から援軍の約束を取り付け、援軍も派遣されたが、1567年5月に義継の軍勢に敗れて失踪。

2-4、義継、14代将軍候補義栄と対立し逃亡

本丸跡(高屋築山古墳を流用している)
投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 08:56, 24 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

1567年6月には、三好三人衆から援軍要請を受けていた阿波三好家の重臣篠原長房が、14代将軍候補の足利義栄を伴って摂津国兵庫に上陸。義継や三好三人衆は義輝の殺害後に後継将軍を立てる構想はなかったということですが、三好三人衆は義栄の将軍就任に動き、義継をさしおき義栄を主君としてつかえたために、義継とその側近たちはないがしろにされたと考えて、1568年2月義継は河内国高屋城から脱出、義継は三好三人衆が極悪非道で松永久秀が大忠という檄文を近畿内の国人たちにばらまいたということ。

\次のページで「3-1、義継、松永久秀と組むことに」を解説!/

3-1、義継、松永久秀と組むことに

image by PIXTA / 33493277

義継に従ったのは一部の側近たちで三好三人衆は三好政権の大部分を確保していたが、義継が逃亡したため、主なき政権となり、失踪していた松永久秀は義継のよびかけにより姿をあらわして、義継と久秀は手をくんだということです。
義継との結託により三好三人衆と久秀の争いは久秀が有利になったが、久秀軍対三好三人衆軍の戦況の膠着は継続して決着はつかず。そして10月の東大寺大仏殿の戦いでは、筒井順慶と結び大仏殿に陣取った三好三人衆と義継、久秀勢が交戦、大仏殿を炎上させたあげくに義継と久秀勢が勝利し、久秀の勢力が持ち直す契機に。

そして三好三人衆は、阿波三好家と結んだうえに、美濃斎藤氏や六角氏とも同盟を結び、義継と久秀は室町幕府再興を目指す足利義昭をかついだ織田信長らと連携することに。

3-2、義継、足利義昭に従い、三好政権は滅ぶ

1568年7月、織田信長は美濃国に足利義昭を招いて室町幕府再興を約束し、9月に入ってから上洛戦を開始しました。三好三人衆方は、勝竜寺城にたてこもった岩成友通、池田城の池田勝正が信長に抵抗した程度で、9月末に信長と義昭は三好政権の中心だった芥川山城(現大阪府高槻市三好山)に入りました。

そして従属した大名たちの参賀を受け、久秀と義継も芥川山城で義昭に従い、義継は河内北半国と若江城の領有を、久秀は大和守護を安堵されたそう。その後、抵抗した三人衆は居城を次々と落とされて阿波国へ逃亡、14代将軍に担がれた義栄も上洛出来ず病死。三好三人衆の地元の摂津は、将軍義昭を細川藤孝らと擁護していた和田惟政、摂津国人の伊丹親興、池田勝正の三守護制になり、10月に義昭と信長が上洛後、三好政権の拠点だった芥川山城は、一時期和田惟政が預かった後に廃城とされ、義昭と信長は三好政権の象徴の芥川山城を利用して、三好政権から義昭の室町幕府再興の継承をあきらかにしたのですね。

義継は、織田信長と足利義昭の側に付いたことで、自分が受け継いだ三好政権を滅ぼす結果になったのは皮肉なこととしか言いようがないそう。

3-3、義継、本圀寺の変などで活躍

信長がいったん尾張へ帰った2カ月後、1569年1月に阿波から畿内に上陸した三好三人衆の残党が、本圀寺の義昭を襲撃義継は畿内にいた信長派の細川藤孝、浅井長政らと三好三人衆の残党を撃退し、その後の桂川の戦いでも義継は、和田惟政、池田勝正、明智光秀らの軍勢とともに三好三人衆の残党を打ち負かしました

信長は、本圀寺の変を聞いて雪の中2日で京都に駆け付けて、三好三人衆の残党対策のために、義昭の二条御所の建設、義継や久秀らからも家臣をつのって三好三人衆の残党討伐部隊を編成し、行政法規「殿中御掟」を作成、三好三人衆の残党が上陸した堺に矢銭を要求して服従させるなどで、室町幕府の運営強化につとめたということ。

3-4、義https://study-z.net/10748継、信長の媒酌で義昭の妹と結婚

信長は、この中で三好政権の中心だった19歳の義継の処遇についても考えたということで、三好三人衆の残党が万が一でも義継を主君として担ぐことがないよう、室町幕府方に取り込もうとしたのですね。

そして信長は自分が仲介して義昭の妹を義継と結婚させたということです。また、1569年には三好三人衆の一人の三好宗渭が死去、そして義継の調略によって淡路の安宅神太郎が三好残党軍から離反したために、三好三人衆の残党はおさまったということで、この時期、義継は再興室町幕府のためにいろいろな仕事をしていたそう。

3-5、義継、信長と三好残党軍との和睦に尽力

1570年になると、織田信長は再興した室町幕府の内実を固めるべく精力的に動き出し、1月に全国の大名に上洛して将軍義昭へ出仕するよう呼びかけ、4月からは従わない大名たちの討伐を開始。信長は越前朝倉攻めをおこなったが浅井長政に裏切られ、姉川の戦いでかろうじて勝利。6月には池田家中の荒木村重が反逆し、足利義昭側の池田勝正を追放して、三好残党側の池田知正を家督相続させ、7月、三好残党軍が四国から畿内に上陸、室町幕府方の城郭へ攻撃。

三好残党軍は優勢に戦いを進めたために、信長は8月に三好残党軍討伐で出陣。三好残党軍は野田城、福島城へ籠城したが、信長有利となり、残党軍の幹部の三好為三(三好三人衆の三好宗渭の弟)と香西越後守が織田方に内通、そして信長は足利義昭に出馬をもとめて、室町幕府による畿内平定戦のアピールにしたのだが、9月、三好残党軍に調略された本願寺の軍勢が信長軍を急襲し、浅井、朝倉連合軍が近江国坂本を襲撃、比叡山の助けもあって信長不在の京都に迫ったために、信長と義昭は大坂から撤兵、義継は追撃しようとした三好残党軍を食い止めたということです。

信長は、北の浅井、朝倉、比叡山勢に、南の三好残党軍と本願寺勢に包囲網ができあがり、信長の再興室町幕府は最大の危機となったが、このとき、三好残党軍との和睦を義継と久秀が取り持ったそう。

\次のページで「3-6、義継、信長包囲網に加わる」を解説!/

3-6、義継、信長包囲網に加わる

信長と三好残党軍との和議は翌年には反古とされ、三好残党軍は摂津、河内を拠点に石山本願寺と連携、信長包囲網の一角をになったが、本国阿波での三好長治による篠原長房の殺害事件で家中の不和を招いて混乱したなどで、三好残党軍の勢いは衰退。そして1573年には、信長と不和となった将軍義昭自身が決起、義継と久秀らも呼応、反信長で三好一族が一致団結

しかし、西上作戦の最中だった武田信玄が病死したため、三好一族を含め、畿内の反織田勢力が崩壊まっしぐらに。義継の義兄でもある将軍義昭は勢いを盛り返した信長によって畿内から追放されて室町幕府は滅亡、三好三人衆の1人だった岩成友通は淀城で戦死、浅井長政、朝倉義景も滅亡に追い込まれることに。

3-7、義継の最期

東大阪市若江公民分館向かいの若江城跡
Zdz2015 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

信長によって京都から追放された義昭は信長の家臣の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に護衛され、妹婿である義継を頼り、若江城に迎えられました。しかしなぜか義継が義昭をかくまったとして信長の怒りを買ってしまい、1593年11月、信長の命を受けた佐久間信盛に若江城を攻撃され、若江三人衆と呼ばれた重臣らの裏切りもあって落城、義継は25歳で妻子と共に自害し、首は信長に届けられたということ。

「信長公記」では、義継は妻子を殺したあとに城の外へ出て、多くの敵を倒した末、十文字に切腹したとあり、「信長公記」の著者である太田牛一はその最期を「比類なき御働き、哀れなる(感動する)有様」と賞賛、敵の信長が感心するような最期だったということです。義継の死で、戦国大名としての三好家の嫡流は断絶、三好三人衆は信長の前に壊滅状態となり、松永久秀は信長に降伏したため助命されたが、後に再度謀反を起こして敗死。なお、義昭は堺へ脱出。

初の天下人と言われた三好長慶の後を継いだが、10年と持たなかった

三好義継は、室町幕府の管領の細川家の家臣で、四国から畿内に勢力を持ち、不安定な足利政権を京都から追い払って実権を握った三好長慶の甥として生まれ、養子となって跡を継いだ人。

跡継ぎに選ばれたのは、有能だったからではなく母が五摂家の九条家の出身という貴族の家系的なものとつながりでした。本人も高貴な出身という気位は高かったようで、将軍義輝を暗殺し、自分が継ぐつもりで義継と改名したらしいし、後見の三好三人衆が義輝の後釜の義栄を連れてきて主君として崇めると、憤慨して出て行って敵方の松永久秀に付いて行く有様。

ということで、若くして三好政権の要となったが、後見の三好三人衆や松永久秀を制御できず、かといって彼らを引っ張るようなカリスマ性もリーダーシップもなかったよう。伯父の長慶とは似ても似つかないとか、最後までお飾りから脱却できなかったといわれて三好政権も崩壊し、大名としても滅びてしまったのですが、最後は武士らしく勇ましかったのが哀しいですね。

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室町時代戦国時代日本史歴史

三好長慶の後を継いだ「三好義継」とは?なぜ三好政権を滅ぼした?わかりやすく歴女が解説

今回は三好義継を取り上げるぞ。三好長慶の跡継ぎって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三好義継について5分でわかるようにまとめた。

1-1、三好義継はおそらく畿内の生まれ

三好義継(みよしよしつぐ)は、天文18年(1549年)に、十河一存(そごうかずまさ、かずなが)の長男として生まれました。父は三好長慶の末の弟で、母は公家で五摂家の関白九条稙通(くじょうたねみち)の娘(養女説もあり)。異母弟がふたり。

幼名は熊王丸、孫六郎、諱は義詰、最初の名は十河重存(そごうしげまさ)。

1-2、義継、伯父長慶の跡取りに

1561年4月、義継が12歳のときに父十河一存が急死。父の長兄で一族の家長でもある伯父の三好長慶が、5月に十河家の老臣に対して、7月には義継の乳母に対して、それぞれ自分が義継の養育に責任を持つと約束したということです。

そして2年後、義継の従兄で伯父長慶の跡継ぎだった三好義興が早世したので、義継は長慶の養子になり三好本家の跡継ぎに決定、三好姓に改めたそう。

義継が三好家の跡継ぎになった理由は
長慶には早世した義興しか息子がいなかったため、弟の息子たちから後継者を選びました。その候補としては、次弟三好実休(じっきゅう)の3人の息子達のほか、3番目の弟である安宅冬康と、その息子らがいたのですが、長慶は、母が摂関家の九条家の出身、経済的には困窮していても関白の娘であった義継を選んだのではといわれています。

そのわけは、将軍足利義晴、義輝は九条家と同じ五摂家の近衛家と縁組していて、近衛家はこれまた九条家と対立関係にあったので、九条家は足利将軍に対抗する勢力の三好長慶の弟十河一存と縁組してうまれたのが、義継。

また義継の外祖父である九条稙通は公家なのに、娘婿の一存の軍に手勢を率いて加わったほど、三好政権と結びつきが強かったということで、稙通の後押しもあったはずで三好家としても摂関家の血筋の跡継ぎは、京都政権を確実にするために必要だったというなんですね。

なお、十河家は長慶の次弟の実休の次男存保(まさやす、ながやす)が継承することに。

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