「治承・寿永の乱」は平安時代末期に起こった日本の内乱で、またの名を「源平合戦」というぞ。こっちの名前なら知っている人も多いんじゃないか?この内戦で主立って戦ったのは名前通り源氏と平家です。

今回はこのテーマを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。源平合戦は得意分野。

1.平安時代末期、荒れる日本と政治

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朝廷を牛耳る平家一門

「源平合戦」の名前で知られる「治承・寿永の乱」。まずは、その発端となった平安時代末期の日本の情勢からみていきましょう。

当時、日本の政治を担っていた天皇を中心とする朝廷。なかで最も権勢を振るっていたのが平家でした。平家は貴族ではなく、武士の家系です。それ以前の朝廷は貴族中心、とりわけ藤原氏が天皇の外戚として摂関政治を行い、他の貴族よりも頭一つ抜けた権力を持っていました。しかし、上皇(引退した元天皇)自らが政治を執る「院政」が始まり、徐々に藤原氏が弱体化。そこへ「保元の乱」「平治の乱」で功績をあげた武士・平清盛が頭角を現したのです。

もちろん、清盛に対する反発も強かったのですが、平清盛は都の軍事力を掌握していて、反対勢力の貴族たちを次々と逮捕、所領の没収を行います。そして、後白河法皇を幽閉して院政を停止させる「治承三年の役」を起こしました。

後白河法皇の第三皇子・以仁王の挙兵

ですが、そのまま平家の天下は続きません。『平家物語』に「驕る平家は久しからず」とあるように、とうとう「治承・寿永の乱」のきっかけとなる「以仁王(もちひとおう)の挙兵」が起こります。

後白河法皇の三番目の皇子でしたが、後白河法皇が幽閉され、平清盛の孫にあたる安徳天皇が即位することで皇位継承の機会を失っていたのです。さらに追い打ちで所領も没収されたことで、以仁王は平家追討の令旨を全国の源氏に向けて発します。

ここでどうして源氏を名指ししたかと言えば、かつて源氏は平氏よりも頼りにされていた武家であり、また両家はライバルでした。その均衡が崩れたのが平清盛が武功を立てた「保元の乱」や「平治の乱」。そこで生まれた確執によって源氏の生き残りは憂き目に遭い、積もり積もった源氏の恨みつらみが大きな反平氏勢力となったのです。

けれど、以仁王の挙兵は準備が整いきる前に平家にばれて失敗してしまいます。そうして、以仁王は皇族の籍を奪われ、土佐国(現在の高知県)に流罪が決まりました。なんとか以仁王は逃亡をはかるのですが、興福寺に向かう途中で討たれてしまいます。

こうして以仁王本人は亡くなってしまうのですが、平家追討の令旨は生きていて、各地の源氏が立ち上がったのです。

関東の源頼朝、挙兵

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以仁王の声に答え、関東で声を上げたのが源頼朝。そう、あの鎌倉幕府の源頼朝です。源頼朝は東国の武士団に呼びかけ、まずは地固めとして関東にいる平家の息のかかったものたちを襲撃しました。ところが、相模国(神奈川県)の大庭景親との「石橋山の戦い」で敗戦。そこで源頼朝は平家の武士だった梶原景時にいのちを救われ、なんとか帰還を果たします。

その後、源頼朝は甲斐国(山梨県)の源氏、三浦半島の豪族をはじめ多くの豪族を味方にして勢力を拡大していきました。ここから源頼朝は縁のあった鎌倉を本拠地として平家の力の及ばない関東の政権を形成します。これがのちの鎌倉幕府へと繋がるわけですね。

そうして、「富士川の戦い」にて平家にリベンジを果たしたのでした。

清盛の苛烈な遺言

一方、平家では平清盛が病気で亡くなるという一大事が起こります。

清盛が今際のきわに残した遺言は「源頼朝の首を私の墓前にかかげよ」という激しい恨み節でした。というのも、平清盛は「平治の乱」で敵対した勢力の源頼朝の処刑を免除した過去があったのです。情けをかけて助けた子どもが仇となったのですから、この怒りに満ちた遺言も納得がいきますね。

院政を行っていた高倉上皇(平家の血を引く安徳天皇の父)の崩御と、平家を権力の頂に押し上げた清盛を失った平家は急速に衰えていくのでした。

2.源氏も一枚岩じゃない?源義仲の上洛

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\次のページで「鎌倉に留まった源頼朝」を解説!/

鎌倉に留まった源頼朝

富士川の戦いで平家を破り、そのままの勢いで都まで突き進むかに思えた源頼朝軍。しかし、頼朝は鎌倉に留まります。というのも、関東の武士たちは源頼朝に武士たちの棟梁として土地の利権などを守ったり、領土の拡大をしてほしかったのです。だから、平家を抑えるよりも先に頼朝に従う御家人(武士)たちの要求を満たしてあげなければなりませんでした。

そうして、鎌倉に戻った頼朝は関東の勢力を安定させるべく戦います。その最中、信濃国(長野県)で源義仲(木曽義仲)と出くわしたのです。

源頼朝と源義仲は、実はいとこにあたります。しかし、いとこなのだから仲良く手を取り合って平家討伐に出よう、とはなりません。なぜなら、「保元の乱」において義仲の父・義賢は、頼朝の兄・義平に殺されていたから。父の仇の弟とどうして仲良くできるでしょうか。

けれど、頼朝には関東の安定という火急の使命がありましたから、ここで義仲と争わずに和平を結んだのです。

源義仲の進軍

源頼朝が鎌倉に留まる一方、木曽(長野県木曽郡木曽町)を本拠地とし、信濃国から越後国(新潟県)の平家勢力を排除して掌握していた源義仲。そこへ以仁王の子・北陸宮が保護を求めてきたことで、義仲は他の源氏たちよりも一歩リードした状態で挙兵しました。そうして、「倶利伽羅峠の戦い」で平家軍を破ると、勢いにのった義仲は都を目指します。

義仲や都周辺の源氏勢力に押された平家は、都の防衛を諦めて安徳天皇と三種の神器を持って都落ち。1183年、義仲は上洛を果たしました。

乱高下する源義仲軍の人気

源義仲が上洛を果たす二年前、日本は「養和の飢饉」という大規模な食糧不足に見舞われていました。1183年にはだいぶ落ち着いていたものの、まだ飢饉の影響が残る状態。都も例外ではなく、あまり食料の余裕はなかったのです。

さて、そんななか、平家を追い出した義仲は悪化していた都の治安維持を期待されました。ところが、治安維持はうまくいかず、それどころか義仲の軍勢を養う食料が不足したために、兵士たち自身が都の人々の食料や金品を奪うなどの狼藉が目立つようになります。

平家を追い出した英雄として「旭将軍」と呼ばれて一躍人気者になった義仲でしたが、これをきっかけに人々から嫌われることに。その上、義仲が保護していた北陸宮を次の天皇にと主張したことで後白河法皇や朝廷の貴族たちとも対立。結局、北陸宮の立太子はかないませんでした。

都の人々や朝廷の貴族たちと義仲の間に溝ができたことで、徐々に義仲ではなく源頼朝に期待する声が上がっていったのです。

源義仲討伐の宣旨

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源義仲が都で悪戦苦闘している間、西に逃れた平家は反旗を翻す準備を着々と行っていました。義仲の評判が落ちて人気がなくなったとはいえ、平家軍は待ってはくれないのです。義仲は平家と戦うべく出陣するのですが、備中国(岡山県西部)で起きた「水島の戦い」で平氏軍に敗北を喫します。

その上、義仲が都を留守にしている間、後白河法皇は鎌倉の源頼朝に義仲追討の宣旨を送っていました。この命令によって大義名分を得た頼朝は、弟の源義経を都に派遣します。義仲は慌てて帰京し、法住寺を襲って後白河法皇を幽閉。かいらい政権を樹立するクーデター「法住寺合戦」を展開しました。

頼朝はさらに弟の源範頼を追加で派遣し、頼朝軍と義仲軍はついに激突することとなります。そうして、宇治川で義経の軍と交戦(宇治川の戦い)し、義仲は討たれてしまうのです。

3.源頼朝軍対平氏軍、最後の戦い

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源義仲と源頼朝軍が戦っている間は、平氏にとって勢力を整え直すチャンスです。平氏は、かつて清盛が都を遷した摂津の福原京(兵庫県神戸市)にまで戻り、都との距離を詰めます。

範頼と義経を大将にした頼朝軍(頼朝は鎌倉から出ません)は福原へ向かい、「一ノ谷の戦い」を繰り広げまることとなるのです。

\次のページで「一ノ谷の戦いと「敦盛」」を解説!/

一ノ谷の戦いと「敦盛」

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不明 - 『一の谷合戦図屏風』永青文庫蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

一ノ谷の戦いにおいて、義経は一ノ谷の裏にある断崖絶壁を馬で駆け下りる奇策「逆落とし」を成功させます。平氏軍は不意を突かれて大慌てのうちに逃走。さらにその混乱は別所を守っていた他の平氏軍に及び、海へ逃れようと船に殺到した兵たちの多くが溺死してしまいます。

このとき、船に乗り遅れた平家の若武者がいました。その若武者を頼朝軍の熊谷直実が「武士ならば戦わぬか!」と呼び戻し、若武者の顔を見ます。その顔立ちは一ノ谷戦いで死にかけた熊谷直実の子どもと同じくらいの年ごろですた。それで戦意の削がれた熊谷直実は、まだ若武者が他の仲間に見られていないうちに逃がしてやろうとしたのです。

しかし、若武者はその申し出を受けず、自分を討ち取るように言います。頑として譲らない若武者に、熊谷直実はやむを得ず彼を討ち取りました。そうして、のちにこの若武者の正体が平清盛の弟・平経盛の子「敦盛」だとわかるのです。

このエピソードをもとに室町時代で作られた幸若舞の「敦盛」は、織田信長が好み、今川義元との「桶狭間の戦い」直前にも演じていたことで有名ですね。

屋島の戦いと「扇の的」

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不明 - 「扇の的」平家物語絵巻, パブリック・ドメイン, リンクによる

一ノ谷の戦いで敗走し、福原を捨てた平氏が次に逃げ込んだのは屋島(香川県高松市)。平家には優秀な水軍がありましたが、一方、頼朝軍には水軍がありません。海戦ができない以上、頼朝軍は平氏に手が出せなかったのです。

停滞する戦線に検非違使(現在の警察のような組織)として都の治安維持に努めていた義経が西国へ向けて出発。熊野(和歌山県南部)の熊野水軍、伊予国(愛媛県)の伊予水軍を味方につけて戦いに臨みました。

そして、暴風雨のなかを船で突っ切り、阿波国(徳島県)勝浦に到着。そのまま義経軍は屋島を急襲し、またもや平家は敗走することとなったのです。

この戦いで船上の平氏と浜の源氏との間で矢の打ち合いがおき、それで決着のつかないまま夕方に一時休戦状態となることがありました。休憩なので両者ともに弓を置いた状態なのですが、突然、平家の船に若い女房が竿を立てた上に扇を置きました。「この扇の的を射れるものが源氏にいるのか」というちょっとしたレクリエーションと挑発です。

ですが、ここは源氏の威信にかけて扇の的を一発で射貫き、平家の鼻をあかしてやらねばなりません。そこで弓の名手として名高い「那須与一」を呼び、源氏は見事に扇を射抜くことができたのでした。これが「扇の的」という有名なエピソードです。

源平合戦最後の壇ノ浦

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伝土佐光信 - 『安徳天皇縁起絵図』 第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」, パブリック・ドメイン, リンクによる

敗走を繰り返し、いよいよ立つ瀬のなくなった平氏たちの最後の砦なったのが長門国壇ノ浦(山口県下関市)でした。

壇ノ浦で平氏は残りの水軍を集め、再び海戦で挑みます。まさに背水の陣となった平氏は最初こそ源氏を押していましたが、関門海峡は潮の流れの変化が激しく、途中で海流が変わると今度は源氏が攻勢に転じてそのまま逆転。源氏の勝利となりました。

勝敗が決すると、平氏の武将や女房たちは次々に海に飛び込んで自らの命を絶ちました。そのなかには幼い安徳天皇もおり、祖母の二位尼(平清盛の正室)に抱かれて入水。このとき三種の神器のひとつ「草薙の剣」が失われたとされています。

これにて清盛が率いた平家一門は滅び、「治承・寿永の乱」は終わりを告げたのでした。そして、「治承・寿永の乱」の間に関東におけるいろいろな権利を朝廷から勝ち取っていた源頼朝が、のちに鎌倉幕府をひらくことになります。

日本史のターニングポイントとなった戦い

後世に琵琶法師たちによって『平家物語』として語り継がれることとなった平氏と源氏の戦い。およそ六年にも及ぶ長期戦のなかには頼朝と義仲による源氏同士の戦いなども含まれます。単純に源氏vs平氏だけではなかったというわけですね。

平氏が壇ノ浦の戦いにて滅亡後、頼朝はかねてより内政を整えていた関東・鎌倉にて鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府は日本初の武士がトップに立った政府です。以降、江戸の徳川幕府まで長く渡って武士の世となったのでした。

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平安時代日本史歴史

俗に言う源平合戦「治承・寿永の乱」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

「治承・寿永の乱」は平安時代末期に起こった日本の内乱で、またの名を「源平合戦」というぞ。こっちの名前なら知っている人も多いんじゃないか?この内戦で主立って戦ったのは名前通り源氏と平家です。

今回はこのテーマを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。源平合戦は得意分野。

1.平安時代末期、荒れる日本と政治

image by PIXTA / 53607778

朝廷を牛耳る平家一門

「源平合戦」の名前で知られる「治承・寿永の乱」。まずは、その発端となった平安時代末期の日本の情勢からみていきましょう。

当時、日本の政治を担っていた天皇を中心とする朝廷。なかで最も権勢を振るっていたのが平家でした。平家は貴族ではなく、武士の家系です。それ以前の朝廷は貴族中心、とりわけ藤原氏が天皇の外戚として摂関政治を行い、他の貴族よりも頭一つ抜けた権力を持っていました。しかし、上皇(引退した元天皇)自らが政治を執る「院政」が始まり、徐々に藤原氏が弱体化。そこへ「保元の乱」「平治の乱」で功績をあげた武士・平清盛が頭角を現したのです。

もちろん、清盛に対する反発も強かったのですが、平清盛は都の軍事力を掌握していて、反対勢力の貴族たちを次々と逮捕、所領の没収を行います。そして、後白河法皇を幽閉して院政を停止させる「治承三年の役」を起こしました。

後白河法皇の第三皇子・以仁王の挙兵

ですが、そのまま平家の天下は続きません。『平家物語』に「驕る平家は久しからず」とあるように、とうとう「治承・寿永の乱」のきっかけとなる「以仁王(もちひとおう)の挙兵」が起こります。

後白河法皇の三番目の皇子でしたが、後白河法皇が幽閉され、平清盛の孫にあたる安徳天皇が即位することで皇位継承の機会を失っていたのです。さらに追い打ちで所領も没収されたことで、以仁王は平家追討の令旨を全国の源氏に向けて発します。

ここでどうして源氏を名指ししたかと言えば、かつて源氏は平氏よりも頼りにされていた武家であり、また両家はライバルでした。その均衡が崩れたのが平清盛が武功を立てた「保元の乱」や「平治の乱」。そこで生まれた確執によって源氏の生き残りは憂き目に遭い、積もり積もった源氏の恨みつらみが大きな反平氏勢力となったのです。

けれど、以仁王の挙兵は準備が整いきる前に平家にばれて失敗してしまいます。そうして、以仁王は皇族の籍を奪われ、土佐国(現在の高知県)に流罪が決まりました。なんとか以仁王は逃亡をはかるのですが、興福寺に向かう途中で討たれてしまいます。

こうして以仁王本人は亡くなってしまうのですが、平家追討の令旨は生きていて、各地の源氏が立ち上がったのです。

関東の源頼朝、挙兵

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以仁王の声に答え、関東で声を上げたのが源頼朝。そう、あの鎌倉幕府の源頼朝です。源頼朝は東国の武士団に呼びかけ、まずは地固めとして関東にいる平家の息のかかったものたちを襲撃しました。ところが、相模国(神奈川県)の大庭景親との「石橋山の戦い」で敗戦。そこで源頼朝は平家の武士だった梶原景時にいのちを救われ、なんとか帰還を果たします。

その後、源頼朝は甲斐国(山梨県)の源氏、三浦半島の豪族をはじめ多くの豪族を味方にして勢力を拡大していきました。ここから源頼朝は縁のあった鎌倉を本拠地として平家の力の及ばない関東の政権を形成します。これがのちの鎌倉幕府へと繋がるわけですね。

そうして、「富士川の戦い」にて平家にリベンジを果たしたのでした。

清盛の苛烈な遺言

一方、平家では平清盛が病気で亡くなるという一大事が起こります。

清盛が今際のきわに残した遺言は「源頼朝の首を私の墓前にかかげよ」という激しい恨み節でした。というのも、平清盛は「平治の乱」で敵対した勢力の源頼朝の処刑を免除した過去があったのです。情けをかけて助けた子どもが仇となったのですから、この怒りに満ちた遺言も納得がいきますね。

院政を行っていた高倉上皇(平家の血を引く安徳天皇の父)の崩御と、平家を権力の頂に押し上げた清盛を失った平家は急速に衰えていくのでした。

2.源氏も一枚岩じゃない?源義仲の上洛

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