ウッドロー・ウィルソンとは第28代アメリカ合衆国大統領。第一次世界大戦では、中立の立場をとりながらも、最終的に米国の参戦を決断したことでも知られている。政治学者としての顔を持ち、民主主義を実現するための政府のあり方を研究した。戦争後期に彼が提唱した「十四か条の平和原則」は国際連盟の理念のベースとなっている。

彼の政治の概念や理想は「ウィルソン主義」と呼ばれ、現代の合衆国の外交に影響を与えている。そんなウィルソンの政策とその後の評価を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「ウィルソン大統領」を避けて通ることはでいない。彼は大学の教授や学長を務めていた知性派。国益を追求するために他の国家の民主主義を侵害することを批判した。そんなウィルソン政権に関連する出来事をまとめてみた。

ウッドロー・ウィルソンとはどんな人?

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By G. V. Buck, from U. & U. - Liberty's Victorious Conflict: A Photographic History of the World War. Chicago: The Magazine Circulation Co. 1918. p. 71., Public Domain, Link

トーマス・ウッドロー・ウィルソンとは、第28代アメリカ合衆国大統領で、政治学者としての顔も持っている人物です。第一次世界大戦後のパリ講和会議でも存在感を発揮しました。

敬虔なキリスト教牧師の家庭に生まれる

ウィルソン大統領は1856年12月に、敬虔なキリスト教の牧師であった父と、学者一家の娘であった母のあいだに生まれました。とくに父親は合衆国長老教会の創設者のひとりとして、宗教界をけん引する存在でした。

ウィルソン大統領の両親は、南北戦争のときには南部軍を支持。奴隷制を擁護する立場をとり、実際に奴隷を所有していました。ただ労働に従事させるだけではなく、彼らのための日曜学校を開いていました。

幼少期は学習障害を抱えていたウィルソン大統領

ウィルソン大統領は、教育面では恵まれた環境で育ったものの、自身は学習障害をかかえていました。ディスレクシアのため文字の読み書きの習得に時間がかかります。

しかしながらウィルソン大統領は独学で速記を習得。父親の指導のもと勉学に励みます。ノースカロライナのデイビッドソン大学からプリンストン大学に編入し、政治史や政治哲学を学ぶようになりました。

政治学の学者として経験を積んだ「ウィルソン大統領」

Nassau Hall, Princeton University-LCCN2008679655.tif
By Library of Congress ''Catalog:'' http://lccn.loc.gov/2008679655, Public Domain, Link

幼少期は学習障害で苦労することがあったものの、知能明晰で勉強熱心だったウィルソン大統領は、政治学の学者として頭角をあらわします。研究成果により博士号を授与され、大学の総長をつとめるという本格派でした。

米国大統領として唯一博士号を取得

ウィルソン大統領は、アメリカの大統領としてただひとり、研究者として博士号を授与されたことでも知られています。博士号を授与したのはメリーランド州にあるジョンズ・ホプキンス大学でした。

アメリカの歴代大統領のなかには博士号取得者そのものはいます。しかし、基本的に「名誉」という位置づけ。それに対してウィルソン大統領は、学問上の功績が認められた唯一のケースと言えるでしょう。

法律学と政治経済学の教授に就任する

ウィルソン大統領は、政治学の研究を深めたあと、1885年にブリンマー大学で歴史学や政治学を教えるようになります。博士号を取得したあと、コネチカット州にあるウェズリアン大学で経験を積みました。

そして1890年、彼の母校であるプリンストン大学にて教授に就任。さらに1902年にはプリンストン大学の学長に選ばれます。政治学の権威であるアメリカ政治学会の学長をつとめたのもこの時期でした。

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政治学者「ウィルソン大統領」の学問的貢献

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ウィルソン大統領は政治家としてその名を残していますが、同時に政治学者としても多くの成果を残しました。そこで研究者としてのウィルソン大統領の学問的功績をまとめてみます。

政治学から行政学を分離させる

トーマス・ウッドロー・ウィルソンの研究者としての重要な成果のひとつが行政学という学問領域を確立したこと。1887年に発表された論文「行政の研究」にて政治学から行政学を独立させる必要性を唱えました。

現在の研究では、政治と行政は区別されていますが、この時代は区別があいまい。ウィルソン大統領のこの論文は行政学の研究を発展させるきっかけとなり、今では「行政学の創始者」として位置づけられています。

アメリカ政治学会の会長として活躍

アメリカ政治学会の会長に選任されたこともウィルソン大統領の功績のひとつです。アメリカ政治学会とは、1903年に創設された政治学者の国際交流を目的とする組織。今でも大きな影響力がある政治学の権威です。

学会の会長に選ばれるためには、国内外の研究者を束ねるリーダーシップのみならず、研究者としての評価がなければなりません。ウィルソン大統領は1909年から1910年にかけての任期を務めあげました。

学者としての政治的コメントが評価され政界に進出

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政治学者ウィルソンは政治問題に対する論客として活躍。実際に政治の世界にかかわることを期待されるようになります。そこで、ニュージャージー州知事を経て、1912年の大統領選で当選を果たしました。

政治問題の論客として知名度を獲得

ウィルソン大統領は政治学者としての地位を得らことから、合衆国の政治問題についてコメントを求められることが増えていきます。それにより徐々に一般の人々のあいだでも知名度を高めていきました。

また、行政学の創始者であったことから、公的な機関からパブリックコメントを求められることも。それにより、実際に政治の世界に参入することを、さまざまな領域で期待されるようになりました。

1912年の大統領選で民主党から立候補

ウィルソンのパブリックコメントは評判を呼び、1910年に民主党よりニュージャージー州知事の候補に指名されることに。知事選に勝利して学者出身の知事となりました。

さらに1912年の大統領選で民主党はウィルソンを候補者として指名。ウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトが政策をめぐり対立したことから票が割れ、見事に当選するに至りました。

「ウィルソン大統領」の政治政策

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政治学者として活躍したウィルソン大統領。彼の行政に関する知識はアメリカの政治を改善するだろうと期待されます。実際は理想と現実のあいだのギャップが目立つ結果となりました。

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新自由主義と呼ばれる経済政策を推進

ウィルソン大統領の時代の経済政策は「新自由主義(ニューフリーダム)」と呼ばれています。新自由主義とは、一部の企業の独占状態を緩和させ、もっと自由に企業間の競争を促そうというものです。

企業が新規に参入できるように、ウィルソン大統領が取り組んだのが関税を引き下げ。大企業の独占を守ってきた法制度を変えていきます。さまざまな新規参入が促される一方、大企業の反発を買うことになりました。

棍棒外交を批判するものの改革には至らず

ウィルソン大統領が1912年の大統領選挙で争ったのが、共和党で分裂したウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトのふたり。そのため彼は、タフトとルーズベルトの政策を批判する姿勢を持っていました。

ルーズベルトは武力による威嚇を用いた棍棒外交を展開。経済力を用いたドル外交を目指したのがタフトでした。それをウィルソンは批判するものの、メキシコを武力で鎮圧するなど方針ははっきりしませんでした。

第一次世界大戦に参戦した「ウィルソン大統領」

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Various (Periodical) - Image Processed by Distributed Proofreaders as part of the e-book creation process for Project Gutenberg e-book Illustrated War News - Part 21, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィルソン大統領の存在感が増した出来事が第一次世界大戦でしょう。このときウィルソン大統領は中立の立場を貫くことで世論の支持を得ましたが、最終的に戦争に介入することになります。

中立政策により大統領に再選を果たす

第一次世界大戦の時期にアメリカは、フランス、ロシア、イギリスを中心とする連合国に、物資や武器を支援していました。しかしながら表面的には中立の立場に立つという矛盾を抱えていました。

ウィルソン大統領が中立の立場をとった理由のひとつが支持率。「彼は私たちを戦争に巻き込みませんでした」というキャッチコピーとともに選挙戦を展開し、1916年に再選を果たします。

日本の軍事的台頭が参戦決断の理由のひとつ

ウィルソン大統領が第一次世界大戦に関与することを決断した理由のひとつが日本の軍事的台頭です。もともと日本は日清戦争や日露戦争に勝利したことで軍事的な存在感が増していました。

日本は連合国側として戦っており、戦争が始まったころには中国のドイツ領の占領にも成功。このままアメリカが中立を貫くと、日本の発言権が増す可能性大。それが参戦する理由のひとつとなりました。

「ウィルソン大統領」は反ドイツ感情を理由に参戦を決意

President Wilson reading the Armistice terms to Congress., 11-11-1918 - NARA - 530764.tif
不明 author または not provided 翻訳 - U.S. National Archives and Records Administration, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィルソン大統領が第一次世界大戦への関与を公式に宣言したのは対ドイツ戦。このときドイツは、民間人を巻き込む攻撃を展開しており、国際社会で厳しい批判を受けていました。

ドイツの無制限潜水艦作戦によるアメリカ人の犠牲

ドイツはアメリカが参戦することを警戒し、メキシコに同盟を結ぶことを提案。この「ツィンメルマン電報」の存在が知られたことにより、アメリカ国内の世論は一気に参戦を支持するようになりました。

そしてアメリカの参戦を決定的にしたのがドイツによる無制限潜水艦作戦。イギリスのルシタニア号が沈没させられたことで国民の反ドイツ感情が生まれ、参戦の機運が一気に高まりました。

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「十四か条の平和原則」を発表

第一次世界大戦が終わりに近づくころウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表します。1918年に開催されたアメリカ連邦議会での演説のなかでした。この演説により劣勢にあったドイツに新たな動きが生じます。

ウィルソン大統領が「十四か条の平和原則」のなかで明らかにしたのが戦後の国際秩序の構想。とくに現代のつながりがあるのが国際連盟の設立です。現在の国連の前身にあたる組織がこのとき構想・設立されました。

パリ講和会議の中心人物となった「ウィルソン大統領」

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Woodrow Wilson Presidential Library Archives - https://www.flickr.com/photos/41815917@N06/5433487401/, No restrictions, リンクによる

ウィルソン大統領は「平和原則」における中立的な態度から世界的に評価が上昇。賠償金などドイツに不利な要求もなかったことから、休戦を決断させたともいわれています。

「十四か条の平和原則」が人格者のイメージアップ

そこでウィルソン大統領は、戦後の世界秩序を話し合うパリ講和会議の中心人物となりました。「人格者」「正義の人」というイメージが定着。フランスやイギリスと肩を並べて、戦後の国際秩序の回復を話し合います。

とくにウィルソンが力を入れていたいのが国際連盟の設立。講和会議の委員会のひとつである国際連盟委員会のは、ウィルソン大統領自身が委員長として就任。その実現にこだわりを見せていました。

ドイツに対する賠償金をめぐりフランスと対立

「平和原則」が評価されていたウィルソンでしたが、この理想がそのまま実現することはありませんでした。とくにドイツに課する賠償金をめぐってフランスと対立。「人格者」としての期待に応えられなくなります。

最終的にドイツは、その後も長く苦しむ多額の賠償金の支払いを命じられることに。その結果、ドイツは長きにわたる不況時代に突入。そこからヒトラー率いるナチスドイツが支持され、侵略行為が開始されていくのです。

理念と現実のギャップにさらされた「ウィルソン大統領」

ウィルソン大統領は昔からひどい片頭痛に苦しんでいましたが、パリ講和会議のあとに脳梗塞を発症。言葉を明瞭に話せなくなるなど、本来の知性を発揮できなくなります。大統領職を辞したあとは妻とのんびりとした時間を過ごしますが1924年に死去。ウィルソン大統領は研究者としての顔を持つことから、理念は人々に支持されましたが、政治的実行力はやや弱いことから失望させてしまう傾向が。そのため政治家としての成果は多くあるとは言えません。ただ、国連の基礎を築くなど、現代の国際社会に大きな痕跡を残したことは間違いないでしょう。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

3分で簡単「ウィルソン大統領」の人生と政治活動!学者としての顔も持つ彼を元大学教員がわかりやすく解説

ウッドロー・ウィルソンとは第28代アメリカ合衆国大統領。第一次世界大戦では、中立の立場をとりながらも、最終的に米国の参戦を決断したことでも知られている。政治学者としての顔を持ち、民主主義を実現するための政府のあり方を研究した。戦争後期に彼が提唱した「十四か条の平和原則」は国際連盟の理念のベースとなっている。

彼の政治の概念や理想は「ウィルソン主義」と呼ばれ、現代の合衆国の外交に影響を与えている。そんなウィルソンの政策とその後の評価を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「ウィルソン大統領」を避けて通ることはでいない。彼は大学の教授や学長を務めていた知性派。国益を追求するために他の国家の民主主義を侵害することを批判した。そんなウィルソン政権に関連する出来事をまとめてみた。

ウッドロー・ウィルソンとはどんな人?

Wilson Cabinet 2.jpg
By G. V. Buck, from U. & U. – Liberty’s Victorious Conflict: A Photographic History of the World War. Chicago: The Magazine Circulation Co. 1918. p. 71., Public Domain, Link

トーマス・ウッドロー・ウィルソンとは、第28代アメリカ合衆国大統領で、政治学者としての顔も持っている人物です。第一次世界大戦後のパリ講和会議でも存在感を発揮しました。

敬虔なキリスト教牧師の家庭に生まれる

ウィルソン大統領は1856年12月に、敬虔なキリスト教の牧師であった父と、学者一家の娘であった母のあいだに生まれました。とくに父親は合衆国長老教会の創設者のひとりとして、宗教界をけん引する存在でした。

ウィルソン大統領の両親は、南北戦争のときには南部軍を支持。奴隷制を擁護する立場をとり、実際に奴隷を所有していました。ただ労働に従事させるだけではなく、彼らのための日曜学校を開いていました。

幼少期は学習障害を抱えていたウィルソン大統領

ウィルソン大統領は、教育面では恵まれた環境で育ったものの、自身は学習障害をかかえていました。ディスレクシアのため文字の読み書きの習得に時間がかかります。

しかしながらウィルソン大統領は独学で速記を習得。父親の指導のもと勉学に励みます。ノースカロライナのデイビッドソン大学からプリンストン大学に編入し、政治史や政治哲学を学ぶようになりました。

政治学の学者として経験を積んだ「ウィルソン大統領」

Nassau Hall, Princeton University-LCCN2008679655.tif
By Library of Congress ”Catalog:” http://lccn.loc.gov/2008679655, Public Domain, Link

幼少期は学習障害で苦労することがあったものの、知能明晰で勉強熱心だったウィルソン大統領は、政治学の学者として頭角をあらわします。研究成果により博士号を授与され、大学の総長をつとめるという本格派でした。

米国大統領として唯一博士号を取得

ウィルソン大統領は、アメリカの大統領としてただひとり、研究者として博士号を授与されたことでも知られています。博士号を授与したのはメリーランド州にあるジョンズ・ホプキンス大学でした。

アメリカの歴代大統領のなかには博士号取得者そのものはいます。しかし、基本的に「名誉」という位置づけ。それに対してウィルソン大統領は、学問上の功績が認められた唯一のケースと言えるでしょう。

法律学と政治経済学の教授に就任する

ウィルソン大統領は、政治学の研究を深めたあと、1885年にブリンマー大学で歴史学や政治学を教えるようになります。博士号を取得したあと、コネチカット州にあるウェズリアン大学で経験を積みました。

そして1890年、彼の母校であるプリンストン大学にて教授に就任。さらに1902年にはプリンストン大学の学長に選ばれます。政治学の権威であるアメリカ政治学会の学長をつとめたのもこの時期でした。

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