今回は16世紀のオスマン帝国のスルタン、スレイマン1世についてです。彼はヨーロッパでは「壮麗者」、トルコでは「立法者」という異名で知られている第10代のスルタンです。ちなみに日本では「大帝」とも呼ばれているぞ。

そこで今回はスレイマン1世の業績について触れながら、世界史に詳しいまぁこと一緒に彼の生涯について解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパ王室について書かれた関連書籍を愛読中。今回は16世紀のオスマン帝国のスルタン、スレイマン1世の生涯について詳しく解説していく。

1 スレイマン1世とは?

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世界史において16世紀の登場人物たちはとても魅力的な人物たちが登場します。王妃を次々に処刑し再婚を繰り返したイングランド王ヘンリー8世。スペインやオーストリアを継承し、神聖ローマ皇帝の座に就いたカール5世。そのカールと皇帝の座を巡った争ったフランス王フランソワ1世。そして今回の主人公となる、オスマン帝国の10代目のスルタンとなったスレイマン1世。ここでは彼の出自や即位後すぐに戦果を挙げた様子を見ていきましょう。

1-1 誕生

スレイマン1世は1494年に生まれました。父は冷酷王という異名を持つセリム1世。母については、セリムが王子時代にクリミア・ハン国から王女アイシェと結婚したという伝承からアイシェではないかと考えられてきました。しかし実際には奴隷身分だったハフサという女性との間の子であったそう。

スレイマンは王子時代からカッファの太守を務めており、セリムが即位した後はマニサの太守を任されていました。またセリムが東方へ遠征の際には父王に代わり敵国からの侵攻に備えていたそう。セリム1世にとってスレイマンは唯一の男子だったため、後継者争いは起きることなく、セリムの死後スレイマンは25歳で即位することになりました。

1-2 即位してまもなく大きな戦果を挙げる

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Anonymous after Titian - Kunsthistorisches Museum Wien, パブリック・ドメイン, リンクによる

25歳で即位したスレイマン1世。即位した後にすぐに大きな戦果を2つ挙げることに成功しました。1つはベオグラート、もう1つはロードス島です。

1521年、スレイマンはベオグラートへ親征することに。このベオグラートとは、ドナウ川とサヴァ川の交差する地域で、オスマン帝国がヨーロッパ圏へ侵攻する際いつも食い止められていた地域でもありました。しかしスレイマンはわずか2か月で陥落させることに成功。これによってヨーロッパの人々はスレイマンを脅威に感じるように。またそのわずか1年後にはロードス島を攻略。ここはヨハネ騎士団の本拠地であり、彼らは東地中海を行き来するムスリムの船を襲って略奪を繰り返していました。5か月間の戦いの末、ついにヨハネ騎士団は降参することに。こうしてロードス島はオスマン帝国の支配下となりました。

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2 スレイマンの治世の前半

46年もの治世の内、前半部分は寵臣イブラヒムを起用し、治世後半になると寵姫ヒュッレム(ヒュレム)の力を借りて帝国を治めたスレイマン1世。ここではその治世の前半部分、イブラヒムとの時代を詳しく見ていきましょう。

2-1 イブラヒムの大抜擢

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?-1596 Frankfurt - http://mek.oszk.hu/05700/05721/html/#19, パブリック・ドメイン, リンクによる

ロードス島の攻略から帰還したスレイマンはある命令を発し、人々を驚かせました。それは彼の寵臣、イブラヒムを大宰相に任命するというもの。ところでイブラヒムとはどんな人物なのでしょうか。

イブラヒムはセルビア系のヴェネツィア居留民の子で、オスマン帝国によって捕らえられたそう。その後は有力政治家のボスニア総督イスケンデル・パシャの娘におくられた後、スレイマンへ献上されることに。スレイマンがスルタンとして即位した後は正式な役職についてはいなかったものの、遠征に同行するなどしていたそう。つまりイブラヒムは政治経験のない人物だったにもかかわらず、スレイマンは大宰相に抜擢したのです。これだけではなく、彼はイブラヒムに対しイスタンブルに豪邸を与え、トプカプ宮殿の内廷への出入りやスレイマンと会見することも認められることに。ここまでイブラヒムを優遇したのは、スレイマン自身の政治基盤を固めるためだったとされています。

2-2 何度も遠征を繰り返したスルタン

スレイマンはヨーロッパに10回、東方へ3回も遠征を行ったと言われています。しかしなぜこんなにも遠征を行ったのでしょうか。これはスレイマンが自身を世界の王だと自負していたため。当時のオスマン帝国には、「天運の主(サーヒブ・キラーン)」という称号がありました。この称号は特別な公運の持ち主という意味があり、この称号を使えるのは世界の王だけでした。世界の王とは分かりやすく言えば皇帝のこと

しかしそれと同等の称号を使っている君主がいました。それはハプスブルク家のカール5世です。カールやその弟、フェルディナントはハプスブルク帝国の君主として他の君主よりも格上の存在であるとしたため、スレイマンは激怒し、以来ハプスブルク家と対決することになったのでした。

2-3 モハーチの戦い

1526年にスレイマンはハンガリーへ侵攻することに。この少し前にベオグラードを攻略したため、侵攻の準備が整ったためでした。こうしてハンガリーとボヘミア王ラショシュ2世と激闘の末、勝利。ラショシュは戦死しました。スレイマンはハンガリーを直接支配することを選ばず、親オスマンとして知られるトランシルヴァニア公サポヤイを即位させようと試みます。ところがこれに対してオーストリア大公のフェルディナントが反対。彼はラショシュの姉と結婚していたため、義理の弟の後を継ぐのは自分だとして譲りませんでした。このハンガリー王を巡る対立によってスレイマンはウィーン包囲へと動くことに。

\次のページで「2-4 第一次ウィーン包囲」を解説!/

2-4 第一次ウィーン包囲

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Nakkas Osman - Bilkent University, パブリック・ドメイン, リンクによる

1529年の5月にスレイマンは15万もの大軍を率いてウィーン遠征を行いました。しかし遠征中に悪天候に見舞われたため、ウィーンへ到着したのがなんと4か月後の9月。当時ウィーンはハプスブルク家領であり、カール5世が治めていました。しかし広大な領土を支配していたカールはこの時神聖ローマ皇帝の座をフランス王フランソワ1世と争っていたため、スレイマンの遠征まで手が回らない状態。そのため、代理でウィーンを治めていたのが弟のフェルディナントでした。ところが彼はウィーンから避難。そのためスレイマンが到着した際にはフェルディナントは避難した後でした。スレイマンは3週間ほど滞在しますが、補給が限界となったため撤退することに。

この遠征事態は失敗に終わることになりましたが、ヨーロッパの人々にとってウィーンまでオスマン帝国に攻め込まれたという事実は震え上がらせることに。

2-5 フランスとカピチュレーション

オスマン帝国ではスルタンのみが世界でトップの君主であるという意識があったことは先に説明しました。当時のオスマン帝国からヨーロッパ各国へ宛てた文書には自身を帝王(オスマン帝国のスルタンという意味)と称する一方、各国君主には帝王という称号を使うことを許しませんでした。更に文書の文言には「以下のことを知れ」という臣下に使う表現がされていました。ここからスレイマンは各国の君主を格下であると見なしていたことが分かりますね。ところが例外の国が1国ありました。フランスです。フランスはハプスブルク家と敵対関係にあり、そのためオスマン帝国とフランスは1525年頃から接近することに。スレイマンはフランス王に対して帝王と呼びかけていたそう。また1569年にオスマン帝国は帝国内の安全保障や通商特権(カピチュレーション)を与えました。

2-6 プレヴェザの海戦

ロードス島を征服したスレイマン1世は、キプロス島とクレタ島を除き、東地中海を制することに。更に制海権を求めて海賊だったバルバロッサを海軍提督として起用しました。バルバロッサはもともとスレイマンの父、セリム1世の時代からオスマン帝国の支援を受けて地中海一帯を活動していた人物。ちなみにバルバロッサの本名はフズルと言い、彼には赤髭という異名も。海上でもハプスブルク家と争ったスレイマンは、1538年にバルバロッサの活躍によってハプスブルク家、ローマ教皇、ベネツィア共和国などの連合艦隊と戦い、勝利を収めました。

2-7 イブラヒムの殺害

スレイマンと共にオスマン帝国の繁栄を築いてきたイブラヒム。しかし1536年にスレイマンはなんと彼を突然処刑しました。これはいくつかの説があり、スレイマンからの寵愛を受けたイブラヒムが次第に傲慢となり、民衆から顰蹙をかったためスレイマンは彼を処刑したという説。あるいは寵姫ヒュッレムの策略とも言われています。というのも、ヒュッレムとイブラヒムはスレイマンの後継者を巡って対立していたのです。ヒュッレムは自身の息子を後継者にと考え、イブラヒムはスレイマンと彼の第一夫人との間に生まれた息子ムスタファを支持。もしかすると、ヒュッレムがスレイマンをそそのかしてイブラヒムを処刑場に送ったのかもしれませんね。

3 スレイマン治世の後半

即位後から遠征を繰り返してきたスレイマン1世。しかし寵臣イブラヒムの処刑後は遠征は控えて帝国内の中央集権化を進めていくことになりました。イブラヒムの退場した後に彼を精力的に支えたのは、寵姫ヒュッレムでした。ここではスレイマンが彼女に対して行った異例尽くしの出来事や彼の後継者問題について見ていきましょう。

3-1 ヒュッレムの時代

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Unidentified painter - Image history at en: (del) (cur) 07:21, 4 February 2004 . . ThaGrind (18290 bytes) (Aleksandra Lisowska aka Khourrem wife of Suleyman the Great), パブリック・ドメイン, リンクによる

さて、イブラヒムがいなくなった後、スレイマンを支えたのは彼からの寵愛を受けたヒュッレムでした。彼女はもともとウクライナ出身の奴隷身分だった女性。ちなみにヨーロッパでは、ロクセラーナと呼ばれています。1534年にはスレイマンは彼女を奴隷身分から解放し、なんと正式に結婚しました。更に妃は1人の王子しか産んではならないというルールも逆らいます(6人の子どもに恵まれ、そのうち男子は5人だったそう。)

また王子が地方へ太守として赴く際にはその母も同行するのが通常でしたが、その慣習も守らなかったそう。オスマン帝国では、慣習が重んじられていたため、このスレイマンとヒュッレムの異例尽くしの様子は当時のオスマン帝国社会では受け入れられなかったようです。ヒュッレムとの結婚式は盛大に開かれたという資料はヨーロッパにしか残されていないことから、当時のオスマン帝国の人々が困惑していたことが読み取れますね。

\次のページで「3-2 スレイマンの内政」を解説!/

3-2 スレイマンの内政

スレイマンは、内政においてカヌー二ーと呼ばれることに。彼は法と官僚機構の整備を行いました。これによって中央官僚らの統制や統治法令集が編纂されることに。また検地が行われ、税制度を整え、州制度を拡大したことで専制政治を確立させることに成功しました。

また文化面では、1550年にミマーリ・シナンに対してスレイマン・モスクの建設を命じました。7年の月日を擁したスレイマン・モスクはイスタンブルに建てられました。このモスクの中には、商店や学校、浴場、更には貧困者のための施設まであったそう。ちなみにスレイマン・モスクのモデルとなったのは、ハギア・ソフィア聖堂でした。

3-3 後継者問題

スレイマンは晩年になると、自身の後継者問題に悩まされることに。彼の息子は、第一夫人マヒデヴラン婦人との子、ムスタファ。そしてヒュッレムとの子である、メフメトセリムバヤジィトジハンギルがいました。この中で寵愛していたメフメトの死によって、人々がスレイマンの退位とムスタファの即位を期待する声が上がることに。ムスタファは有能で人望も厚かった人物でした。ところが1553年、スレイマンはムスタファを突然処刑しました。これはムスタファが蜂起するのではないかと考えたため。その直後に腹違いの弟、ジハンギルが亡くなることに。彼はムスタファと仲が良かったため、彼の処刑にショックを受けて亡くなったのではないかとされています。こうして後継者候補には、セリムとバヤジィトが残ることに。

スレイマンは首都から2人の王子を遠ざけ、遠方の太守として任命。更に2人には自身の腹心の部下を付けました。すると、バヤジィトのもとへスレイマンの統治に不満を抱く人々が集まっていることが判明。この動きにスレイマンはセリムの元に正規軍を派遣させ、バヤジィトと戦わせることに。こうして戦いに勝利したセリムが後継者となりました

3-4 71歳で死去

治世の前半にはよく遠征を繰り返していたスレイマン1世。そんな彼が久しぶりに遠征をすることになりました。そのきっかけとなったのは、かつてハンガリー王を巡って争ったフェルディナントの死でした。フェルディナントは1556年に兄カール5世から神聖ローマ皇帝の座を譲り受け、1564年に亡くなりました。彼の後継者としてマクシミリアン2世が即位。マクシミリアンはオスマン帝国に対しての貢納を渋ったことから、スレイマンは再びウィーンへ攻め込もうと試みました。しかしその遠征の途中、南ハンガリーのシゲトヴァルで死去。71歳でした。

多くの遠征を繰り返し、ヨーロッパの脅威となったスレイマン1世

ヨーロッパへ10回、東方に対しても3回もの遠征を繰り返したスレイマン1世。特に第一次ウィーン包囲においては、ヨーロッパの人々に大きな恐怖心を抱かせたことでしょう。

スレイマンの治世は前半に遠征で数々の成果を収めると同時に、寵臣イブラヒムを起用して自身の政権の基盤を固めることに成功しました。イブラヒムを処刑した後は寵姫ヒュッレムの支えによって国内統治に務めました。ヒュッレムに対してはかなり寛大な対応を行い、奴隷身分を解放して正式に結婚式を挙げることに。しかし晩年にはスレイマン自身が後継者問題を経験していなかったことから、息子たちの後継者争い問題が勃発し、唯一残ったセリムを継がせることになりました。

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世界史中東の歴史歴史

オスマン帝国「スレイマン1世」とは?ウィーン包囲でヨーロッパの脅威となったスルタンの生涯を歴女が5分でわかりやすく解説!

今回は16世紀のオスマン帝国のスルタン、スレイマン1世についてです。彼はヨーロッパでは「壮麗者」、トルコでは「立法者」という異名で知られている第10代のスルタンです。ちなみに日本では「大帝」とも呼ばれているぞ。

そこで今回はスレイマン1世の業績について触れながら、世界史に詳しいまぁこと一緒に彼の生涯について解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパ王室について書かれた関連書籍を愛読中。今回は16世紀のオスマン帝国のスルタン、スレイマン1世の生涯について詳しく解説していく。

1 スレイマン1世とは?

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世界史において16世紀の登場人物たちはとても魅力的な人物たちが登場します。王妃を次々に処刑し再婚を繰り返したイングランド王ヘンリー8世。スペインやオーストリアを継承し、神聖ローマ皇帝の座に就いたカール5世。そのカールと皇帝の座を巡った争ったフランス王フランソワ1世。そして今回の主人公となる、オスマン帝国の10代目のスルタンとなったスレイマン1世。ここでは彼の出自や即位後すぐに戦果を挙げた様子を見ていきましょう。

1-1 誕生

スレイマン1世は1494年に生まれました。父は冷酷王という異名を持つセリム1世。母については、セリムが王子時代にクリミア・ハン国から王女アイシェと結婚したという伝承からアイシェではないかと考えられてきました。しかし実際には奴隷身分だったハフサという女性との間の子であったそう。

スレイマンは王子時代からカッファの太守を務めており、セリムが即位した後はマニサの太守を任されていました。またセリムが東方へ遠征の際には父王に代わり敵国からの侵攻に備えていたそう。セリム1世にとってスレイマンは唯一の男子だったため、後継者争いは起きることなく、セリムの死後スレイマンは25歳で即位することになりました。

1-2 即位してまもなく大きな戦果を挙げる

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Anonymous after Titian – Kunsthistorisches Museum Wien, パブリック・ドメイン, リンクによる

25歳で即位したスレイマン1世。即位した後にすぐに大きな戦果を2つ挙げることに成功しました。1つはベオグラート、もう1つはロードス島です。

1521年、スレイマンはベオグラートへ親征することに。このベオグラートとは、ドナウ川とサヴァ川の交差する地域で、オスマン帝国がヨーロッパ圏へ侵攻する際いつも食い止められていた地域でもありました。しかしスレイマンはわずか2か月で陥落させることに成功。これによってヨーロッパの人々はスレイマンを脅威に感じるように。またそのわずか1年後にはロードス島を攻略。ここはヨハネ騎士団の本拠地であり、彼らは東地中海を行き来するムスリムの船を襲って略奪を繰り返していました。5か月間の戦いの末、ついにヨハネ騎士団は降参することに。こうしてロードス島はオスマン帝国の支配下となりました。

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