その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、穴山信君について5分でわかるようにまとめた。
1-1、穴山信君は甲斐の国の生まれ
穴山信君(あなやまのぶただ)天文10年(1541年)、穴山信友の嫡男として生まれました。母は武田信虎の次女南松院殿で、信玄の姉なので、信玄の甥になります。兄弟は弟が2人。
幼名は勝千代で、通称は彦六郎、左衛門大夫、諱は信君で、出家して号を梅雪斎不白としたために、穴山梅雪(ばいせつ)とよばれることも。
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穴山氏とは
穴山氏は武田氏の一族のひとつで甲斐国の国人衆の領主です。もとは山梨県韮崎市周辺の国人領主でしたが、南北朝期に武田家から養子を迎えて甲斐武田氏の庶流として続いてきた家なんです。その後も武田家からの養子が穴山家の家督を継いでいましたが、武田宗家が断絶したときに当時の穴山家の当主が武田宗家を継いで甲斐の守護大名を務めたこともあるそうで(早死にしたあとに宗家の跡継ぎがあらわれた)、その後は代々の武田宗家と姻戚関係を結んで甲斐武田家一門となって、重臣に。
しかし、応仁の乱後、内紛と戦で武田家が混乱に陥ったとき、甲斐の覇権をめぐって駿河の今川氏と武田氏が対立関係となり、穴山家中でも親今川派と親武田派で対立がおこって、親武田派の当主が暗殺されたなどで、一時は今川氏に属したが、今川氏が武田信虎に敗れた後、武田家に属したという過去があるということです。
そして信玄の父信虎によって甲斐国内が統一されたあと、信君の父信友は信虎の娘南松院殿を正室に迎え、居館を駿河に近い南部(現南部町南部)から下山(現身延町下山)に移転して下山館を中心に城下町をつくりあげたそう。
そういうわけで、信君の穴山氏は武田姓を許される御一門衆として、宗家との親族意識が高いうえに、自分の地元の領地では、武田氏とは異なる独自の家臣団組織や行政組織を持って支配していたということなんですね。なお、国人衆というのは、その土地とのつながりが強い領主のことで、多くは戦国大名の家臣団のひとりに組み込まれています。
1-2、信君の子供時代
1541年に父信友が息子勝千代の誕生を記念して社領を寄進した文書があり、「高白斎記」によると、信君は武田宗家の人質として、12歳のときの1553年1月に甲府館に移り、幼年期は武田宗家の人質として過ごしていたといわれています。
また1558年に、信君が領地の河内領支配のための文書を発給したといいう文書が残っていること、この頃に父の信友は出家しているのことがわかっているので、信君は17歳で父に代わって家督を継いで、武田家の武将として騎馬200騎を率いることになりました。
1-3、信玄のもとでの信君
「甲陽軍鑑」によれば、信君は、信玄の弟信繫らが戦死し、上杉謙信と信玄の一騎打ちの伝説がある1561年に起こった第4次川中島の戦いのときは21歳で、信玄の本陣を守っていたということです。
またその後、武田家中では今川家との同盟を破棄して、織田信長と同盟を結びたい信玄と、正室が今川家出身で今川家との同盟を保持したい嫡男義信との間に内紛があり、義信の守役の重臣が処刑されて、義信が謀反の疑いで幽閉され、2年後には義信が自害(毒殺説も)した事件がぼっ発したのですが、1566年に、信君の弟の信嘉が自害したという記録があるため、義信事件と関係があるのでは、穴山家中でも信長派と今川派の内紛があったのではと言われているそう。
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