今回は十河一存を取り上げるぞ。三好長慶の弟だって、えらくむずかしい名前ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、十河一存について5分でわかるようにまとめた。

1-1、十河一存は阿波の生まれ

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十河一存(そごう かずまさ、または、かずなが)は、天文元年(1532年)に、三好元長の4男として阿波勝瑞城(しょうずい、現徳島県板野郡藍住町勝瑞)で生まれました。長兄が三好長慶、次兄が三好実休(じっきゅう)、三兄が安宅冬康(あたぎ)、弟が野口冬長という5人兄弟、姉妹は4人。 幼名は又四郎、三好長正、あだ名は鬼十河。

父三好元長は、管領の細川晴元の重臣
一存の生家の三好家は、曽祖父(または祖父)之長(ゆきなが)が、 阿波守護の細川氏分家の阿波守護の讃州家の細川成之に仕え、応仁の乱やそれにともなった一揆の指導などで頭角を現した家です。

そして一存の父元長は細川晴元配下で、晴元の敵の細川高国を滅ぼした功労者。元長は本国の阿波はおよばず、山城国にも勢力をもっていたことでおそれられて、1532年に主君の晴元、三好一族の三好政長、木沢長政らが画策して蜂起した一向一揆に殺害。

当時一存の長兄の長慶は10歳で両親と共に堺にいたが、一向一揆の襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ避難したのですが、一存はそのあと、父の死後に生まれた遺腹の子なんですね。

1-2、一存の子供時代

一存は阿波で生まれた後、讃岐十河城主の十河景滋(存春)の世子の金光が早世したため、長兄の長慶の命令で景滋の養子となって十河氏の家督を継いだのですが、時期ははっきりわかっていないということ。

十河氏(そごうし)とは
十河氏はなんと古代までさかのぼり、讃岐に下った神櫛皇子の流れをくんでいるということ。

植田氏の一族で、中世の頃から讃岐国の土豪として、神内氏、三谷氏と共に植田党を形成し、南北朝時代以降になると、四国の守護大名細川氏による在地国人の被官化で、十河氏ら植田党も細川氏の傘下となり、戦国時代に入ったのちは細川氏の内乱の永正の錯乱で三好氏と結んで、讃岐守護代の香西氏らと抗争、勢力を拡大していたのでした。そして三好長慶の弟の一存が十河氏を継いで、三好一門となることに。

1-3、一存の兄弟

長兄の長慶は12歳のとき、父を裏切った主君の細川京兆家の当主細川晴元と一向一揆の調停が評価されて、年少だからと許されて仕えたのち、ぐんぐんと頭角をあらわし、次兄の実休は晴元の従兄弟で阿波細川家の当主細川持隆につかえ、四国で阿波細川家の実権を握って、畿内で活躍する兄長慶を補佐して河内を任されるようになり、三兄の安宅冬康は9歳のときに淡路水軍の安宅家へ養子にいき、安宅水軍を率いて兄長慶を補佐したということで、これに一存が讃岐国衆を率いるという体制となり、長兄の長慶は弟たちの四国の勢力をバックに近畿内での勢力を強めていったのですね。

なお、弟の野口冬長は、おそらくは側室の子で、淡路国志知を本拠地の野口氏の養子としてあとつぎとなり、淡路を拠点に播磨国から讃岐国の東にかけて、本州と四国の間を取り持つ役割でしたが、1553年の兄実休が主君・細川持隆をクーデターで殺害した阿波見性寺事件のあと、持隆の家臣たちとの間で生じた鑓場の戦い(やりば)で若くして戦死。

\次のページで「2-1、一存、四国で武功をとどろかす」を解説!/

2-1、一存、四国で武功をとどろかす

一存は寒川 元政(さんがわ もとまさ)の池内城を攻めたとき、寒川氏家臣の鴨部氏に急襲されて負傷。しかし一存は何事もなかったかのように悠々と引き上げ、以後その勇猛さで「鬼十河」の異名を得ました。

2-2、一存、江口の戦いで戦功を挙げる

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投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 09:43, 21 July 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

1549年、一存は、長兄の三好長慶らの軍勢とともに三好政長と摂津の国で対戦した江口の戦いで、先陣となって活躍し、勝利に貢献。このとき一存は、父の仇でもある三好政長を討ち取ったと言われていて、3人の兄をさしおいて勲功第一とされています。そのために細川晴元政権を崩壊、将軍足利義輝を近江に追いやって、兄の三好長慶は京都で実権を握ることに。

また、主君の細川晴元は政長を支持していたために、政長を討つ長慶は謀反人とみなされたため、一存は晴元が三宅城にいると知ったときに、兄に城を落として主君晴元を追撃して討ち果たそうと強く進言したが、長慶は受け入れず。

それどころか戦いの後に主君の晴元が帰京する際、弟の安宅冬康配下の淡路軍に警護させ、晴元と義輝が近江に逃れたときも、圧倒的に優位に立っていても和睦を懇望したということです。

2-3、一存、その後も三好家の勢力拡大の戦に貢献

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管左衛門 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

一存は、1550年の東山の戦いで京都復帰を狙う晴元を阻止、また1553年6月の阿波見性寺事件でも、次兄実休を助けて細川持隆殺害に協力したとされています。そして1558年の北白川の戦いのあとの和睦のため、兄実休らとともに、四国から軍勢を率いて堺に上陸して威圧したということで、1560年には畠山高政との戦いで大勝し高屋城を占拠、長慶に岸和田城主に任じられたそう。

その後も一存は畿内各地を転戦して功を挙げ、兄を軍事的によく補佐して勇名をはせたということ。

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投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 12:44, 10 March 2010 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

阿波見性寺事件とは
阿波見性寺事件は別名勝瑞事件ともいい、阿波細川家の当主で、阿波屋形、阿波、讃岐守護だった細川持隆が、居城の勝瑞城で、三好実休を相撲見物に招待して殺害を計画、しかし相談相手の奉行が実休に密告して計画がばれ、実休が3000の兵を集めたが、持隆の手勢は馬廻衆が100余りしか集まらず。持隆は見性寺で援軍をつのったもののやはり集まらず、1552年、持隆が自害した事件で、その後、実休が傀儡政権をたてて阿波の実権を握ることに。

持隆が実休を殺そうとした原因は、長慶に対抗するために足利義栄(義維の子でのちの14代将軍)を擁して上洛しようとしたのが、実休にばれた説、または、阿波国内での実休の力の増大に脅威を感じた説、そして細川晴元の再起を持隆が支援していることが実休にばれた説があるということです。しかし持隆は、細川晴元と長慶の戦いには、積極的ではなく、むしろ三好氏に好意的な立場だったのに、突然長慶、実休と対立するに至る原因、背景ははっきりしないそう。

2-4、一存、30歳で死去

一存は、1561年3月、または4月には病気となったということで(がん説も)、庶子の松浦萬満の後見のために在住していた和泉国で30歳で死去(諸説あり)。

一存の跡継ぎの義継は長慶に引き取られ、後に本家の家督を継ぎ、次兄実休の次男である存保が養子となって十河氏を継承しました。また、一存にはほかに庶子がいて、存之は、跡を継いだ存保の家老となって仕えたということ。

一存は兄長慶の軍事的要という存在だったために、その死後は三好軍の軍事力衰退を招いたそう。また長兄の長慶が信頼篤くし、最も重要な京都の政治を任せるほどだった松永久秀を、一存は早くから警戒していたということで、長慶には久秀を重用しないようにと進言していたといわれています。

\次のページで「2-5、一存の死後、息子が本家の跡取りに」を解説!/

2-5、一存の死後、息子が本家の跡取りに

一存が亡くなったとき、息子の重存(しげまさ)は、12歳でした。まだ幼少のため、一存の長兄の長慶が十河家の老親や乳母に父一存に代わって養育を約束したということです。そしてその2年後、長慶の跡継ぎの義興が早世したので、一存の息子の重存が伯父長慶の養子として、本家を継ぐことに

当時、長慶の後継者候補としては、次弟三好実休の3人の息子達、三弟の安宅冬康とその息子の信康がいたのですが、一存の息子を本家の跡継ぎとしたあと、十河家は実休の次男を養子に迎えて跡継ぎにしたそう。

長慶が次弟実休の息子を養子とせず、わざわざ一存の息子を養子としたのは、一存の正室が公家の九条家の姫で、重存はその間に生まれた子だったからで、九条家が、足利将軍の義晴、義輝が近衛家から正室を迎えて縁組したのに対抗して三好家に肩入れしていたことと関係があるとみられているそう。

2-6、息子義継は将軍を暗殺

長慶は一存の死後、息子が急死するなど、次々と身内が亡くなり自身は病気がちとなったため、疑心暗鬼となったのか、1564年、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城で松永久秀の讒言を信じ、謀反の疑いで誅殺したあと、はげしく後悔したということで、病気が悪化して死去。

重存は将軍義満に一字をもらって義重と改名(その後義継)、15歳で三好家の後を継ぎ、三好三人衆と松永久秀の補佐を受けました。そして5月に軍勢を率いて上洛し、二条御所を襲撃して13代将軍義輝を殺害。その後は三好三人衆にないがしろにされたため、松永久秀の側に付き、信長の上洛に協力、河内北半国と若江城(現東大阪市)の領有を安堵され、信長の仲介で15代将軍義昭の妹と結婚。

しかし義昭が信長に京都追放された後、義昭をかくまったことで信長の怒りを買い、信長配下の佐久間信盛に若江城を攻められて、重臣の裏切りにあって落城、家族ともども自害したということです。

3-1、一存の逸話

かなり豪胆な武将だったようで、「戴恩記」によれば、江戸時代の俳諧師の松永貞徳が、「婿の十川(一存のこと)は武勇である」と、俳句の師匠にあたる九条稙通(たねみち、一存の正室の父)に聞いたということで、また独特な月代とかでも有名です。いろいろな逸話をご紹介しますね。

3-2、鬼十河の異名

一存は讃岐の国人、寒川氏(さんがわ)との合戦中に腕を負傷、傷の手当てのためにいったん陣地に戻り、なんと傷口に塩を塗り込んで消毒し、腕には藤のツルをぐるぐると巻いてふたたび敵陣へ向かって戦い、最終的に勝利

これ以来、一存は、「鬼十河」、「夜叉十河」などと称されて恐れられたそう。また、兜と一緒に装着する顔面にかぶる黒い面兜は 一存の顔がモデルとなったという説もあるほど。

3-3、兄弟を戦わせず、両方を討ち取る

一存は、やはり同じく東讃岐の勢力であった寒川氏(さんがわ)との戦いのときに、ある家臣が、自分の兄が寒川陣にいるので、兄とは戦いができないと暇を願い出たとそう。一存は、家臣を責めずに戦場で会えば遠慮せずに戦うようにと送り出し、その後、一存は戦場でこの元家臣の兄弟をふたりと出会い、一度に討ち取ったということです。

\次のページで「3-4、十河額の流行 」を解説!/

3-4、十河額の流行

一存は月代を四角く大きく剃りあげる変わった髪型を考案したとされていて、いつの頃からか「十河額(そごうびたい)」と言われるようになったそうです。一存の豪胆さが鳴り響いていたためか、強さの象徴として家臣をはじめとする一存の周囲の武将たちが、この月代のそり方、髪型を真似するようになり流行に。しかし実は、一存は肌が弱くて汗かきのために、兜で頭が蒸れるのを防ぐために大きく額をそっていただけだそう。

また、徳川家光の時代は、戦争を知らない世代が粋がって戦国時代を懐かしむ風潮があったそうですが、このころにも十河額は流行したのですね。

3-5、急死の真相は

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一存の急死については亡くなった当時から色々な噂があったということです。一存が亡くなったときに不仲であったはずの松永久秀が傍にいたことがわかっているため、京都では久秀による暗殺説の噂が広まったそう。

これは一存が、新参の家臣の久秀を日頃から良く思っていなかったからで、一存が葦毛(あしげ)愛馬に乗り有馬温泉へ向かう直前に、久秀から「有馬権現様は葦毛(あしげ)馬を嫌っておられるので、その馬に乗って行かない方がいいのでは」と諌められたが 一存は久秀を嫌っていたため、忠告を無視。 途中で突然馬が暴れ出し落馬し、落馬のけが元で亡くなったということ。

また一存の兄安宅冬康も、久秀の讒言によって長慶に誅殺されたという噂があるため、久秀が疑われるのも無理がないかも。ただ一存の亡くなった日は不明だが、墓は讃岐の居城の一角にあって、城中で亡くなった説もあり、死因も、梅毒、がんなどの病気から、落馬による事故死や暗殺説まであるそうです。

兄長慶を補佐し、天下人に導いた功労者のひとり

十河一存は、長慶を長兄とした三好家の4男として父の死後に生まれました。そして、父代わりの一家の柱である11歳上の兄長慶の命令で阿波の国人勢力の十河氏の養子となり、次兄実休、淡路水軍の家に養子に行った三兄安宅冬康らと兄の三好家を補佐し、三好家の地元の阿波や讃岐の戦陣でも活躍して地盤を固め、ついで近畿内での兄の勢力増大にも武勇をふるって尽力。十河額が流行し、鬼十河といわれるまでに。

兄長慶は、優秀な弟たちのおかげで京都の覇権争いに勝利し、戦国時代最初の天下人といわれ、父の仇もとったのでした。しかし一存は30歳で急死。その後の三好家は長慶の跡取りに次いで兄たちも亡くなり、兄長慶は最後に残った次弟の実休まで殺害してしまい、後悔しつつ病死。一存の息子が長兄の跡継ぎになりました。

しかしこの息子の義継は兄も手を出さなかった将軍義輝暗殺に加担、一時は信長に追従したがやはり滅ぼされたということで、一存の死が三好家グダグダの終わりの始まりとなった、三好家で存在感のあった人だったのではないでしょうか。

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室町時代戦国時代日本史歴史

三好長慶の弟で鬼十河といわれた「十河一存」をわかりやすく歴女が解説

今回は十河一存を取り上げるぞ。三好長慶の弟だって、えらくむずかしい名前ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、十河一存について5分でわかるようにまとめた。

1-1、十河一存は阿波の生まれ

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十河一存(そごう かずまさ、または、かずなが)は、天文元年(1532年)に、三好元長の4男として阿波勝瑞城(しょうずい、現徳島県板野郡藍住町勝瑞)で生まれました。長兄が三好長慶、次兄が三好実休(じっきゅう)、三兄が安宅冬康(あたぎ)、弟が野口冬長という5人兄弟、姉妹は4人。 幼名は又四郎、三好長正、あだ名は鬼十河。

父三好元長は、管領の細川晴元の重臣
一存の生家の三好家は、曽祖父(または祖父)之長(ゆきなが)が、 阿波守護の細川氏分家の阿波守護の讃州家の細川成之に仕え、応仁の乱やそれにともなった一揆の指導などで頭角を現した家です。

そして一存の父元長は細川晴元配下で、晴元の敵の細川高国を滅ぼした功労者。元長は本国の阿波はおよばず、山城国にも勢力をもっていたことでおそれられて、1532年に主君の晴元、三好一族の三好政長、木沢長政らが画策して蜂起した一向一揆に殺害。

当時一存の長兄の長慶は10歳で両親と共に堺にいたが、一向一揆の襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ避難したのですが、一存はそのあと、父の死後に生まれた遺腹の子なんですね。

1-2、一存の子供時代

一存は阿波で生まれた後、讃岐十河城主の十河景滋(存春)の世子の金光が早世したため、長兄の長慶の命令で景滋の養子となって十河氏の家督を継いだのですが、時期ははっきりわかっていないということ。

十河氏(そごうし)とは
十河氏はなんと古代までさかのぼり、讃岐に下った神櫛皇子の流れをくんでいるということ。

植田氏の一族で、中世の頃から讃岐国の土豪として、神内氏、三谷氏と共に植田党を形成し、南北朝時代以降になると、四国の守護大名細川氏による在地国人の被官化で、十河氏ら植田党も細川氏の傘下となり、戦国時代に入ったのちは細川氏の内乱の永正の錯乱で三好氏と結んで、讃岐守護代の香西氏らと抗争、勢力を拡大していたのでした。そして三好長慶の弟の一存が十河氏を継いで、三好一門となることに。

1-3、一存の兄弟

長兄の長慶は12歳のとき、父を裏切った主君の細川京兆家の当主細川晴元と一向一揆の調停が評価されて、年少だからと許されて仕えたのち、ぐんぐんと頭角をあらわし、次兄の実休は晴元の従兄弟で阿波細川家の当主細川持隆につかえ、四国で阿波細川家の実権を握って、畿内で活躍する兄長慶を補佐して河内を任されるようになり、三兄の安宅冬康は9歳のときに淡路水軍の安宅家へ養子にいき、安宅水軍を率いて兄長慶を補佐したということで、これに一存が讃岐国衆を率いるという体制となり、長兄の長慶は弟たちの四国の勢力をバックに近畿内での勢力を強めていったのですね。

なお、弟の野口冬長は、おそらくは側室の子で、淡路国志知を本拠地の野口氏の養子としてあとつぎとなり、淡路を拠点に播磨国から讃岐国の東にかけて、本州と四国の間を取り持つ役割でしたが、1553年の兄実休が主君・細川持隆をクーデターで殺害した阿波見性寺事件のあと、持隆の家臣たちとの間で生じた鑓場の戦い(やりば)で若くして戦死。

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