室町時代戦国時代日本史歴史

剣豪のような最期を遂げた足利13代将軍「足利義輝」をわかりやすく歴女が解説

2-3、義輝、三好長慶との戦いが長期戦化

三好長慶側では、義輝との和睦を巡って伊勢貞孝と奉公衆の進士賢光が長慶と対立し、義輝方についたため、義輝は好機到来と翌年の天文20年(1551年)長慶暗殺を試みたが、失敗。また同年5月に、親長慶派で、長慶の岳父でもある遊佐長教(ゆさながのり)が暗殺されるという事件が起こり、首謀者は義輝と言われているということ。

そして遊佐の暗殺から2ヶ月後、義輝の幕府軍が権力奪還を目指して入京したが、三好長慶の家臣の松永久秀が4万の軍勢で幕府軍を迎え撃ち、幕府軍は敗退(相国寺の戦い)。この後、義輝は一時的に長慶と和睦したが、幕府内の権力闘争などが影響して和睦を破棄するなど政情不安が続き、天文22年(1553年)閏1月、上野信孝などの義輝の側近の奉公衆らが、長慶排除のために細川晴元と通じて、2月には親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を行い、大舘晴光、朽木稙綱も同調。

そして3月、義輝は長慶との和約を破棄、東山の麓に築いた霊山城に入城しました。義輝は晴元と長慶が芥川山城を包囲しているところに連合し、入京しようとしたが、7月に長慶が芥川山城に抑えの兵を残して上洛、8月に幕府軍が籠城する霊山城は陥落させられたそう。

2-4、義輝、朽木谷へのがれる

天文22年(1553年)8月、義輝は伯父の前関白近衛稙家らと朽木元綱(稙綱の孫)を頼って近江朽木谷に逃亡。長慶は将軍に随伴する者に対して知行没収を通達したので、多くが義輝らを見捨てて帰京。

そういうわけで、伊勢貞助や結城忠正という、奉公衆(幕府の御家人)なのに三好氏の家臣に準じた立場となる者も現れるようになったということです。天文23年(1554年)2月12日、義藤は朽木谷に滞在中、従三位に昇叙し、義輝と改名。

2-5、義輝、朽木谷で挙兵

弘治4年(1558年)2月に、朝廷は正親町天皇の即位で年号を永禄に改元したが、京から離れた朽木谷にいた義輝は改元を知らされていなかったと朝廷に抗議したということです。改元は朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきたが、今回の改元について朝廷は将軍の義輝に相談せずに、三好長慶に相談して改元を実施したという事態になっていたんですね。

永禄元年(1558年)3月、義輝は三好政権打倒のために、朽木谷で挙兵。5月に六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移動し、翌月には幕府軍が如意ヶ嶽に布陣、三好長逸らの軍と北白川で交戦を行ったそう。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢となったものの、長慶の弟三好実休も加勢し、六角義賢が支援を打ち切ったために苦戦したということです。

3-1、義輝、5年ぶりに京へ

永禄元年(1558年)11月、義輝は六角義賢の仲介で長慶との間に和議が成立し事態が収束したために、5年ぶりに京都に戻り、御所での直接的な幕府政治を再開、12月末には、伯父の近衛稙家の娘を正室に迎えました。

長慶は幕府の御相伴衆に加えられたうえに修理大夫への任官を推挙され、義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることに。

しかし長慶は、義輝の権威に自らが取り込まれることや、長年対立してきたために義輝の和解が困難だということで、永禄2年(1559年)12月、嫡男孫次郎が義輝から偏諱をもらって義長(後に義興)と名乗り、翌年1月には義長が三好氏代々の官途の筑前守に任ぜられたのを機会に、長慶は三好氏の家督と本拠地の摂津国芥川山城を義長に譲り、河内国飯盛山城に移りました。こういうことで長慶は義輝との一定の距離を置き、息子の義長(義興)と義輝が、新たな関係を結んで関係の安定化をねらったといわれています。

3-2、義輝、将軍親政を行い、戦国大名を調停

22歳の義輝は将軍御所に入って将軍親政を行い、将軍の権威の復活に積極的に取り組んだということです。

義輝はその一環として、毛利元就と尼子晴久。伊達晴宗と稙宗、松平元康(徳川家康)と今川氏真、北条氏政と武田晴信(信玄)など、戦国大名の調停を盛んに行うようになり、戦国大名たちへの懐柔策として、大友義鎮を筑前、豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じて、三好長慶、義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許可。そして義輝の名の偏諱を家臣や全国の諸大名に与えました。初名の義藤の藤を、細川藤孝、筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏、藤政などに、輝の字は、毛利輝元、伊達輝宗、上杉輝虎(謙信)、足利一門の足利輝氏など、足利将軍家が代々使う義を、武田義信、朝倉義景、島津義久にと、与えまくったのですね。

また永禄2年(1559年)には、美濃の斎藤義龍、尾張の織田信長、越後の長尾景虎(上杉謙信)など、上洛してきた戦国大名にも謁見し、永禄4年(1561年)には、信玄に駆逐されて上方へ亡命していた前信濃守護の小笠原長時の帰国支援を命じ、長尾景虎(上杉謙信)への関東管領就任の許可も与え、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、武田信虎、三好長慶、三好義興らを御相伴衆に任じたということです。

相伴衆とは
相伴衆(しょうばんしゅう)は、室町将軍が殿中での饗宴や他家を訪問する際に陪席することを許された役職であり、室町幕府が定めた身分で高い家柄の者に限られ、三管領に次ぎ、御供衆の上に位置していた管領家、またはその一族や有力守護大名が任命されるのが習わしでした。が、戦国時代になると、戦国大名の中にも相伴衆に任命されるものが現れ始めたが、義輝はこれをさらに拡充。

これは管領が既に形骸化していたために、戦国大名らを懐柔する目的で幕府内での高い身分を与えたということだそうです。

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