今回は三好長慶を取り上げるぞ。あまり知名度が高くないと思うんですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三好長慶について5分でわかるようにまとめた。

1-1、三好長慶は阿波の国の生まれ

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三好長慶(みよしながよし)は、大永2年(1522年)2月、阿波の国(現徳島県三好市)で誕生。父は管領細川晴元の重臣、三好元長で、母は不明、長慶はその嫡男で弟が4人、妹が2人。幼名は千熊丸(せんくま)、通称は孫次郎、諱は最初は利長、範長、長慶と改名、別名は三筑(三好筑前守の略称)。

1-2、長慶、父を10歳で失う

長慶の曽祖父は阿波守護の細川氏分家讃州家(阿波守護家)の細川成之に仕え、応仁の乱でも活躍した之長(ゆきなが)、長慶の父は細川晴元配下の重臣で山城国下五郡守護代、主君晴元の敵の細川高国を滅ぼした功労者でした。

三好家は本国の阿波だけでなく山城国にも勢力があり、長慶は三好一族の本家です。その長慶の父元長が享禄5年(1532年)6月、対立していた木沢長政の城を攻めて、木沢長政の討滅が間近になったところ、突然味方だったはずの背後にいた数万の一向一揆が、細川晴元と三好一族の三好政長、木沢長政らの策謀で蜂起したので、元長は追い詰められて、32歳で自害

当時10歳だった長慶は両親と共に堺にいたが、一向一揆の襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逃亡しました。

2-1、長慶、12歳で調停を行う

主君の管領細川晴元は、長慶の父元長殺害のために一向一揆の勢力を借りたのですが、その後、一向一揆の力が晴元には抑えられなくなってしまい、享禄、天文の乱が勃発、天文2年(1533年)6月、なんと長慶が一向一揆と晴元の和睦を斡旋したということです。当時長慶は12歳で千熊丸と名乗っていたが、一次史料の本福寺明宗跡書には、「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」と長慶が和睦を周旋した記録が。しかし交渉自体は長慶の名を借りて、叔父の三好康長などの代理の大人が行った可能性もあるそう。

そして長慶は、当時の足利将軍らと同じく11歳で元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称するように(天文5年(1536年)11月の「鹿苑日録」では仙熊と記されているために、世間ではその後も幼名で呼ばれていたそう)。

尚、天文2年(1533年)8月、本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じなかったので、長慶は一揆と戦って摂津越水城を奪回、翌年には長慶は本願寺に味方して8月に細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄(尼崎市)で晴元方の三好政長と対戦したが、河内守護代の木沢長政の仲介もあり、年少という理由から許されて晴元の下に帰参しました。

2-2、長慶、晴元の武将となり、河内17か所を巡って政長と争う

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投稿者が撮影 - ブレイズマン 06:46, 2 February 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

その後の長慶は晴元の武将となり、天文5年(1536年)3月に細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。長慶は木沢長政の下に逃れて、長政や三好政長らの支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍を7月29日までに全滅させるなど、若くして手腕を発揮。

そして天文8年(1539年)、17歳の長慶は兵を伴って入京し晴元を酒宴に招いて、もともと長慶の父が任官していたが、その後、同族で父の仇でもある三好政長がつとめていた幕府料所の河内十七箇所(現守口市)の代官職を自分に与えるよう要求。しかし晴元が許可しなかったために室町幕府に訴えたのですね。幕府は長慶の要求を認めたが交渉がうまくいかず、長慶は挙兵、太平寺の戦いとなったが、結局六角定頼の調停によって和睦

長慶には十七箇所の代官職は与えられなかったが、和睦の条件として越水城主(現西宮市)となって、今後は阿波から摂津へ拠点を移して活動することになりました。この後の長慶は摂津守護代として幕府に出仕するようになり強大な力を持つように。

2-3、長慶、晴元と対立、太平寺の戦いで木沢長政を破る

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投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 09:17, 9 November 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

長慶は、天文10年(1541年)9月頃、利長から範長に改名したが、6月には主君晴元を無視して、自身の影響下の摂津国下郡(豊島郡、川辺郡南部、武庫郡、菟原郡、八部郡)などから独自に段銭徴収を行うようになり、晴元と対立。これは下郡の国人や百姓に長慶の影響力が広まっていたということだそうで、長慶は摂津国人の上田某を攻めて城を奪ったり、富松城(現尼崎市)を攻め落としたそう。

また、細川晴元に反逆した木沢長政が上洛して将軍義晴と晴元を追ったなどで、河内守護代の遊佐長教が長政側の河内守護の畠山政国を追放して兄の畠山稙長を迎えたうえで長慶側に味方したため、翌年天文11年(1542年)3月、木沢長政は、畠山稙長の河内高屋城を攻撃、太平寺の戦いとなり、政長と長慶の援軍の加勢で敗れた長政は討死。

その後も反乱は収まらず、天文12年(1543年)、細川高国の養子の氏綱が、細川晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵し、天文14年(1545年)には山城国で高国派の細川元治の親子3代と丹波国の内藤国貞らが挙兵したが、長慶、政長らが鎮圧。

翌年の天文15年(1546年)8月には細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再び挙兵して、摂津国をほとんど占領されたが、長慶の弟三好実休ら四国の軍勢が到着して形勢逆転となり、細川氏綱を支持した将軍足利義晴は近江に逃れ、将軍職を嫡子義輝に譲ることに。また氏綱と畠山政国、遊佐長教らが手を結び細川国慶も再挙兵して京都へ入り、晴元は丹波国へ逃亡。

\次のページで「2-4、舎利寺の戦いで勝利」を解説!/

2-4、舎利寺の戦いで勝利

天文16年(1547年)7月、長慶は舎利寺の戦いで細川氏綱、遊佐長教軍に勝利。敗報を聞いた足利義晴が閏7月1日に帰京して細川晴元、六角定頼と和睦、長慶と弟の実休は8月にも河内で氏綱、長教軍と対陣したが、義晴が離脱したことで氏綱らは戦意を喪失し、長滞陣の末に翌年4月、両者は定頼の斡旋で和睦、長慶は5月に越水城へ帰城。長慶は義晴を援助していた六角定頼を味方につけたことが、義晴の敗北と細川晴元の和睦、帰京となって、長慶も定頼の斡旋を受けて遊佐長教らと和睦

2-5、江口の戦いで晴元、政長に勝利

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投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 09:43, 21 July 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

長慶は天文17年(1548年)に波多野秀忠の娘と離縁して、和睦した遊佐長教の娘と結婚して同盟を結んだのですね。そして長慶と改名し、三好政長討伐の決意をして、政長をかばう晴元とも対立することに。

同年8月、長慶は政長親子討伐を晴元の側近に訴えたが聞き入れられず、ついに晴元から離反し、翌年天文18年(1549年)6月、江口の戦いで三好政長を討ち、政長を支援した晴元は13代将軍足利義輝とともに近江へ逃亡。近江に追いやった晴元、義輝とは、それ以降もいざこざが続きます。

3-1、長慶、京都で実権を握る

長慶は、天文18年(1549年)7月、晴元や足利義輝らの将軍、管領が不在となった京都に細川京兆家の当主として細川氏綱を伴って入洛し、翌年天文19年(1550年)3月には摂津を平定。

長慶は29歳で京都に三好政権を樹立することに。近江へ逃亡した晴元は天文19年(1550年)、足利義晴死去後は義輝を擁立し、香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みたが成功せず、中尾城を破棄。尚、長慶は細川氏綱を形式上の主君として尊重したが、氏綱を通さずに所領安堵や判物の発給を行い、家臣の松永久秀らは行政面を担当したということ。

3-2、長慶暗殺未遂事件

天文20年(1551年)3月、長慶が幕臣伊勢貞孝の邸宅に招かれ、返礼として貞孝を自身の拠点の吉祥院に招いたとき、吉祥院に忍び込んで火を放とうとした少年を捕縛。数日後には他に2人の共犯者が判明して3人は処刑されたが、調査後に事件の関係者は60人にものぼったために計画性のある組織的犯行ということに。

その後、長慶は再度伊勢邸に招待され、舞の鑑賞などを楽しんでいたときに、その場にいた奉公衆の進士賢光が長慶を三度も斬りつけたそう。長慶は、軽傷で命に別状はなく、賢光はその場で自害。またこの事件の翌日には義輝派の諸将、三好政生や香西元成らが京都の東山一帯を焼き払ったということ。そして5月5日には長慶の岳父の遊佐長教も自らが帰依していた僧侶の珠阿弥に暗殺されましたが、これらの暗殺事件の黒幕は将軍義輝ではと言われています

天文21年(1552年)1月、六角定頼が急死したために義輝は長慶と和睦して京都に戻り、伊勢貞孝は赦免されたが、細川晴元は京都を脱出。そして2月、長慶は御供衆として幕臣に。天文20年(1551年)には丹波衆を率いた元成、政勝が長慶軍に敗れ、天文21年(1552年)1月に長慶と義輝が和睦して義輝が上洛、氏綱が細川氏当主となり嫡男の聡明丸(後の昭元)が長慶の人質になったが、晴元は和睦を認めず出家し、若狭守護の武田信豊を頼り若狭国へ下向したということ。

3-3、将軍義輝、懲りずに再び挙兵するが長慶に敗北、和解に

天文22年(1553年)閏1月、上野信孝など反長慶派の側近の奉公衆らが長慶排除のために細川晴元と通じたことを、2月に親長慶派の伊勢貞孝が諫言、これに将軍義輝に長年従って三好家と戦った大舘晴光や朽木稙綱も同調し、3月に将軍義輝が、長慶との和約を破棄して東山の麓に築いた霊山城に入城し、晴元と協力して長慶に対して挙兵。しかし7月に長慶が上洛し、8月には霊山城は落城。将軍義輝は伯父の前関白近衛稙家らとともに近江朽木谷に逃れて、その後5年間を過ごすことに。長慶は、将軍義輝に随伴すれば知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが帰京。

尚、弘治4年(1558年)2月、朝廷は正親町天皇の即位のために年号を永禄に改元。それまで改元は朝廷と室町幕府の協議の上で行われたが、朽木谷の将軍義輝には改元を知らせず、長慶に相談して改元を実施したということ。永禄元年3月、義輝は改元の一件もあり長慶政権打倒のために、朽木谷で挙兵したが、一時は六角義賢の支援を受けて義輝側が優勢だったが、長慶の弟三好実休の反撃と六角義賢の支援が打ち切られたために苦戦し、11月に義輝は六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立。5年ぶりに入洛して御所での直接的な幕府政治を再開

\次のページで「3-4、長慶、息子に家督を譲って拠点を移す」を解説!/

3-4、長慶、息子に家督を譲って拠点を移す

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投稿者が撮影 - ブレイズマン 05:19, 1 May 2008 (UTC), CC 表示-継承 3.0, リンクによる

その後、長慶は永禄3年(1560年)に御相伴衆に加わり、さらに修理大夫に任ぜられたが、嫡男の義興が御供衆、筑前守に任じられたため、長慶は家督を義興に譲って自らは飯盛山城(現大阪府大東市、四條畷市)へ移ったということで、これは自分を暗殺未遂した疑いのある将軍義輝との関係がこじれないように、また自分が幕府の体制に取り込まれないため、京都のことは息子に任せたという見方があるそうです。

この頃の長慶は摂津、山城、和泉、丹波、播磨東部を支配、4人の弟たちの四国の勢力圏を加えると、阿波、讃岐、淡路、伊予東部まで広がり、家臣の松永久秀は大和を平定するなど、ほぼ天下人と言われる勢力だったそう。

3-5、弟や息子を相次いで亡くし、反三好の動きが活発に

永禄4年(1561年)5月、長慶は将軍義輝に、晴元と和睦するように勧められ、晴元は8年ぶりに入京したが、晴元と義輝の対面後に長慶は晴元を普門寺城に幽閉、その後、晴元の長男昭元も普門寺城で長慶の監視下に置かれました。

そして3月に長慶の弟で岸和田城城主の十河一存(そごうかずまさ、かずなが)が死亡したので、これを三好側の兵力低下と考えたのか、妹婿晴元の幽閉に激怒した六角義賢と、長慶に破れ紀伊国に逃走していた畠山高政は連携して畿内で挙兵し、同年7月13日、畠山高政を総大将に、安見宗房、遊佐信教、根来衆1万兵が岸和田城を包囲したそう。また同月28日、六角義賢は永原重隆を大将に2万の兵を率いて将軍地蔵山城に布陣したが、この戦いは久米田の戦いといわれて永禄5年(1562年)まで続き、3月には長慶の弟の三好実休が高政に敗れて戦死

京都では長慶の息子義興と家臣の松永久秀が三好軍を率いて善戦、長慶弟の安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反撃、5月20日の教興寺の戦いで畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放して河内を再平定、六角軍は6月に三好家と和睦して退京したということ。しかしこの戦いには長慶は出陣せず、この頃から長慶は病気で会った疑いがあるそう。

そしてその後も、幕府の政所執事である伊勢貞孝が畠山、六角の両家と通じて京都で挙兵して三好軍に征伐されたり、和泉で根来衆と三好軍が激突したが和睦。大和で松永久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突、また細川晴元の残党による反乱など、反三好の動きが顕著になってきたのですね。
さらに永禄6年(1563年)8月、長慶の嫡男義興が22歳で早世、嗣子を失った長慶は弟十河一存の息子の重存(のち義継と改名)を養子にして跡継ぎにしたということ。

3-6、長慶の最期

永禄7年(1564年)5月9日、長慶は弟の安宅冬康(あたぎ)を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺。これは家臣の松永久秀か誰かの讒言を信じた、または、この頃の長慶は相次ぐ親族や周囲の人物らの死で鬱状態で思慮を失っていたとされていて、長慶は弟冬康を殺害後、久秀の讒言を知って後悔、または冬安の謀反が無実と知って後悔したなどで、病がさらに重くなってしまったとわれています。そして7月4日、長慶は飯盛山城で43歳で病死。

長慶の死後は、跡継ぎの義継が若年のため、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が後見役として三好氏を支え、翌年には将軍義輝を暗殺へと暴走。また久秀は独自の動きを見せ、永禄8年(1565年)から永禄11年(1568年)までの3年間は内紛状態に。

その後、久秀の側に鞍替えした義継と久秀は、新たに台頭した織田信長と彼が推戴する足利義昭に協力したが、結局三好三人衆は信長に敗れて、三好政権は崩壊。義継と久秀も信長に滅ぼされることになり、長慶の三好一族はあっという間に消えてしまったということです。

4-1、長慶の逸話

梟雄と恐れられたが、宣教師の報告で日本よりもヨーロッパで認知度が高いとか、文化人であったなど色々な逸話をご紹介しますね。

4-2、イエズス会から見た長慶

長慶は仏教に帰依した信仰深い人であったようですが、キリスト教にも寛容でイエズス会の畿内でのキリスト教布教を許可していました。

イエズス会のフェルナンデスによる報告では、京都の政治に関わっているのは3人で、1がイエズス会が日本全国の王と呼んでいた将軍である公方様、2にその家臣の三好長慶、3に長慶の家臣である松永久秀とあったそう。イエズス会から見れば、長慶は天下人という立場にあったのですね。

4-3、文化人としての長慶

長慶は有能な武将で政治家であっただけでなく、優れた文化人だったということで、三好一族のなかでは、弟の実休や政敵の三好政長、家臣の松永久秀も茶の湯を好んだが、長慶は連歌や和歌に精通していたそう。

長慶は朝廷で行われた歌会にも参加して、後奈良天皇の宸筆の「古今和歌集」を下賜され、公家の山科言継に「玉葉和歌集」の書写を依頼し、自らは「後撰和歌集」の書写も行ったなどで、のちには戦国時代きっての文化人の細川藤孝も「修理大夫(長慶)連歌は、いかにも案じてしたる連歌なりしなり」と、長慶を尊敬していたと言われています。

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4-4、信長の料理人話

江戸時代中期に成立した逸話集「常山紀談」によれば、長慶の息子義継の滅亡後、坪内という名の長慶に仕えた料理人が信長に捕らわれ、信長の家臣が彼を推挙した話があります。

それによると坪内の作った料理を、信長は水くさいと憤怒したが、坪内が翌日料理を作り直したところ、今度は信長の口に合い料理人として採用されたそう。この時、坪内は「昨日の料理は三好家の風味に合わせた味付けで、三好家は三好之長より五代、公方家の事を執り、日本のまつりごとをとりはからひぬれば何事も卑しからず、その好むところ、第一党の塩梅」と、要するに長慶は薄味の上品な味付けを好んだ都会人だが、信長は濃い味が好みの田舎者という、あの有名な話だったわけです。

足利将軍を追い出して京都を支配した、昔は梟雄今は最初の天下人

三好長慶は管領の細川家の重臣の家に生まれたが、父が主君の裏切りによって討ち死にし、11歳で家を継いで早くから武将として活躍した人。

なんと12歳で主君と本願寺一向一揆の和睦に尽力、これは史料に名前が残っていることで本当にこの若さで調停を行った、または叔父などの側近の補佐があったのかもしれないが、その後、父の仇でもある細川晴元に帰参し、合戦に次ぐ合戦で、昨日の敵は今日の味方というややこしい勢力争いを勝ち抜き、とうとう足利将軍を追い出して京都を支配するまでに。

また長慶はあの松永久秀を重用したこともあり、下克上の体現者、梟雄と言われたものですが、長慶は合戦で勝っても相手と和睦して抹殺するということをしない、あと一歩の押しが出来ない詰めの甘い人物であるとか、最後は身内の相次ぐ死に鬱っぽく早死、そして連歌を好み、キリスト教布教も認める見識の高い文化人でもあったなど、最近になって史料が整理されたせいで、現在では信長以前に天下を取った最初の天下人と言われ、再評価されているということです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

戦国時代最初の天下人と言われる「三好長慶」をわかりやすく歴女が解説

今回は三好長慶を取り上げるぞ。あまり知名度が高くないと思うんですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三好長慶について5分でわかるようにまとめた。

1-1、三好長慶は阿波の国の生まれ

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三好長慶(みよしながよし)は、大永2年(1522年)2月、阿波の国(現徳島県三好市)で誕生。父は管領細川晴元の重臣、三好元長で、母は不明、長慶はその嫡男で弟が4人、妹が2人。幼名は千熊丸(せんくま)、通称は孫次郎、諱は最初は利長、範長、長慶と改名、別名は三筑(三好筑前守の略称)。

1-2、長慶、父を10歳で失う

長慶の曽祖父は阿波守護の細川氏分家讃州家(阿波守護家)の細川成之に仕え、応仁の乱でも活躍した之長(ゆきなが)、長慶の父は細川晴元配下の重臣で山城国下五郡守護代、主君晴元の敵の細川高国を滅ぼした功労者でした。

三好家は本国の阿波だけでなく山城国にも勢力があり、長慶は三好一族の本家です。その長慶の父元長が享禄5年(1532年)6月、対立していた木沢長政の城を攻めて、木沢長政の討滅が間近になったところ、突然味方だったはずの背後にいた数万の一向一揆が、細川晴元と三好一族の三好政長、木沢長政らの策謀で蜂起したので、元長は追い詰められて、32歳で自害

当時10歳だった長慶は両親と共に堺にいたが、一向一揆の襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逃亡しました。

2-1、長慶、12歳で調停を行う

主君の管領細川晴元は、長慶の父元長殺害のために一向一揆の勢力を借りたのですが、その後、一向一揆の力が晴元には抑えられなくなってしまい、享禄、天文の乱が勃発、天文2年(1533年)6月、なんと長慶が一向一揆と晴元の和睦を斡旋したということです。当時長慶は12歳で千熊丸と名乗っていたが、一次史料の本福寺明宗跡書には、「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」と長慶が和睦を周旋した記録が。しかし交渉自体は長慶の名を借りて、叔父の三好康長などの代理の大人が行った可能性もあるそう。

そして長慶は、当時の足利将軍らと同じく11歳で元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称するように(天文5年(1536年)11月の「鹿苑日録」では仙熊と記されているために、世間ではその後も幼名で呼ばれていたそう)。

尚、天文2年(1533年)8月、本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じなかったので、長慶は一揆と戦って摂津越水城を奪回、翌年には長慶は本願寺に味方して8月に細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄(尼崎市)で晴元方の三好政長と対戦したが、河内守護代の木沢長政の仲介もあり、年少という理由から許されて晴元の下に帰参しました。

2-2、長慶、晴元の武将となり、河内17か所を巡って政長と争う

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投稿者が撮影 – ブレイズマン 06:46, 2 February 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

その後の長慶は晴元の武将となり、天文5年(1536年)3月に細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。長慶は木沢長政の下に逃れて、長政や三好政長らの支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍を7月29日までに全滅させるなど、若くして手腕を発揮。

そして天文8年(1539年)、17歳の長慶は兵を伴って入京し晴元を酒宴に招いて、もともと長慶の父が任官していたが、その後、同族で父の仇でもある三好政長がつとめていた幕府料所の河内十七箇所(現守口市)の代官職を自分に与えるよう要求。しかし晴元が許可しなかったために室町幕府に訴えたのですね。幕府は長慶の要求を認めたが交渉がうまくいかず、長慶は挙兵、太平寺の戦いとなったが、結局六角定頼の調停によって和睦

長慶には十七箇所の代官職は与えられなかったが、和睦の条件として越水城主(現西宮市)となって、今後は阿波から摂津へ拠点を移して活動することになりました。この後の長慶は摂津守護代として幕府に出仕するようになり強大な力を持つように。

2-3、長慶、晴元と対立、太平寺の戦いで木沢長政を破る

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投稿者が撮影 – ブレイズマン (talk) 09:17, 9 November 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

長慶は、天文10年(1541年)9月頃、利長から範長に改名したが、6月には主君晴元を無視して、自身の影響下の摂津国下郡(豊島郡、川辺郡南部、武庫郡、菟原郡、八部郡)などから独自に段銭徴収を行うようになり、晴元と対立。これは下郡の国人や百姓に長慶の影響力が広まっていたということだそうで、長慶は摂津国人の上田某を攻めて城を奪ったり、富松城(現尼崎市)を攻め落としたそう。

また、細川晴元に反逆した木沢長政が上洛して将軍義晴と晴元を追ったなどで、河内守護代の遊佐長教が長政側の河内守護の畠山政国を追放して兄の畠山稙長を迎えたうえで長慶側に味方したため、翌年天文11年(1542年)3月、木沢長政は、畠山稙長の河内高屋城を攻撃、太平寺の戦いとなり、政長と長慶の援軍の加勢で敗れた長政は討死。

その後も反乱は収まらず、天文12年(1543年)、細川高国の養子の氏綱が、細川晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵し、天文14年(1545年)には山城国で高国派の細川元治の親子3代と丹波国の内藤国貞らが挙兵したが、長慶、政長らが鎮圧。

翌年の天文15年(1546年)8月には細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再び挙兵して、摂津国をほとんど占領されたが、長慶の弟三好実休ら四国の軍勢が到着して形勢逆転となり、細川氏綱を支持した将軍足利義晴は近江に逃れ、将軍職を嫡子義輝に譲ることに。また氏綱と畠山政国、遊佐長教らが手を結び細川国慶も再挙兵して京都へ入り、晴元は丹波国へ逃亡。

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