室町時代戦国時代日本史歴史

室町幕府最後の将軍「足利義昭」をわかりやすく歴女が解説

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

へええ、実体がなくても将軍が生きていれば、そこが室町幕府ってことなのか

4-2、本能寺の変の黒幕説

義昭は、打倒信長を目指していたので、本能寺の変の黒幕だったのではと疑われることがあります。

が、6月9日に明智光秀が細川藤孝、忠興父子に宛てた覚書には、光秀と藤孝にとって旧主の義昭の存在が全く見えないので、義昭が光秀の謀反に関わっていたとすれば不自然だということ。

また義昭のもとに、信長を自害させたという密書が届けられた形跡がなく光秀とのつながりを示す材料もなし、そして義昭を支援していた毛利家が備中高松城水攻めの講和の後、中国大返しの秀吉を追走しなかった行動も筋が通らないということで、義昭黒幕説は否定されているそう。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

本能寺の変の陰謀説は色々あるが、これはないみたいだな。

4-3、義昭、京都へ帰還して秀吉に仕える

天正15年(1587年)、秀吉は九州平定に向かう途中に、義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れて義昭と対面し、太刀の交換をしたそう。そして秀吉の九州平定後の10月に義昭は京都に帰還。天正16年(1588年)1月13日に秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのちに出家して、昌山(道休)と号し、朝廷から准三后の称号を受けて秀吉に1万石をもらい、格式は大大名級で御伽衆として伺候することに。

尚、秀吉が征夷大将軍になりたいために義昭の養子になろうとしたが断られたという話がありますが、これは江戸時代に徳川家のお抱え儒学者だった林羅山が広めたもので、家康と徳川家アゲのための作り話だということ。

義昭は、文禄、慶長の役には、秀吉の要請により由緒ある奉公衆などの名家の軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣したが、慶長2年(1597年)8月、大坂にて61歳で死去。

高僧として人生を送るはずが、思いがけずに室町幕府最後の将軍になった

足利義昭は、12代将軍の次男に生まれ、お家騒動にならないように5歳でお寺に入って門跡となる運命だったのですが、13代将軍の兄義輝が暗殺されたことで、29歳にして還俗して将軍となった人。

勢力の衰えた室町幕府のため、将軍になるために側近に助け出されるわ、尽力してくれる大名を訪ねて放浪するわで「貧乏公方」と呼ばれ、最初から大変な滑り出しでしたが、織田信長という強い味方があらわれて無事京都へ帰って将軍に就任したものの、信長のお飾りとしておとなしく言うままになることが出来ず、次第に仲が険悪になり、あちこちの大名に信長に対抗するように支援要請、一時は信長絶体絶命の信長包囲網を作ったりとなかなかの外交手腕を発揮しました。しかし武田信玄の死などもあって、信長包囲網は解除となったのに、義昭は信長に反旗を翻し、頭にきた信長に追放されてしまったのですね。

ここで実質的には室町幕府は終了したはずが、義昭はその後も備後へ行って毛利氏の援助で暮らしつつ、盛んに大名たちに手紙を送って京都復帰の尽力、調停もやっていたそう。そして晩年は京都へ帰り、将軍を辞任し関白となった秀吉の話し相手として伺候したということで、親政を行おうとして暗殺されてしまった兄義輝と較べると、あの信長に対抗したのに、天寿を全う出来たことを良しとしないといけないかも。

1 2 3
Share: