クリストファー・コロンブスは、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの王室の援助のもと大西洋を横断したイタリア人探検家。当時、インドを目指してアメリカ大陸に上陸したことでも知られている。米国は、彼がアメリカ大陸に到達した日を「コロンブス・デー」と名付け、祝日として正式に祝った。

結果として先住民の生活を脅かし、権利を侵害するなど問題となるところも多かった。そんな「コロンブス」の航海の歴史と、それが与えた影響を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。「コロンブス」は、世界史を語るうえで欠かせない人物。アメリカ大陸の「発見者」とされているが、先住民の虐殺や黄金の強奪などネガティブな行動も目立った。航海者として活躍した「コロンブス」の歴史的意味を考えてみた。

クリストファー・コロンブスとは

image by PIXTA / 1459070

クリストファー・コロンブスは1451年にイタリアのジェノバで生まれた探検家で航海者。あまり注目されませんが本職は奴隷売買でした。世界史の教科書ではアメリカ大陸の「発見者」として紹介されています。

最初にアメリカ大陸の地を踏んだヨーロッパ人

アメリカ大陸を発見したと言われるコロンブスですが、それはヨーロッパの立場からの話。アメリカ大陸には古くから先住民が暮らしているため、発見という表現には語弊があります。

コロンブスは、アメリカ大陸の地を初めて踏んだヨーロッパ人、あるいはキリスト教圏の人と言ったほうがいいでしょう。ヨーロッパ人とアメリカ先住民ははじめて「遭遇した」「接触した」とも言えます。

船乗りとして若者時代を過ごす

コロンブスの父親は、毛織物業により生計を立てていましたが、決して裕福ではありませんでした。そこでコロンブスは10代のころから父親の仕事を手伝うようになり、海に出るようになります。

若者時代のコロンブスがかかわったのは商品の輸出入。イタリアの商人に雇用され、ヨーロッパ各地のほかギリシアやチュニジアやに渡航します。ときには襲撃されて船が沈むこともありました。

航海の夢をふくらませたコロンブス

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By Henry Yule - The Book of Ser Marco Polo. London, 1871, vol. I, p. cxxxv (https://archive.org/stream/bookofsermarcopo01polo#page/n145/mode/2up)., Public Domain, Link

当時のヨーロッパでは探検に夢を膨らます少年がたくさんいました。探検は一攫千金のチャンスでもあったからです。コロンブスは、弟と一緒に地図を制作・販売しながら、航海の実績を重ねていきました。

マルコ・ポーロ『東方見聞録』の黄金の国ジパング

一攫千金をあてる渡航先として注目されたのが黄金の国ジパング。マルコポーロは、中国の先にジパングという島国があり、黄金で作られた宮殿があると紹介。そこで日本は黄金の国というイメージが定着しました。

マルコ・ポーロが伝えた黄金の宮殿は平安時代末期につくられた平泉の中尊寺金色堂と言われています。実際に東北エリアで産出された砂金を中国に輸出。中国からその話が伝わったのかもしれません。

地球球体説から西回りの航路を計画

もともと地球平面説が流通していましたが、コロンブスの時代には地球球体説が定着。想定されていた地球のサイズは実際よりも小さかったものの、一周すればアジアにある黄金の国に到達できると考えられました。

コロンブスも地球球体説を根拠に、西廻りで航海することで黄金の国に到達できると考えます。この時点で想定さた未知のエリアはアジア。アメリカ大陸の存在はまだ認識されていませんでした。

\次のページで「王室に企画を提案するクリストファー・コロンブス」を解説!/

王室に企画を提案するクリストファー・コロンブス

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By Emanuel Leutze - Columbus before the Queen, Brooklyn Museum., Public Domain, Link

コロンブスは黄金を探す探検を構想しますが、それを実行する自己資金はありません。そこでパトロンを探します。彼が企画をもちこんだのは当時の強国であったポルトガルとスペインでした。

ポルトガル国王は興味を持つものの採用せず

コロンブスは、資金援助だけではなく成功報酬も要求。かなり強気の内容だったようです。コロンブスは、自分が黄金の国を見つけたら、国にかなりの利益をもたらすとプレゼンテーションをしました。

この話に興味を持ったポルトガル王は、専門の委員会に計画書をまわしました。しかしながらコロンブスの提案は不採択。コロンブス以前にも同様の計画が実践されており、どれも成功しなかったことが不採択の理由でした。

スペイン王室はコロンブスの提案を採用

次にコロンブスが提案を持ち込んだのがスペインです。スペインの有力貴族を通じてスペイン国王に会って自身の構想を伝えます。資金を部分的に支援する申し出はあったものの、十分な回答は得られませんでした。

スペイン国内でパトロン探しを継続しますが失敗。頓挫しそうになったとき救世主があらわれます。財務長官がコロンブスの構想に注目し、もともと興味を持っていた女王を説得。最終的に彼の提案は採択されました。

インドを目指して出航したコロンブス

image by PIXTA / 57294153

コロンブスが出航したのは1492年8月3日。100人ほどの乗組員を乗せた3隻にてインドを目指します。地球が平面である可能性もあるなか、不安に満ちた航海が始まりました。

西インド諸島のサン・サルバドル島に到着

コロンブス一行が最初に着いたのが現在のハバマのある島。サン・サルバドル島と名付けられました。「聖なる救世主」という意味のスペイン語です。もともと住んでいた先住民はグアナハニ島と呼んでいました。

この時点でコロンブスはアメリカ大陸海域にいる自覚はなし。インド付近にいると信じていました。その名残もあり、今でもこの海域にある島々は「西インド諸島」と呼ばれています。

先住民を使って黄金を探す

サンサルバドル島に住んでいた先住民はコロンブス一行を歓迎します。そこでいろいろなものを差し出し、コロンブスたちの持ち物と交換しました。交換するといっても、かなり不平等な内容でした。

コロンブスは一部の先住民を連行して、自分たちが欲しいもの差し出させます。とくにコロンブスが先住民に要求したのが黄金。先住民を使って探し出そうとしますが、大きな成果はあげられませんでした。

先住民はどうしてコロンブスを歓待した?

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By John Vanderlyn - Architect of the Capitol, Public Domain, Link

アメリカ大陸に入植者が入り始めた当初、先住民は歓迎したと言われています。その結果、一方的にものを搾取される、土地を強奪される、殺されることに。先住民たちはどうして最初は歓迎したのでしょうか。

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未知の来客を歓待する文化がある

入植者を先住民が歓迎した理由のひとつが、未知の来客を歓迎する文化があったからです。とくに海から来た来客は神の使いののようにとらえられ、手厚くもてなす精神がありました。

そのため一行がサンサルバドル島そしてキューバ島に上陸したとき、先住民たちは彼らを歓待します。それを悪用して、土地、財宝、金などを差し出させ、従わないものを殺したと言えるでしょう。

所有という考え方がなかった先住民

もうひとつの理由が、先住民には「所有」という概念がなかったことがあります。「自分のもの」「あなたのもの」という線引きがなく、すべては自然がもたらした「みんなのもの」というのが先住民の発想です。

そのため、コロンブスたちに「これが欲しい」と言われても、「自分のものだから」と断る発想自体がありませでした。そのため言われるがままに土地を差し出してしまったのです。

スペインはアメリカ大陸の植民地化を構想

WC Delacroix,Eugene The Return of Christopher Columbus.jpg
By Eugène Delacroix - Wikipedia.com, Public Domain, Link

コロンブス一行は西インド諸島のいくつかに要塞を作り、スペインの植民地としました。そして、強奪した宝石、金銀銅、そのほかの財宝とともにスペインに戻ります。

財宝を手にしたコロンブス

スペイン王室はコロンブスのために宮殿にて盛大な式典を開催。コロンブスは、自ら国王に航海の成果を報告し、先住民から強奪した財宝を差し出しました。

航海に出るまえにコロンブスは、新たな地を発見することで得られた利益の10分の1をもらう権利を確約しています。そこでコロンブスは先住民から強奪した財宝の10分の1を手にいれました。

先住民の土地は植民地化できると判断

コロンブスは先住民の無垢な性格を国王に報告。素直で疑うことを知らない先住民を支配下に置くことは容易であると伝えました。さらに、奴隷化する、キリスト教化することも難しくないと報告します。

この報告をうけてスペイン国王はコロンブスに2回目の航海のための資金を与えることを決定。ローマ法王の勅書によりスペインはアメリカ大陸を植民地化する権利を獲得します。

2回目の上陸から先住民の虐殺が加速

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By Camille Flammarion - Astronomie Populaire 1879, p231 fig. 86, Public Domain, Link

コロンブス一行は1493年の9月に2回目の航海を実施。その規模は5倍以上となり、船は17隻、乗員は1500人でした。その目的は植民地化すること。そのため渡航者には農民や坑夫も含まれていました。

土地をめぐって先住民と対立

コロンブスたちがスペインに戻っているあいだ、不当に搾取・殺害された先住民たちの怒りが爆発。植民地に残していた白人は殺されます。そのため2度目の上陸時は、以前のように歓迎されませんでした。

そこでコロンブスたちは抵抗する先住民を徹底的に虐殺します。拷問することで財宝の場所を白状させるなど、その行動の残忍性はエスカレート。村を焼き払う一掃作戦は、それ以降の先住民迫害のモデルとなりました。

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白人の入植により疫病が流行

コロンブスたちが上陸したことで先住民の生活はさらに激変します。一番の被害は、これまでになかった疫病がヨーロッパから持ち込まれたこと。多数の先住民が病気になって命を落としました。

入植により先住民の生活に疫病が持ち込まれる流れは、コロンブス一行に限ったことではありません。そのあとも続々と入植するたびに疫病がはやり、先住民の人口は激減しました。

晩年はスペインに冷遇されたコロンブス

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By L. Prang & Co. - http://www.loc.gov/pictures/resource/cph.3b49586/ http://nobility.org/2011/10/10/admiral-knighted-duke-of-veraguas/, Public Domain, Link

パトロンであったスペイン王室は徐々にコロンブスの航海に対する興味を失っていきます。アメリカ大陸における蛮行、黄金の量の少なさ、植民地統治の混乱などがから、コロンブスに悪い評判が流れるようになりました。

「黄金の国」ではなかった上陸地

3度目の航海で、コロンブスは現在のベネズエラに上陸。そこで水質調査をしたら、その地がアジアではないことが発覚します。それは黄金の夢が揺らいだ瞬間でもありました。

コロンブスは、アメリカ大陸にいることに気が付いていませんでした。当時は、アメリカ大陸が存在するという認識そのものがありません。見つけた島々はアジア付近にあるものだと、彼は最後まで信じ続けていました。

アメリカ大陸の「発見者」ならなかったコロンブス

最後までアジアにいると思っていたコロンブス。3回目の航海では、なんの成果も得られませんでした。植民地統治もうまくいかず、その責任をとってすべての地位を取り上げられました。

コロンブスが亡くなったあと、ドイツの地理学者がアメリカ大陸を含んだ地図を作成します。そこに記されたアメリカ大陸の「発見者」はコロンブスではなくイタリアの探検家であるアメリゴ・ヴェスプッチ。コロンブスの名前はなぜか消えてしまいました。

コロンブスが発見したのは「航路」

クリストファー・コロンブスは、アメリカ大陸の「発見者」と言われてきましたが、それは適切ではないという意見で一致しています。コロンブスに限らず、ヨーロッパの植民者たちは先住民族を追い出して住みついただけというのが現在の見方。また、コロンブスは自分がアメリカ大陸に上陸しているという認識はありませんでした。彼は偶然にもアメリカ大陸に行く「航路」を見つけたと言ったほうがいいでしょう。現在、10月2日は「コロンブス・デー」としてアメリカ合衆国の祝日となっていますが、先住民の運動家たちによる抗議活動も同日に展開されていることも忘れてはなりません。

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イタリアヨーロッパの歴史世界史歴史

たまたまアメリカ大陸に到達した「コロンブス」の生涯・功罪を元大学教員がわかりやすく解説

クリストファー・コロンブスは、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの王室の援助のもと大西洋を横断したイタリア人探検家。当時、インドを目指してアメリカ大陸に上陸したことでも知られている。米国は、彼がアメリカ大陸に到達した日を「コロンブス・デー」と名付け、祝日として正式に祝った。

結果として先住民の生活を脅かし、権利を侵害するなど問題となるところも多かった。そんな「コロンブス」の航海の歴史と、それが与えた影響を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。「コロンブス」は、世界史を語るうえで欠かせない人物。アメリカ大陸の「発見者」とされているが、先住民の虐殺や黄金の強奪などネガティブな行動も目立った。航海者として活躍した「コロンブス」の歴史的意味を考えてみた。

クリストファー・コロンブスとは

image by PIXTA / 1459070

クリストファー・コロンブスは1451年にイタリアのジェノバで生まれた探検家で航海者。あまり注目されませんが本職は奴隷売買でした。世界史の教科書ではアメリカ大陸の「発見者」として紹介されています。

最初にアメリカ大陸の地を踏んだヨーロッパ人

アメリカ大陸を発見したと言われるコロンブスですが、それはヨーロッパの立場からの話。アメリカ大陸には古くから先住民が暮らしているため、発見という表現には語弊があります。

コロンブスは、アメリカ大陸の地を初めて踏んだヨーロッパ人、あるいはキリスト教圏の人と言ったほうがいいでしょう。ヨーロッパ人とアメリカ先住民ははじめて「遭遇した」「接触した」とも言えます。

船乗りとして若者時代を過ごす

コロンブスの父親は、毛織物業により生計を立てていましたが、決して裕福ではありませんでした。そこでコロンブスは10代のころから父親の仕事を手伝うようになり、海に出るようになります。

若者時代のコロンブスがかかわったのは商品の輸出入。イタリアの商人に雇用され、ヨーロッパ各地のほかギリシアやチュニジアやに渡航します。ときには襲撃されて船が沈むこともありました。

航海の夢をふくらませたコロンブス

World according to Marco Polo.jpg
By Henry Yule – The Book of Ser Marco Polo. London, 1871, vol. I, p. cxxxv (https://archive.org/stream/bookofsermarcopo01polo#page/n145/mode/2up)., Public Domain, Link

当時のヨーロッパでは探検に夢を膨らます少年がたくさんいました。探検は一攫千金のチャンスでもあったからです。コロンブスは、弟と一緒に地図を制作・販売しながら、航海の実績を重ねていきました。

マルコ・ポーロ『東方見聞録』の黄金の国ジパング

一攫千金をあてる渡航先として注目されたのが黄金の国ジパング。マルコポーロは、中国の先にジパングという島国があり、黄金で作られた宮殿があると紹介。そこで日本は黄金の国というイメージが定着しました。

マルコ・ポーロが伝えた黄金の宮殿は平安時代末期につくられた平泉の中尊寺金色堂と言われています。実際に東北エリアで産出された砂金を中国に輸出。中国からその話が伝わったのかもしれません。

地球球体説から西回りの航路を計画

もともと地球平面説が流通していましたが、コロンブスの時代には地球球体説が定着。想定されていた地球のサイズは実際よりも小さかったものの、一周すればアジアにある黄金の国に到達できると考えられました。

コロンブスも地球球体説を根拠に、西廻りで航海することで黄金の国に到達できると考えます。この時点で想定さた未知のエリアはアジア。アメリカ大陸の存在はまだ認識されていませんでした。

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