その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、足利義昭は朽木谷の生まれ
- 1-2、義昭の子供時代
- 2-1、永禄の変で兄義輝が暗殺され、足利将軍家当主に
- 2-2、義昭、上洛の機会をうかがう
- 2-3、義昭、朝倉氏のもとへ
- 2-4、従弟の義栄が14代将軍に就任
- 3-1、義昭、信長と長政の警護で上洛、15代将軍に就任
- 3-2、義昭、室町幕府を再興
- 3-3、本圀寺の変勃発
- 3-4、義昭、烏丸中御門第を整備
- 3-5、義昭、織田信長との関係が悪化
- 3-6、信長、殿中御掟を義昭に承認させる
- 3-7、義昭、信長包囲網を画策
- 3-8、信長の義昭批判の意見書で、完全対立に
- 3-9、義昭、信長に京都を追放され、室町幕府滅亡
- 3-10、信長、天下人としての地位を確立
- 4-1、京都追放後の義昭
- 4-2、本能寺の変の黒幕説
- 4-3、義昭、京都へ帰還して秀吉に仕える
- 高僧として人生を送るはずが、思いがけずに室町幕府最後の将軍になった
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、足利義昭について5分でわかるようにまとめた。
1-1、足利義昭は朽木谷の生まれ
足利義昭(あしかがよしあき)は天文6年(1537年)11月に近江の朽木谷(現滋賀県高島市)で誕生。父は室町幕府第12代将軍足利義晴で、母は正室の近衛尚通の娘慶寿院です。義昭は次男で、一つ上の同母兄は13代将軍の義輝で弟がひとり、姉妹が4人。
幼名は千歳丸、法名は覚慶、還俗して義秋、のちに義昭と改名、号は昌山道休。
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1-2、義昭の子供時代
当時の室町幕府の中央政権の中心だった管領の細川晴元が敵対勢力と対立抗争が絶えず、義昭の父義晴はその影響で京都を逃れて近江に避難したり、また京都へ戻ったりという生活で、義昭も避難中に生まれたよう。
天文11年(1542年)11月に5歳の義昭は、跡目争い防止、そして寺社との結びつきを強めるため跡継ぎ以外の息子を出家させるという足利将軍家の慣習で、外祖父近衛尚通の猶子として奈良の興福寺の一乗院門跡として入室、法名を覚慶(かくけい)に。義昭はのちに興福寺で権少僧都にまで栄進、このまま僧として一生を終えるはずだったのですね。
2-1、永禄の変で兄義輝が暗殺され、足利将軍家当主に
永禄8年(1565年)5月、義昭が29歳の時、永禄の変が勃発して第13代将軍の兄義輝、母慶寿院が謀殺され、その後、義昭の弟で鹿苑院院主であった周暠(しゅうこう)も松永久通や三好三人衆らによって暗殺。
義昭も久通らによって捕縛されて興福寺に幽閉のうえ監視されたが、義輝の側近だった和田惟政、仁木義政、一色藤長、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝、大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子で叔父)らに助けられて7月28日に脱出。そして奈良、伊賀国を経て近江国の六角義賢の許可を得、甲賀郡の和田城(和田惟政の居城)で足利将軍家の当主になる事を宣言。11月、和田惟政と仁木義政の斡旋により六角義賢、義治親子の許可を得て、野洲郡矢島村(現守山市矢島町)を在所として矢島御所と称したということです。
永禄9年(1566年)2月に義昭は矢島御所において還俗して足利義秋と名乗り、4月には次期将軍として従五位下左馬頭に叙位、任官。
2-2、義昭、上洛の機会をうかがう
矢島御所での義昭は、三管領家の一つの河内国の畠山高政、関東管領の上杉輝虎、能登国守護の畠山義綱(近江滋賀郡に在国)らと親密に連絡をとって上洛の機会を窺うことに。義昭らの構想としては、敵対関係にあった六角氏、浅井氏、斎藤氏、織田氏、武田氏、上杉氏、後北条氏らを和解させて協力一致して上洛を目指すものであったよう。そして和田惟政と細川藤孝の説得で、信長と斎藤龍興は和解したために、信長が美濃から六角氏の勢力圏の北伊勢、南近江経由で上洛することに。この義昭の行動で、三好三人衆のひとりの三好長逸(ながやす)の軍勢が矢島御所を襲撃したが、大草氏などの奉公衆の奮戦で撃退。
しかし、永禄9年(1566年)8月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃で尾張国に撤退、さらに六角義賢、義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報で、義昭は妹婿の武田義統を頼って若狭国へ移ったが、義統は息子との家督抗争や重臣の謀反などで国内が安定していなかったので、上洛できず。
2-3、義昭、朝倉氏のもとへ
立花左近 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
義昭は、永禄9年(1566年)9月、若狭から越前国の朝倉義景のもとへ移って上洛への助力を要請。朝倉義景は細川藤孝らによる義昭の奈良脱出の黒幕説もあるが、客将として足利将軍家連枝の「鞍谷御所」と呼ばれた足利嗣知(足利義嗣の子孫)がいたために、義昭を奉じての積極的な上洛をする意思を表さないので長期滞在に。
義昭は、朝倉氏よりも上杉輝虎(謙信)を頼りにしていたが、武田信玄との対立で上洛は不可能だったということ。
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2-4、従弟の義栄が14代将軍に就任
一方、三好三人衆が擁する義昭の父の弟の息子である義栄は、義昭に半年遅れて永禄9年(1566年)12月に従五位下左馬頭への任官許可が出されて、永禄10年(1567年)1月に正式に叙任。11月に、朝廷に対して将軍宣下を申請したが、朝廷の要求した献金に応じられず拒絶され、その後の交渉で永禄11年(1568年)2月に朝廷から将軍宣下があり、義栄は摂津の国に滞在したままで第14代将軍に就任。
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