その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三好三人衆について5分でわかるようにまとめた。
1-1、三好三人衆とは
三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国時代、京都の覇権を握った三好長慶の死後、あとをついだ長慶の養子で幼少の義継を補佐して三好政権を支えた三好長逸(ながやす)、三好宗渭(そうい)、岩成友通(ともみち)の3人のこと。
彼らは三好氏の一族、重臣。なお、三人衆とは後世に名付けられたのではなく、当時の「言継卿記」「多聞院日記」などの記録でも「三人衆」と表記されているということです。
1-2、三好三人衆結成の発端は
三好長慶が元気なころは、三人衆それぞれが軍を率い一族の重鎮として活動していました。三好長逸は三好一族の長老なので三人衆のリーダー的存在で、岩成友通は松永久秀とならんで家臣団の代表、三好宗渭はもともとは長慶の主君の管領細川晴元につかえていたので、旧細川氏家臣団や堺衆との交渉役という役割分担があったそう。
そして1564年に三好長慶が死去すると、長慶の4人の弟たち、長慶の嫡男がすでに病死していたため、長慶の末弟の十河一存の息子で甥の義継が後継者となったが、14歳と年若すぎていたために、後見役としてこの3名と松永久秀が実権を握るようになりました。
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2-1、三好三人衆
京都府立京都学・歴彩館 東寺百合文書WEB – http://hyakugo.kyoto.jp/contents/images/056_12932_0001.jpg, CC BY 2.1 jp, リンクによる
3人についてご紹介しますね。
2-2、三好長逸(ながやす)
三好長逸の通称は孫四郎、初めの諱は、長縁、法号は宗功。元亀年間には「北斎宗功」の号を名乗ったそう。息子が三好長虎。長逸は、長慶の曽祖父(祖父説も)之長の4男長光、または5男長則の子とされているが、三好宗渭(正康)の兄弟説もあるそう。とにかく主君長慶の傍系の一族であることは間違いないようですね。
生年は不明、本家の主の長慶に仕える三好一族の1人で従叔父。三好一族は多くが細川家の内紛の中で若死にしていて、長慶の若いころに後援してくれた三好連盛も長慶とたもとを分かって没落、三好政長は長慶の父元長の仇であり敵対関係にあったという一族の事情もあり、長逸は長慶から一族の年長者として信頼されたということ。長慶の信頼の証拠として、長逸は三好家の勢力圏全域である山城、摂津、河内、丹波、大和で、所領安堵や年貢の督促などを行った文書が残っているそうです。
軍事面でも長慶の主要な戦いに従軍して、三好家の勢力拡大に貢献し、長慶に最も信頼を得た家臣だったそう。山城飯岡城主に任命されて山城南半分の統治を任され、松永久秀とともに将軍義輝の接待役を任されたり、三好祐長(三好左衛門尉)に代わり、松永久秀と訴訟の取次ぎや長慶の補佐などを扱い、同名衆にも列せられたということ。また長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた跡継ぎの義興が幕府出仕で京都に常駐後、長逸が義興が不在の芥川山城を任されたことで、三好家における家老級の存在に。
2-3、三好宗渭(そうい)
一般には政康と呼ばれているが、「細川両家記」の誤謬がもとだということで、初めは政勝、政生(まさなり)、後に出家して釣竿斎宗渭(ちょうかんさい そうい)に。宗渭の父には諸説があり、「続応仁後記」では三好之長の次男で孫三郎頼澄。なので、頼澄の子ならば兄は三箇城の城主三好政成。また三好長慶の書状などによれば「宗三」と「右衛門大夫政勝」が「父子」と表現されているため、宗渭の父は三好宗三を名乗った三好政長、弟は三好為三(いさん)ということに。
宗渭は、父三好政長、弟為三と細川晴元に仕え、実権は父とはいえ1544年に家督を継いでいます。そして宗渭は父とともに晴元に従い、三好長慶と敵対関係にあって色々な戦いで対戦したのですが、1558年9月には、その仇敵の長慶の家臣となったということです。以後、宗渭は長慶の勢力拡大に貢献、1564年の長慶の死後は、長慶の甥で跡継ぎの義継の後見役の1人として台頭。
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