室町時代戦国時代日本史歴史

室町幕府最後の将軍「足利義昭」をわかりやすく歴女が解説

3-1、義昭、信長と長政の警護で上洛、15代将軍に就任

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Published by Meguro Shoten (目黒書店) – The Japanese book “Kokushi Shōzō Shūsei (国史肖像集成 将軍篇)”, パブリック・ドメイン, リンクによる

永禄11年(1568年)4月、義昭は京都から前関白の二条晴良を越前に招いて元服式を行い、義昭と改名。そして当時は朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介で三管領斯波氏の有力家臣の織田信長を頼って尾張国へ移り、9月には北近江の浅井氏などの支持もあって、織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛が実現

三好三人衆の勢力は京都から後退、病気を患っていた14代将軍義栄も死去したため、義昭は10月に朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任し、従四位下、参議左近衛権中将にも昇叙、任官。

3-2、義昭、室町幕府を再興

将軍に就任した義昭は、兄の義輝暗殺、また足利義栄の将軍就任に便宜をはかったとして近衛前久を追放、二条晴良を関白職に復職させました。

また、幕府の管領家の細川昭元、畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実に偏諱を与え、領地を安堵したりと政権安定につとめて、兄義輝の山城国の御料所(室町幕府の直轄領)も掌握、山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置したなど、今まで義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能が再興

3-3、本圀寺の変勃発

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義昭は、本圀寺(現京都市山科区)を仮御所としていましたが、永禄12年(1569年)1月、信長の兵が明智光秀らに義昭の警護を任せて領国の美濃、尾張に帰還した後、三好三人衆が巻き返し、信長に敗れて流浪中だった美濃の斎藤龍興も加わって本圀寺が襲撃、しかし奉公衆および北近江の浅井長政、摂津国の和田惟政らの奮戦で撃退したということ。

信長は岐阜で本國寺が襲撃の報告を受け、大雪のなか本来3日の行程を2日で走破して10騎足らずの供を連れて本國寺に到着。このとき信長配下には凍死者が出たほどの急行軍だったが、信長は、池田衆らに功賞を与え、御所の防衛を堅固にするために将軍御所の造営を開始することに。

3-4、義昭、烏丸中御門第を整備

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mariemon – mariemon, CC 表示 3.0, リンクによる

義昭は信長に命じて兄義輝が本拠を置いていた烏丸中御門第(旧二条城)を整備。この烏丸中御門第は、二重の水堀で囲われ高い石垣を新たに構築された、防御機能が充実した洛中の平城ともいえる、大規模な城郭風だったということです。

3-5、義昭、織田信長との関係が悪化

義昭は信長の武功に報いるために、3歳年上の信長に「室町殿御父」の称号を与え、信長が上洛の恩賞として尾張、美濃領有の公認、旧三好領の堺、和泉一国の支配を望んだので、和泉国守護に任命。義昭はさらに信長に対して、管領代または管領の地位、朝廷へ副将軍への推挙を申し入れたが、信長は、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受け、その他の武将にも論功行賞が行われたということ。

しかし将軍となった義昭と、武力による天下統一を狙う信長の関係は徐々に悪化。永禄12年(1569年)8月に信長は伊勢国の北畠氏を攻めたが、北畠氏の抵抗でなかなか城を陥落できず、信長は義昭に仲介を要請、10月に和睦が成立したが、その後、信長が次男信雄を北畠氏の養子に押し付けたなど、義昭の意向に反する措置を取ったため、一層関係悪化につながったそう。

3-6、信長、殿中御掟を義昭に承認させる

信長は義昭の将軍権力を制約しようとして、永禄12年(1569年)1月、殿中御掟という9箇条の掟書を義昭に承認させ、永禄13年(1570年)1月には5箇条が追加されたということ。

この殿中御掟は、最近になって、信長は単純に将軍権力を制約したかったのではなく、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例からの出典のため、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したとする説も。しかし義昭がこの殿中御掟を遵守しなかったために、信長と義昭の関係は対立に向かったということ。

3-7、義昭、信長包囲網を画策

元亀元年(1570年)4月、信長は徳川家康とともに姉川の戦いで浅井、朝倉連合軍に勝利。 信長は義昭と共に三好三人衆らを討伐に向かう途中で石山本願寺、浅井氏、朝倉氏が挙兵したために近江へ引き返したが、浅井、朝倉氏は比叡山延暦寺に立てこもり、さらに伊勢では一向一揆が蜂起となったため、12月には信長は、義昭に和睦の調停を依頼し、義昭は、関白二条晴良に調停の実務を要請したということです。

義昭は信長に不満を持ち、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、本願寺顕如、甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下したのですが、これが信長包囲網と呼ばれるように。この包囲網には他にも信長と対立していた朝倉義景、浅井長政、延暦寺、義昭の兄義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっていたが、まだこのときは義昭と信長は全面的に対立したわけではなかったそう。

3-8、信長の義昭批判の意見書で、完全対立に

元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に、義昭を批判した17条の意見書を送付、また世間一般にもこの意見書を流布させたために、信長と義昭の敵対関係が明確になり、義昭は挙兵。そして武田信玄が西上作戦を開始し、12月には三方ヶ原の戦いで信長の同盟者の徳川家康の軍勢を撃破するなどで信長は窮地に陥ったが、その後、朝倉義景が越前に撤退。

元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は一蹴。そして近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れて反信長の旗を揚げたが、攻撃を受けると数日で陥落。その頃信玄の病状が悪化したために武田軍は4月に甲斐の国へ撤退し、信玄は死去。

3-9、義昭、信長に京都を追放され、室町幕府滅亡

信長は上洛して知恩院に陣取りましたが、義昭に付き従っていた幕臣の細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限って、信長側に付いたということ。しかし信玄の死が伝わっていなかったらしい義昭は烏丸中御門第にこもり、さらに抵抗。信長は再度和睦を要請したが、義昭は拒否、信長は幕臣や義昭の支持者の屋敷のある上京全域を焼き討ちにして烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけたり朝廷に工作した結果、4月に勅命による講和が成立しました。

しかし7月、義昭は講和を破棄、烏丸中御門第を三淵藤英らに預けて自分は南山城の槇島城に移って再挙兵しました。が、烏丸中御門第の三淵藤英も10日に降伏、槇島城も7万の織田軍に包囲され、攻撃でほとんど破壊されたために降伏。

3-10、信長、天下人としての地位を確立

信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の御料所を自領として天正への改元を行いました。そして8月には朝倉氏、9月に浅井氏を滅ぼして信長包囲網は瓦解。

信長は、これまで室町幕府が行ってきた業務を京都所司代として家臣の村井貞勝に行わせ、天正2年(1574年)には家臣の塙直政を山城、大和の守護に任じて畿内を支配し、それまでの義昭を擁した間接的なものと違い、天下人としての地位を確立したのですね。

室町幕府滅亡はいつか
室町幕府は実質的には、元亀4年(1573年)7月に織田信長が15代将軍義昭を京都から追放した時点に滅亡したというのが一般的ですが、義昭はその後も将軍を解任されたわけではなく、信長の勢力圏外では依然として将軍としての権威を保持していたのです。

京都を追放されたとはいえ、義昭は天正16年(1588年)1月に関白豊臣秀吉に従って参内して、忠誠を誓うまで征夷大将軍であったと正式に記録されているということで、天正16年(1588年)1月で室町幕府終了という見方もできるそう。

4-1、京都追放後の義昭

京都を追放された後、義昭は河内や和泉の堺、紀伊国などを転々としつつ、天正3年(1575年)に、信長包囲網を再度形成しようと、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信に対して和睦をするよう呼びかけたが、北条、上杉間の不和により甲相越三和は実現しなかったということ。

そして天正4年(1576年)、義昭は中国地方の雄、毛利輝元を頼り、その勢力下の備後国の鞆(とも)に移り、以降の義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれました。織田信長の支配下の近畿や東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かったため、義昭はここから京都への帰還と信長追討を目指して、全国の大名に御内書を下したそう。また、毛利氏が上洛に踏み切らないために、北九州の大友宗麟による毛利氏への侵攻を防ぐとして、義昭が島津氏や龍造寺氏に大友氏討伐を命じる御内書を下したことが、島津義久は大友領侵攻の大義名分として北上し、大友宗麟との耳川の戦いの一因となった説も。

そして天正10年(1582年)6月、本能寺の変後も、義昭は毛利輝元や、羽柴秀吉、柴田勝家などにも幕府再興のために上洛の働きかけを行っていたということです。

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