ジェームズ・モンローはアメリカの第5代大統領。1823年に会議で宣言されたモンロー主義は、ヨーロッパ諸国とは異なるアメリカ大陸の独自性を表明するもの。相互不干渉という彼の原則は、意味こそ変わるものの、米国の外交政策の基本となった。

モンロー大統領が発信したことは、当時の国内・国際社会のなかでどのように評価されたのでしょうか。それじゃ、彼の人物像や宣言の項目などを、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「モンロー大統領」を避けて通ることはできない。世界の西半球の脱植民地化を宣言するモンロー主義。それを提供したモンローはアメリカ独立戦争に従軍した最後の大統領でもあった。そんな彼の政治活動の時代背景を、関連する写真と共にまとめてみた。

ジェームズ・モンロー大統領とは

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By Nyttend - Own work, Public Domain, Link

ジェームズ・モンローとは第5代アメリカ合衆国大統領。1817年から1825年にかけての2期、大統領職を務めました。世界史の教科書に登場する「モンロー主義」の提唱者としても知られています。

バージニア植民地にて生まれたジェームズ・モンロー

1758年にバージニア州のウェストモアランド郡に生まれたジェームズ・モンロー。父親であるスペンス・モンローは中流階級程度の農園主。母であるエリザベス・ジョーンズを結婚して5人の子供をもうけました。

父親の曽祖父はスコットランドからアメリカにやってきた移民。スコットランド高地の一族の長の子孫であると言われています。ウェストモアランドに広大な土地を得て、モンロー家の基盤が作られました。

愛国心あふれる少年時代を過ごす

モンロー少年は16歳になるまでアーチボルド・キャンベル牧師が運営するアカデミーで勉強に没頭。勉強がよくできたモンローはウィリアム・アンド・メアリー大学に入学を果たします。

大学ではイギリス支配に対する反発が高揚。モンローを含めた25人の学生たちは、総督宮殿の武器庫を襲撃して銃や剣を強奪します。次の年、モンローは大学を中退して大陸軍にはいりました。

アメリカ独立戦争に従軍したモンロー大統領

The Capture of the Hessians at Trenton December 26 1776.jpeg
By John Trumbull - Yale University Art Gallery, Public Domain, Link

大陸軍の一員となったジェームズ・モンロー。とくにニュージャージー州におけるトレントンの戦いで活躍しました。ジョン・トランブルの絵画「トレントンの戦い」には負傷して横たわるモンローが描かれています。独立戦争の中心人物としてその名を歴史に残しました。

アメリカ独立戦争とは

アメリカ独立戦争とは、1775年4月19日から1783年9月3日までのあいだに、イギリス本国とアメリカ13植民地のあいだで行われた一連の戦いのこと。この戦争に勝ったことでアメリカは政治的に独立しました。

最初は訓練を受けていない民兵を組織して戦っていました。そこで兵力を高めるために大陸会議は正規の軍隊を設立。ジョージ・ワシントンが総司令官になります。そこで採用された兵士のひとりがモンロー青年でした。

独立にかかわった最後の大統領ジェームズ・モンロー

アメリカ合衆国が成立したあとの大統領は、ジョージ・ワシントン、ジョン・アダムズ、トーマス・ジェファーソン、ジェームズ・マディソンと、13植民地を代表する人物が続きました。

ジェームズ・モンローは独立戦争に直接かかわった最後の大統領。彼のあとに大統領になったジョン・クインシー・アダムズ以降は、アメリカの独立運動を伝え聞く世代となりました。

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ルイジアナ買収に貢献したジェームズ・モンロー

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By Bureau of Engraving and Printing - U.S. Post Office Hi-res scan of postage stamp by Gwillhickers., Public Domain, Link

1790年に上院議員に選出されたモンローは政治活動をはじめます。政治家として頭角をあらわし、次の年には党の指導者のひとりとなりました。上院議員を辞めたあといくつかの職を転々としていたモンローに舞い込んだのがルイジアナ買収という大役です。

買収をサポートするためにフランスに行く

ルイジアナ買収はジェームズ・モンローの名前が知られるようになったきっかけのひとつ。フランスと交渉していたのがニューヨーク州の政治家であったロバート・リビングストンでした。在フランスアメリカ合衆国全権公使を務めていたことらその理由です。

しかしリビングストンは交渉に難航。そこで助っ人として白羽の矢があたったのがモンローです。上院議員を辞めたあと、彼自身もリビングストンと同じ役職についていました。そこで、ジェファーソン政権により買収交渉のサポートを命じられたのです。

広大な領地獲得に成功したモンロー

当時のルイジアナはフランス領。ミシシッピ川流域の15の州をまたがる広大なエリアでした。フランスの統治していたのがナポレオン・ボナパルト。彼はヨーロッパで立て続けに起こる戦争の費用をまかなう必要がありました。

そこでナポレオンはルイジアナの売却を了承。アメリカとフランスの関係性を強固にすることも狙ったようです。交渉のすえ1500万ドルでルイジアナを買収することに成功。その結果、合衆国の領土は一気に2倍となりました。

1816年に第5代大統領となったジェームズ・モンロー

image by PIXTA / 37355460

ジェームズ・モンローは民主共和党の候補者として大統領選に立候補。対立する連邦党の支持率が低下していたこともあり、簡単に大統領に当選します。

巧みな交渉術で「好感情の時代」をつくる

モンロー大統領は政党のあいだの緊張関係を緩和することを重視。低い役職については、対立する政治家も積極的に登用して政治的なバランスを意識しました。

このような政策によりモンロー大統領の在籍中は政党のあいだの対立はほとんどなし。政党のあいだに主だった争点がないモンロー政権の時期は「好感情の時代」と呼ばれました。

1819年恐慌を乗り切ったモンロー大統領

モンロー大統領の時代に起こった危機のひとつが1819年恐慌。アメリカ合衆国が誕生してから初めて起こった金融危機です。清国がアヘン取引を中止したことが引き金となりました。

1819年恐慌をきっかけにヨーロッパの植民地政策に依存する体制から自由主義経済にシフト。それが、ヨーロッパ諸国とアメリカの相互不干渉を主張するモンロー主義の土壌となりました。

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1820年に再選を果たしたモンロー大統領

image by PIXTA / 64801010

1回目の大統領選挙で簡単に当選を果たしたモンロー大統領ですが、2回目の選挙もすんなり当選します。「好感情の時代」により政党の対立も少なく、ほとんど満場一致でした。

外交政策としてモンロー主義を発表

モンロー大統領の代名詞でもあるモンロー主義が表明されたのが2回目の任期中。ラテンアメリカでは、スペインやポルトガルの支配から独立する動きが加速していました。そこでモンロー大統領はラテンアメリカ諸国が政権をつくることを水面下でサポートします。

そしてアメリカ大陸はこれからヨーロッパの植民地になることはないと宣言。アメリカ大陸の独自性を打ち出す宣言は、のちのラテンアメリカ政策の基盤となる汎アメリカ主義をかたちづくりました。

アメリカとヨーロッパの相互不干渉を主張

モンロー主義のキーワードとなるのが相互不干渉。ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しないかわりに、アメリカ大陸に植民地を増やすことを望まないとしました。

ヨーロッパの支配を脱却することがモンロー宣言の狙いと言われがち。しかし本当の意図は、アラスカより南のエリアへの進出を図っていたロシアに対するけん制だったとも言われています。

先住民の排除を正当化するモンロー大統領

Seminole War in Everglades.jpg
By U.S. Marine Corps - National Archives and Records Administration, Public Domain, Link

モンロー大統領は在職中にアメリカ先住民の排除を徹底的に行いました。ルイジアナ買収でアメリカの領土が一気に拡大することで、先住民や背後でサポートするスペインとの衝突が激化します。

スペイン領フロリダが虐殺の舞台になる

とくに熾烈な争いが繰り広げられたのがフロリダ。スペインの支援を受けていたセミノール族を大量虐殺します。セミノール族はオクラホマの居住区などに強制移住させられました。

このとき問題となったのは先住民よりもむしろスペイン。当時のフロリダはスペイン領だったため、不法侵入が問題視されます。しかし国内ではモンロー大統領の政策は支持されました。

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インディアン移住法の原案を作ったモンロー大統領

アメリカではインディアン移住法を制定し、先住民から土地を奪って不毛な場所に移住させる政策が推進されます。その原案が作られたのがモンロー大統領の在職中でした。

もともとモンロー大統領は先住民を農民として同化させる方針でしたが、それが議会で拒否されたため、強制移住に転換。先住民から奪った豊かな土地は白人のプランテーションとなりました。

モンロー大統領の黒人奴隷に対する態度

Slave dance to banjo, 1780s.jpg
By Anonymous - http://www.history.org/history/teaching/enewsletter/volume3/images/OldPlantLg.jpg, Public Domain, Link

アメリカ先住民に対しては厳しい態度を一貫してとり続けたモンロー大統領。しかしながら黒人奴隷については比較的公平な態度をとっていました。

奴隷制度を反対したジェームズ・モンローの真意

モンロー大統領の時代、黒人奴隷が労働の搾取に異議を申し立て、暴動を起こすことが少なくありませんでした。モンロー自身もバージニア州の知事だったときに誘拐を計画されてことがあるほどです。

そのようなときモンロー大統領は公平を期するように配慮。白人の世論とは逆行する態度でした。奴隷制度についても廃止の立場。ただ同時にアフリカの植民地化も支持していました。

黒人奴隷のリベリア移住を支持したモンロー大統領

奴隷制度の廃止とアフリカの植民地化を支持するモンロー大統領は、個人的に黒人奴隷のリベリア移住が最善であると考えていました。そこでアフリカ黒人のリベリア移住をサポートするアメリカ植民協会を支持します。

3人の白人と88人の黒人移民を乗せたエリザベス号がリベリアに向かいますが現地の部族と衝突。移住は失敗に終わります。次のノーチラス号は、モンロー大統領の手厚いサポートにより、開発地の獲得に至りました。

モンロー大統領の時代はアメリカの政治の転換時

モンロー大統領の時代は、ヨーロッパの植民地政策と合衆国のアメリカ大陸の支配のちょうど狭間にありました。アメリカは、ほかの国に干渉されることなく大陸内で勢力を拡大するために「モンロー宣言」を発表。それから、周辺の領土の割譲、先住民の排斥、黒人奴隷の移住など、アメリカ独自の政策を強行していきます。ヨーロッパ諸国の利害にかかわる政策も多く、それゆえに干渉されたくなかったのでしょう。ジェームズ・モンロー自身は、歴代大統領のなかでは地味な存在。しかし彼が提唱した相互不干渉は、かたちを変えながらも合衆国の外交の方針として、長らく生き続けることになります。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

相互不干渉を提唱した「モンロー大統領」の生涯や政治活動を元大学教員がわかりやすく解説

ジェームズ・モンローはアメリカの第5代大統領。1823年に会議で宣言されたモンロー主義は、ヨーロッパ諸国とは異なるアメリカ大陸の独自性を表明するもの。相互不干渉という彼の原則は、意味こそ変わるものの、米国の外交政策の基本となった。

モンロー大統領が発信したことは、当時の国内・国際社会のなかでどのように評価されたのでしょうか。それじゃ、彼の人物像や宣言の項目などを、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「モンロー大統領」を避けて通ることはできない。世界の西半球の脱植民地化を宣言するモンロー主義。それを提供したモンローはアメリカ独立戦争に従軍した最後の大統領でもあった。そんな彼の政治活動の時代背景を、関連する写真と共にまとめてみた。

ジェームズ・モンロー大統領とは

Birthplace of Monroe historical marker.jpg
By NyttendOwn work, Public Domain, Link

ジェームズ・モンローとは第5代アメリカ合衆国大統領。1817年から1825年にかけての2期、大統領職を務めました。世界史の教科書に登場する「モンロー主義」の提唱者としても知られています。

バージニア植民地にて生まれたジェームズ・モンロー

1758年にバージニア州のウェストモアランド郡に生まれたジェームズ・モンロー。父親であるスペンス・モンローは中流階級程度の農園主。母であるエリザベス・ジョーンズを結婚して5人の子供をもうけました。

父親の曽祖父はスコットランドからアメリカにやってきた移民。スコットランド高地の一族の長の子孫であると言われています。ウェストモアランドに広大な土地を得て、モンロー家の基盤が作られました。

愛国心あふれる少年時代を過ごす

モンロー少年は16歳になるまでアーチボルド・キャンベル牧師が運営するアカデミーで勉強に没頭。勉強がよくできたモンローはウィリアム・アンド・メアリー大学に入学を果たします。

大学ではイギリス支配に対する反発が高揚。モンローを含めた25人の学生たちは、総督宮殿の武器庫を襲撃して銃や剣を強奪します。次の年、モンローは大学を中退して大陸軍にはいりました。

アメリカ独立戦争に従軍したモンロー大統領

大陸軍の一員となったジェームズ・モンロー。とくにニュージャージー州におけるトレントンの戦いで活躍しました。ジョン・トランブルの絵画「トレントンの戦い」には負傷して横たわるモンローが描かれています。独立戦争の中心人物としてその名を歴史に残しました。

アメリカ独立戦争とは

アメリカ独立戦争とは、1775年4月19日から1783年9月3日までのあいだに、イギリス本国とアメリカ13植民地のあいだで行われた一連の戦いのこと。この戦争に勝ったことでアメリカは政治的に独立しました。

最初は訓練を受けていない民兵を組織して戦っていました。そこで兵力を高めるために大陸会議は正規の軍隊を設立。ジョージ・ワシントンが総司令官になります。そこで採用された兵士のひとりがモンロー青年でした。

独立にかかわった最後の大統領ジェームズ・モンロー

アメリカ合衆国が成立したあとの大統領は、ジョージ・ワシントン、ジョン・アダムズ、トーマス・ジェファーソン、ジェームズ・マディソンと、13植民地を代表する人物が続きました。

ジェームズ・モンローは独立戦争に直接かかわった最後の大統領。彼のあとに大統領になったジョン・クインシー・アダムズ以降は、アメリカの独立運動を伝え聞く世代となりました。

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