その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、三好長慶は阿波の国の生まれ
- 1-2、長慶、父を10歳で失う
- 2-1、長慶、12歳で調停を行う
- 2-2、長慶、晴元の武将となり、河内17か所を巡って政長と争う
- 2-3、長慶、晴元と対立、太平寺の戦いで木沢長政を破る
- 2-4、舎利寺の戦いで勝利
- 2-5、江口の戦いで晴元、政長に勝利
- 3-1、長慶、京都で実権を握る
- 3-2、長慶暗殺未遂事件
- 3-3、将軍義輝、懲りずに再び挙兵するが長慶に敗北、和解に
- 3-4、長慶、息子に家督を譲って拠点を移す
- 3-5、弟や息子を相次いで亡くし、反三好の動きが活発に
- 3-6、長慶の最期
- 4-1、長慶の逸話
- 4-2、イエズス会から見た長慶
- 4-3、文化人としての長慶
- 4-4、信長の料理人話
- 足利将軍を追い出して京都を支配した、昔は梟雄今は最初の天下人
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三好長慶について5分でわかるようにまとめた。
1-1、三好長慶は阿波の国の生まれ
三好長慶(みよしながよし)は、大永2年(1522年)2月、阿波の国(現徳島県三好市)で誕生。父は管領細川晴元の重臣、三好元長で、母は不明、長慶はその嫡男で弟が4人、妹が2人。幼名は千熊丸(せんくま)、通称は孫次郎、諱は最初は利長、範長、長慶と改名、別名は三筑(三好筑前守の略称)。
1-2、長慶、父を10歳で失う
長慶の曽祖父は阿波守護の細川氏分家讃州家(阿波守護家)の細川成之に仕え、応仁の乱でも活躍した之長(ゆきなが)、長慶の父は細川晴元配下の重臣で山城国下五郡守護代、主君晴元の敵の細川高国を滅ぼした功労者でした。
三好家は本国の阿波だけでなく山城国にも勢力があり、長慶は三好一族の本家です。その長慶の父元長が享禄5年(1532年)6月、対立していた木沢長政の城を攻めて、木沢長政の討滅が間近になったところ、突然味方だったはずの背後にいた数万の一向一揆が、細川晴元と三好一族の三好政長、木沢長政らの策謀で蜂起したので、元長は追い詰められて、32歳で自害。
当時10歳だった長慶は両親と共に堺にいたが、一向一揆の襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逃亡しました。
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2-1、長慶、12歳で調停を行う
主君の管領細川晴元は、長慶の父元長殺害のために一向一揆の勢力を借りたのですが、その後、一向一揆の力が晴元には抑えられなくなってしまい、享禄、天文の乱が勃発、天文2年(1533年)6月、なんと長慶が一向一揆と晴元の和睦を斡旋したということです。当時長慶は12歳で千熊丸と名乗っていたが、一次史料の本福寺明宗跡書には、「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」と長慶が和睦を周旋した記録が。しかし交渉自体は長慶の名を借りて、叔父の三好康長などの代理の大人が行った可能性もあるそう。
そして長慶は、当時の足利将軍らと同じく11歳で元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称するように(天文5年(1536年)11月の「鹿苑日録」では仙熊と記されているために、世間ではその後も幼名で呼ばれていたそう)。
尚、天文2年(1533年)8月、本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じなかったので、長慶は一揆と戦って摂津越水城を奪回、翌年には長慶は本願寺に味方して8月に細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄(尼崎市)で晴元方の三好政長と対戦したが、河内守護代の木沢長政の仲介もあり、年少という理由から許されて晴元の下に帰参しました。
2-2、長慶、晴元の武将となり、河内17か所を巡って政長と争う
その後の長慶は晴元の武将となり、天文5年(1536年)3月に細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。長慶は木沢長政の下に逃れて、長政や三好政長らの支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍を7月29日までに全滅させるなど、若くして手腕を発揮。
そして天文8年(1539年)、17歳の長慶は兵を伴って入京し晴元を酒宴に招いて、もともと長慶の父が任官していたが、その後、同族で父の仇でもある三好政長がつとめていた幕府料所の河内十七箇所(現守口市)の代官職を自分に与えるよう要求。しかし晴元が許可しなかったために室町幕府に訴えたのですね。幕府は長慶の要求を認めたが交渉がうまくいかず、長慶は挙兵、太平寺の戦いとなったが、結局六角定頼の調停によって和睦。
長慶には十七箇所の代官職は与えられなかったが、和睦の条件として越水城主(現西宮市)となって、今後は阿波から摂津へ拠点を移して活動することになりました。この後の長慶は摂津守護代として幕府に出仕するようになり強大な力を持つように。
2-3、長慶、晴元と対立、太平寺の戦いで木沢長政を破る
長慶は、天文10年(1541年)9月頃、利長から範長に改名したが、6月には主君晴元を無視して、自身の影響下の摂津国下郡(豊島郡、川辺郡南部、武庫郡、菟原郡、八部郡)などから独自に段銭徴収を行うようになり、晴元と対立。これは下郡の国人や百姓に長慶の影響力が広まっていたということだそうで、長慶は摂津国人の上田某を攻めて城を奪ったり、富松城(現尼崎市)を攻め落としたそう。
また、細川晴元に反逆した木沢長政が上洛して将軍義晴と晴元を追ったなどで、河内守護代の遊佐長教が長政側の河内守護の畠山政国を追放して兄の畠山稙長を迎えたうえで長慶側に味方したため、翌年天文11年(1542年)3月、木沢長政は、畠山稙長の河内高屋城を攻撃、太平寺の戦いとなり、政長と長慶の援軍の加勢で敗れた長政は討死。
その後も反乱は収まらず、天文12年(1543年)、細川高国の養子の氏綱が、細川晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵し、天文14年(1545年)には山城国で高国派の細川元治の親子3代と丹波国の内藤国貞らが挙兵したが、長慶、政長らが鎮圧。
翌年の天文15年(1546年)8月には細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再び挙兵して、摂津国をほとんど占領されたが、長慶の弟三好実休ら四国の軍勢が到着して形勢逆転となり、細川氏綱を支持した将軍足利義晴は近江に逃れ、将軍職を嫡子義輝に譲ることに。また氏綱と畠山政国、遊佐長教らが手を結び細川国慶も再挙兵して京都へ入り、晴元は丹波国へ逃亡。
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