鎌倉幕府の歴代将軍を知っているか?実は、初代源頼朝の系図に連なる将軍はふたりしかいなのです。

今回はそのうちのひとり、三代目将軍「源実朝(みなもとのさねとも)」を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。義経を討った頼朝とその後の鎌倉幕府がいったいどんな道のりを辿ったのかを複雑な感情を抱えながらしたためた。

1.源氏による鎌倉幕府の誕生

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当時を知る手掛かり『吾妻鏡』と貴族の日記

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初代将軍・源頼朝から六代将軍・宗尊(むねたか)親王までを鎌倉幕府の視点から記録を記したのが作者不詳の『吾妻鏡』でした。これは武士が初めて作った歴史書です。ただし幕府で起こったことの記録が中心であって、日本全体の記録ではありません。そのため、鎌倉時代を知るためには、『吾妻鏡』だけでなく、当時書かれた貴族の日記など別の資料も必要になってくるんですね。

その一例として、都側の視点から記録されたのが天台宗の僧侶・慈円のが書いた『愚管抄』がよくあげられました。『愚管抄』は鎌倉時代初期の歴史書であり、中世日本の歴史書のなかで最も重要な史料とされています。

実朝の父・源頼朝

平安時代、日本の政治の中心は都(京都府)の皇族と貴族たちのものでした。しかし、政治の主導権の転機となったのが、平安時代末期に起こった「治承・寿永の乱」、いわゆる「源平合戦」です。「治承・寿永の乱」は六年にもおよぶ長い内乱でした。

文字通り、戦いの中心となったのは「平氏」と「源氏」というふたつの武家。両者はもともと武家としてライバル関係で、源氏の方が一歩リードするような状況でした。しかし、平氏の棟梁「平清盛」の出現によって力関係に差が生まれてしまいます。さらに、平清盛が天皇家と結びつき、外戚として権力を振るうようになると源氏はますます肩身の狭い思いをするようになったのです。

平氏と源氏の関係を決定的なものにしたのが「保元の乱」と「平治の乱」でした。このふたつの戦いによって、源氏の有力者だった源頼朝の父・源義朝や兄弟、親戚が処刑されてしまいます。頼朝自身は清盛の母・池禅尼(いけのぜんに)の懇願によって命を救われるのですが、その後は伊豆(静岡県)に配流され、そこで平氏の傍流にあたる北条氏に監視されながら大人になりました。

実朝の継いだ鎌倉幕府誕生まで

囚われた源頼朝が立ち上がるきっかけとなったのが、都で起こった「以仁王(もちひとおう)の挙兵」と同時に以仁王から発せられた平家討伐の令旨です。こうして頼朝は長い源平合戦へと身を投じることになりました。

源平合戦の主な舞台となったのは西日本でしたが、頼朝は戦場に弟の源義経や源範頼を派遣するだけで本人は赴きません。頼朝を支持する関東の武士たちの要望に応えるべく、頼朝は鎌倉を拠点として関東の安定に尽力します。そして、弟たちが戦っている間、頼朝は朝廷から独立する関東の支配権を強めていきました。これが鎌倉幕府を開く重要な要素だったのです。

源頼朝の短い治世

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無事に源平合戦が終わり、さらに目の上のたんこぶだった東北の奥州藤原氏を滅ぼした頼朝。これで天下は安泰のように思えました。

彼は御家人(家来の武士)の人気も高く、さてこれからだぞ、と意気込んで七年目の1199年のこと。なんと頼朝は馬から落ち、それが原因で亡くなってしまうのです。

けれど、頼朝は50歳になっていたとはいえ、武士が落馬なんてするでしょうか?そう思ったのは、今も当時もかわりません。このため、頼朝の死は暗殺だったのではないか。いいや、頼朝が無惨に責め立てた弟・義経が祟ったのではないか、とたくさんの噂が流れたのです。

ともあれ、頼朝の治世はたった七年で幕を下ろしたのでした。

実朝の兄、二代目将軍源頼家

急死した源頼朝の跡を継いだのは、頼朝の嫡男・源頼家(みなもとのよりいえ)でした。頼家は頼朝から鎌倉幕府と征夷大将軍の受け継ぎ、二代目の将軍となります。

しかし、御家人から大人気だった頼朝に比べ、頼家は御家人の人気が異常なまでにない将軍でした。というのも、頼家は人の心ならぬ御家人の心のわからない将軍だったのです。

封建制度の幕府で土地を蔑ろにした将軍

さて、鎌倉幕府が作ったシステムのなかに、「封建制度」、あるいは「御恩と奉公」というものがあります。この当時、御家人たちの収入源は彼らが統治する領地から上がる税金でした。給料を得るためにはまず土地が必要だったわけですね。そして、その肝心の土地は将軍から与えられるものでしたから、御家人は将軍から土地をもらう恩返しに鎌倉幕府に奉仕する、という仕組みなのです。なので、土地は幕府にとっても、そこに仕える御家人たちにとっても大変重要なものでした。

しかし、頼家は広大な領地を持つ御家人の土地の一部を没収して、所領を持たない側近に与えようとします。さらに頼家が妻の実家の比企(ひき)一族をひいきして優遇していたことも重なって、御家人たちの不満が爆発。頼家は在職の将軍にもかかわらず追放され、伊豆の修禅寺に幽閉されてしまいました。そして、頼家はそこで病気で亡くなったとされています。ただ、こちらも頼朝と同じように暗殺されたという薄暗い説もあるほど、その死は疑惑の残るものだったのでしょう。

\次のページで「2.源実朝の将軍就任までゴタゴタ続き」を解説!/

2.源実朝の将軍就任までゴタゴタ続き

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次の将軍の座は誰の手に?

家督相続は、普通、嫡男が後を継ぐのが定石ですよね。実際、源頼家はそうやって源頼朝の跡を継いで将軍になったわけですから。

けれど、コトはそう簡単には進みませんでした。頼家には四人の息子がいましたが、北条氏をはじめとした有力御家人たちは頼家の長男・一幡(いちまん)を将軍にしないようにと画策します。

なぜなら、一幡の母親は比企一族で、それまで頼家によって比企一族は散々ひいきされてきたのに、一幡が将軍になればさらにひいきが増長するのが目に見えていたからですね。比企一族も将軍の外戚として権力を握るわけですから、幕府の重要な役職や決め事に口を挟み放題です。

他の有力御家人たちにとってこれほど面白くないこともありません。特に北条氏の長であり、頼家の祖父にあたる北条時政などは頼朝の死と将軍の交代によって権力が衰えていましたから、是が非でもなんとかしたかったことでしょう。

そういうわけで、源実朝の将軍就任まで幕府内部でかなりのゴタゴタがはじめるのです。

比企能員の変

源実朝の将軍就任の序章となるのは、兄の源頼家がまだ現役将軍だったころのこと。源頼家にとって都合の悪いことに、頼家自身が急病で倒れ、一時危篤状態と診断される大事が起こります。そのため、急遽頼家の跡継ぎ問題をどうにかしなくてはならなくなりました。そこで御家人たちは頼家の権限を一幡と実朝に分割相続させたのです。

普通なら分割せずに全部一幡の権限となっていたものを、どうして実朝にも継承させるのか、と怒ったのは比企一族の長「比企能員(ひきよしかず)」でした。彼は北条時政が実朝の擁立を企んでいると頼家に訴え、頼家から北条時政の討伐命令をもぎとります。

しかし、実は、この訴えを障子の影から聞いている人がいました。頼家の母・北条政子です。北条政子は北条時政の娘で、彼女は急いでこのことを父に伝え走ります。そうして、比企能員の企みを知った北条時政は、先手を打って比企能員を呼び出して謀殺を成功させたのでした

比企一族は比企能員を殺されたことを知ると、彼らは一幡の屋敷に立てこもる籠城作戦に出ます。しかし、そこは多勢に無勢。追い詰められた比企一族はとうとう屋敷に自ら火を放ち、自害してしまいました。わずか六歳の一幡もまた比企一族と一緒に滅亡したのです。

権力争いの末、比企一族が滅んだこの争いを「比企能員の変」といいます。

実朝の将軍就任決定

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ようやく危篤状態から回復し、比企一族と一幡の死に怒った源頼家は、内密に北条時政討伐の手紙を何人かの御家人に送りつけます。

しかし、北条時政討伐の手紙を送った御家人のひとり和田義盛が、わざわざその手紙を北条時政本人に見せたことで事態が露見。北条時政は直ちに手紙を受け取った他の御家人たちを殺害して事なきを得ます。

そして、頼家自身は鎌倉を追放され、伊豆の修禅寺に幽閉されることとなりました。

そうして、まだ頼家が生きているうちから朝廷に「頼家が亡くなった」というウソの報告を送ります。それに重ねて、源実朝に征夷大将軍の称号と家督の相続許可を求めたのです。

3.二代目将軍・源実朝の就任

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Hannah - Japanese Book 『國文学名家肖像集』, パブリック・ドメイン, リンクによる

\次のページで「わずか十二歳の将軍「源実朝」」を解説!/

わずか十二歳の将軍「源実朝」

兄・源頼家を退け、三代目の鎌倉幕府将軍になった源実朝。このとき、彼は若干十二歳の子どもでした。実朝を擁立し、実権を握った祖父の北条時政は「執権」として実朝よりも強い権力をもって政治を行い始めます。

ところで、「幼い将軍に代わって政治をする執権」という図式を、ちょっとどこかで聞いたことありませんか?

平安時代、藤原氏が天皇の外戚となって権力を握った「摂関政治」とよく似ていますね。けれど、似てはいても役職の名前は違いますからご注意を。

北条氏は「執権」で、藤原氏は「摂政」「関白」です。

強引すぎる北条時政への反発

源実朝が三代目将軍となり、やっとゴタゴタがおさまるかと思いきや、そうスマートにはいきません。実朝が家督を相続した1205年、その同じ年のうちに祖父の北条時政が武蔵国(東京都周辺)を掌握しようと、武蔵国の有力御家人・畠山重忠を攻め滅ぼした「畠山重忠の乱」が起こります。しかし、北条時政の息子・北条泰時と畠山重忠は友人関係にあり、強引にコトを進める父に反感を抱きました。

さらに、実朝を将軍に擁立していた北条時政でしたが、ここで実朝とは別の将軍を立てようとします。それには実朝の母・北条政子も怒りますよね。かくして、北条時政vs北条泰時・北条政子の戦いがはじまったのです。

そうして、北条時政は計画を進めるべく、側室の牧の方とともに実朝に害をおよぼそうとしました。けれど、北条政子の命令を受けて実朝を迎えにきた御家人たちに守られ、実朝は無事に北条義時のもとへ匿われます。

実朝廃止の計画に失敗した北条時政はもちろん失脚。牧の方と共々出家して伊豆国へ追放となりました。この事件を「牧氏事件」といいます。

北条時政追放後、執権は北条泰時が継ぐこととなりました。

実朝は武芸よりも和歌が好き

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さて、たくさんの事件を乗り越えてきた将軍・源実朝でしたが、実は実朝、この将軍職があまり好きではありませんでした。兄の源頼家の武芸は達人級であったのに対し、実朝は武士というものが好きになれません。それどころか、将軍家に生まれながら京都の貴族のように和歌を好み、和歌の大御所「藤原定家」に弟子入りまで果たします。

実は、藤原定家が選んだ「小倉百人一首」に実朝も「鎌倉右大臣」という名前で一首選ばれているんです。つまり、実朝にはそれほどの和歌の才能があったということ。その証拠に実朝は自分の和歌を集めて「金槐和歌集」という評判の良い私家集をつくりました。

しかし、どれだけ和歌がよくてもそこは武士の治める鎌倉。将軍がなにをやっているんだ、とばかりに御家人たちの評価はよくありませんでした。

一難去ってまた一難が続くよどこまでも

執権の座を継いだ北条義時は幕府内での北条氏の力を強めようとしている最中、それに有力御家人の和田義盛が対抗するようになります。やがて北条義時と和田義盛の間に武力衝突が起こり、「和田合戦」にて和田氏が滅びたのです。

初代将軍・源頼朝の死から14年目。これで大きな内乱や事件は五度目となり、三年に一回は戦っていることになります。

実朝の暗殺

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1219年、源実朝は朝廷から右大臣へ任じられました。これは武士として初めてのことで、その昇任のお祝いに実朝は源氏の氏神を祀る鶴岡八幡宮に参拝することになります。

つつがなく参拝を終え、帰路につこうとしたときのこと。実朝は大銀杏に隠れていた男に刺され、殺されてしまいます。

男が言うには、これは親の仇うち。彼は源頼家の次男で、出家していた「公暁(くぎょう)」でした。公暁は実朝を刺し殺し、すぐに有力御家人の三浦氏のもとへ逃げ込みます。しかし、そこで公暁は匿われることなく幕府に引き渡されて処刑。

殺された実朝に子どもはなく、また、頼家の最後の男子だった公暁が処刑されてしまったため、源頼朝の血統による幕府の支配はわずか三代、34年の短い歳月で絶えることとなったのです。

時代の勝者だったはずの源氏

源平合戦を勝ち抜き、時代の転機としてはじまった鎌倉時代。しかし、鎌倉幕府の頂点だった源頼朝はたったの七年の治世しかなく、後を継いだ源頼家もまた長く将軍の座にありませんでした。

三代目将軍となった源実朝は、しかし、将軍職を好まず和歌を愛した風流人。もし将軍家ではなく、都の貴族の子として生まれれば歌人として素晴らしい業績を残したかもしれませんね。

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日本史歴史鎌倉時代

不運が続く鎌倉幕府将軍家の三代目「源実朝」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

鎌倉幕府の歴代将軍を知っているか?実は、初代源頼朝の系図に連なる将軍はふたりしかいなのです。

今回はそのうちのひとり、三代目将軍「源実朝(みなもとのさねとも)」を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。義経を討った頼朝とその後の鎌倉幕府がいったいどんな道のりを辿ったのかを複雑な感情を抱えながらしたためた。

1.源氏による鎌倉幕府の誕生

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当時を知る手掛かり『吾妻鏡』と貴族の日記

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初代将軍・源頼朝から六代将軍・宗尊(むねたか)親王までを鎌倉幕府の視点から記録を記したのが作者不詳の『吾妻鏡』でした。これは武士が初めて作った歴史書です。ただし幕府で起こったことの記録が中心であって、日本全体の記録ではありません。そのため、鎌倉時代を知るためには、『吾妻鏡』だけでなく、当時書かれた貴族の日記など別の資料も必要になってくるんですね。

その一例として、都側の視点から記録されたのが天台宗の僧侶・慈円のが書いた『愚管抄』がよくあげられました。『愚管抄』は鎌倉時代初期の歴史書であり、中世日本の歴史書のなかで最も重要な史料とされています。

実朝の父・源頼朝

平安時代、日本の政治の中心は都(京都府)の皇族と貴族たちのものでした。しかし、政治の主導権の転機となったのが、平安時代末期に起こった「治承・寿永の乱」、いわゆる「源平合戦」です。「治承・寿永の乱」は六年にもおよぶ長い内乱でした。

文字通り、戦いの中心となったのは「平氏」と「源氏」というふたつの武家。両者はもともと武家としてライバル関係で、源氏の方が一歩リードするような状況でした。しかし、平氏の棟梁「平清盛」の出現によって力関係に差が生まれてしまいます。さらに、平清盛が天皇家と結びつき、外戚として権力を振るうようになると源氏はますます肩身の狭い思いをするようになったのです。

平氏と源氏の関係を決定的なものにしたのが「保元の乱」と「平治の乱」でした。このふたつの戦いによって、源氏の有力者だった源頼朝の父・源義朝や兄弟、親戚が処刑されてしまいます。頼朝自身は清盛の母・池禅尼(いけのぜんに)の懇願によって命を救われるのですが、その後は伊豆(静岡県)に配流され、そこで平氏の傍流にあたる北条氏に監視されながら大人になりました。

実朝の継いだ鎌倉幕府誕生まで

囚われた源頼朝が立ち上がるきっかけとなったのが、都で起こった「以仁王(もちひとおう)の挙兵」と同時に以仁王から発せられた平家討伐の令旨です。こうして頼朝は長い源平合戦へと身を投じることになりました。

源平合戦の主な舞台となったのは西日本でしたが、頼朝は戦場に弟の源義経や源範頼を派遣するだけで本人は赴きません。頼朝を支持する関東の武士たちの要望に応えるべく、頼朝は鎌倉を拠点として関東の安定に尽力します。そして、弟たちが戦っている間、頼朝は朝廷から独立する関東の支配権を強めていきました。これが鎌倉幕府を開く重要な要素だったのです。

源頼朝の短い治世

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無事に源平合戦が終わり、さらに目の上のたんこぶだった東北の奥州藤原氏を滅ぼした頼朝。これで天下は安泰のように思えました。

彼は御家人(家来の武士)の人気も高く、さてこれからだぞ、と意気込んで七年目の1199年のこと。なんと頼朝は馬から落ち、それが原因で亡くなってしまうのです。

けれど、頼朝は50歳になっていたとはいえ、武士が落馬なんてするでしょうか?そう思ったのは、今も当時もかわりません。このため、頼朝の死は暗殺だったのではないか。いいや、頼朝が無惨に責め立てた弟・義経が祟ったのではないか、とたくさんの噂が流れたのです。

ともあれ、頼朝の治世はたった七年で幕を下ろしたのでした。

実朝の兄、二代目将軍源頼家

急死した源頼朝の跡を継いだのは、頼朝の嫡男・源頼家(みなもとのよりいえ)でした。頼家は頼朝から鎌倉幕府と征夷大将軍の受け継ぎ、二代目の将軍となります。

しかし、御家人から大人気だった頼朝に比べ、頼家は御家人の人気が異常なまでにない将軍でした。というのも、頼家は人の心ならぬ御家人の心のわからない将軍だったのです。

封建制度の幕府で土地を蔑ろにした将軍

さて、鎌倉幕府が作ったシステムのなかに、「封建制度」、あるいは「御恩と奉公」というものがあります。この当時、御家人たちの収入源は彼らが統治する領地から上がる税金でした。給料を得るためにはまず土地が必要だったわけですね。そして、その肝心の土地は将軍から与えられるものでしたから、御家人は将軍から土地をもらう恩返しに鎌倉幕府に奉仕する、という仕組みなのです。なので、土地は幕府にとっても、そこに仕える御家人たちにとっても大変重要なものでした。

しかし、頼家は広大な領地を持つ御家人の土地の一部を没収して、所領を持たない側近に与えようとします。さらに頼家が妻の実家の比企(ひき)一族をひいきして優遇していたことも重なって、御家人たちの不満が爆発。頼家は在職の将軍にもかかわらず追放され、伊豆の修禅寺に幽閉されてしまいました。そして、頼家はそこで病気で亡くなったとされています。ただ、こちらも頼朝と同じように暗殺されたという薄暗い説もあるほど、その死は疑惑の残るものだったのでしょう。

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