今回は足利義輝を取り上げるぞ。剣豪将軍って言うけど剣の達人だったのか、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、足利義輝について5分でわかるようにまとめた。

1-1、足利義輝は京都の生まれ

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足利義輝(あしかがよしてる)は天文5年(1536年)3月、京都東山の南禅寺で誕生。父は室町幕府の第12代将軍足利義晴、母は正室で近衛尚通の娘。義輝は嫡男で、誕生直後に外祖父近衛尚通(ひさみち)の猶子となったということ。尚、将軍と御台所の間に生まれた男子は足利義尚以来で、摂関家出身の母から生まれた将軍家の男子は義輝が初めてだったそう。

きょうだいは弟が2人、妹が4人、幼名は菊幢丸(きくどうまる)元服後に諱を義藤、その後に義輝と改名。   

1-2、義輝の子供時代

応仁の乱後、室町幕府政権はしっかりしていない状態で、当時の中央政権は管領の細川晴元が掌握、しかし細川家と政権内部で常に不協和音が生じ、父の義晴もかつては晴元と対立関係にあったので度々軍事衝突を起こしたが、義輝が生まれた頃には和解していました。

しかし細川晴元政権は、木沢長政や細川氏綱などといった敵対勢力との対立が絶えず、晴元を支持していた義晴もその影響を受けて度々京都を逃れて近江坂本に避難していたので、幼い義輝も父に従って京都から近江へのがれたり、京都への復帰を繰り返す生活を余儀なくされたのです。尚、これまでの将軍家は嫡男を政所頭人である伊勢氏に預け、そこで育てられる慣例があったが、義輝は政情があまりに不安定なために両親の手元で育てられたそう。

2-1、義輝、11歳で元服し、13代将軍に

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天文15年(1546年)、義輝は、朝廷より義藤(よしふじ)の名を与えられ、将軍の嫡子が代々任じられてきた左馬頭にも任官。12月には、近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で元服式が行われ、六角定頼が烏帽子親となりました。

将軍の烏帽子親は管領が務める慣例だったので、父義晴は六角定頼を管領代に任じて烏帽子親にしたそう。これは細川晴元の管領としての権威を否定するものとか、晴元は管領に任じられていなかった説もあり、そのうえ遊佐長教が細川氏綱を烏帽子親にしろと要求して六角定頼に阻止され、晴元の舅の定頼を烏帽子親にしたとする見方もあるということで、当時の政治背景、対立が次期将軍義輝の元服式にも如実に表れているということです。

そして翌日、朝廷から勅使が到着して将軍宣下の儀式が行われ、義輝はわずか11歳で父から将軍職を譲られて正式に第13代将軍に就任。 これは父義晴も11歳で将軍に就任したこともあって珍しいことではなく、父がまだ健在のうちに嫡男に将軍職を譲って後見するという形式的なもの

同月末、義輝は父義晴とともに坂本を離れて京の慈照寺に戻り、翌年には父とともに内裏に参内して、後奈良天皇に拝謁。そして天文16年(1548年)7月、父義晴とともに晴元に京を追われたが、翌年には父義晴が晴元と和睦、再び京に帰還、晴元も義輝の将軍就任を承諾したということです。

2-2、父義晴が病死、三好長慶との戦いに

この頃、細川晴元の家臣の三好長慶は畿内に一大勢力を築いていたのですが、主君の晴元を裏切って細川氏綱陣営に鞍替えしたため、天文18年(1549年)6月、江口の戦いが勃発しました。そして長慶に敗れた晴元、晴元側の義晴と義輝父子は再び京都から近江坂本へ逃げて常在寺に滞留することに。

翌年天文19年(1550年)、父の義晴が穴太(あのう、現滋賀県大津市)で40歳で病死。義輝は、以後京都の実権を取り戻すため、晴元と共に長慶打倒で共闘することに。尚、義晴は対長慶作戦で、京に中尾城(現京都市左京区浄土寺)の築城を開始していたので、義輝は中尾城で長慶と一戦交えたが、援軍が集まらずに不利な戦局となり、結局は中尾城に火をかけて堅田(かたた、現滋賀県大津市)へ退却。

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2-3、義輝、三好長慶との戦いが長期戦化

三好長慶側では、義輝との和睦を巡って伊勢貞孝と奉公衆の進士賢光が長慶と対立し、義輝方についたため、義輝は好機到来と翌年の天文20年(1551年)長慶暗殺を試みたが、失敗。また同年5月に、親長慶派で、長慶の岳父でもある遊佐長教(ゆさながのり)が暗殺されるという事件が起こり、首謀者は義輝と言われているということ。

そして遊佐の暗殺から2ヶ月後、義輝の幕府軍が権力奪還を目指して入京したが、三好長慶の家臣の松永久秀が4万の軍勢で幕府軍を迎え撃ち、幕府軍は敗退(相国寺の戦い)。この後、義輝は一時的に長慶と和睦したが、幕府内の権力闘争などが影響して和睦を破棄するなど政情不安が続き、天文22年(1553年)閏1月、上野信孝などの義輝の側近の奉公衆らが、長慶排除のために細川晴元と通じて、2月には親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を行い、大舘晴光、朽木稙綱も同調。

そして3月、義輝は長慶との和約を破棄、東山の麓に築いた霊山城に入城しました。義輝は晴元と長慶が芥川山城を包囲しているところに連合し、入京しようとしたが、7月に長慶が芥川山城に抑えの兵を残して上洛、8月に幕府軍が籠城する霊山城は陥落させられたそう。

2-4、義輝、朽木谷へのがれる

天文22年(1553年)8月、義輝は伯父の前関白近衛稙家らと朽木元綱(稙綱の孫)を頼って近江朽木谷に逃亡。長慶は将軍に随伴する者に対して知行没収を通達したので、多くが義輝らを見捨てて帰京。

そういうわけで、伊勢貞助や結城忠正という、奉公衆(幕府の御家人)なのに三好氏の家臣に準じた立場となる者も現れるようになったということです。天文23年(1554年)2月12日、義藤は朽木谷に滞在中、従三位に昇叙し、義輝と改名。

2-5、義輝、朽木谷で挙兵

弘治4年(1558年)2月に、朝廷は正親町天皇の即位で年号を永禄に改元したが、京から離れた朽木谷にいた義輝は改元を知らされていなかったと朝廷に抗議したということです。改元は朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきたが、今回の改元について朝廷は将軍の義輝に相談せずに、三好長慶に相談して改元を実施したという事態になっていたんですね。

永禄元年(1558年)3月、義輝は三好政権打倒のために、朽木谷で挙兵。5月に六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移動し、翌月には幕府軍が如意ヶ嶽に布陣、三好長逸らの軍と北白川で交戦を行ったそう。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢となったものの、長慶の弟三好実休も加勢し、六角義賢が支援を打ち切ったために苦戦したということです。

3-1、義輝、5年ぶりに京へ

永禄元年(1558年)11月、義輝は六角義賢の仲介で長慶との間に和議が成立し事態が収束したために、5年ぶりに京都に戻り、御所での直接的な幕府政治を再開、12月末には、伯父の近衛稙家の娘を正室に迎えました。

長慶は幕府の御相伴衆に加えられたうえに修理大夫への任官を推挙され、義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることに。

しかし長慶は、義輝の権威に自らが取り込まれることや、長年対立してきたために義輝の和解が困難だということで、永禄2年(1559年)12月、嫡男孫次郎が義輝から偏諱をもらって義長(後に義興)と名乗り、翌年1月には義長が三好氏代々の官途の筑前守に任ぜられたのを機会に、長慶は三好氏の家督と本拠地の摂津国芥川山城を義長に譲り、河内国飯盛山城に移りました。こういうことで長慶は義輝との一定の距離を置き、息子の義長(義興)と義輝が、新たな関係を結んで関係の安定化をねらったといわれています。

3-2、義輝、将軍親政を行い、戦国大名を調停

22歳の義輝は将軍御所に入って将軍親政を行い、将軍の権威の復活に積極的に取り組んだということです。

義輝はその一環として、毛利元就と尼子晴久。伊達晴宗と稙宗、松平元康(徳川家康)と今川氏真、北条氏政と武田晴信(信玄)など、戦国大名の調停を盛んに行うようになり、戦国大名たちへの懐柔策として、大友義鎮を筑前、豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じて、三好長慶、義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許可。そして義輝の名の偏諱を家臣や全国の諸大名に与えました。初名の義藤の藤を、細川藤孝、筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏、藤政などに、輝の字は、毛利輝元、伊達輝宗、上杉輝虎(謙信)、足利一門の足利輝氏など、足利将軍家が代々使う義を、武田義信、朝倉義景、島津義久にと、与えまくったのですね。

また永禄2年(1559年)には、美濃の斎藤義龍、尾張の織田信長、越後の長尾景虎(上杉謙信)など、上洛してきた戦国大名にも謁見し、永禄4年(1561年)には、信玄に駆逐されて上方へ亡命していた前信濃守護の小笠原長時の帰国支援を命じ、長尾景虎(上杉謙信)への関東管領就任の許可も与え、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、武田信虎、三好長慶、三好義興らを御相伴衆に任じたということです。

相伴衆とは
相伴衆(しょうばんしゅう)は、室町将軍が殿中での饗宴や他家を訪問する際に陪席することを許された役職であり、室町幕府が定めた身分で高い家柄の者に限られ、三管領に次ぎ、御供衆の上に位置していた管領家、またはその一族や有力守護大名が任命されるのが習わしでした。が、戦国時代になると、戦国大名の中にも相伴衆に任命されるものが現れ始めたが、義輝はこれをさらに拡充。

これは管領が既に形骸化していたために、戦国大名らを懐柔する目的で幕府内での高い身分を与えたということだそうです。

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3-3、義輝、政所を掌握し、幕府権力復活を目指す

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投稿者がファイル作成 - ブレイズマン 06:13, 11 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

永禄5年(1562年)、権勢を誇る三好長慶に反発した畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、久米田の戦いが勃発。

この戦いで三好実休が戦死後、三好氏に衰退の兆しが見え始め、長慶と手を結んで幕政を独占していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目するように。そこで義輝は長慶を支持し、貞孝は幕府法を無視した裁決を行っていたということで更迭、摂津晴門を政所執事にしました。激怒した貞孝は反乱を起こし、長慶に討伐されたので、3代将軍の義満も介入できなかったという伊勢氏の政所支配の歴史は終了、義輝は将軍による政所掌握への道を開いたそう。

そして永禄7年(1564年)7月に長慶が病死したために、義輝は幕府権力の完全復活に向けて動き出すことに。

3-4、義輝、三好三人衆に急襲され、永禄の変

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mariemon - mariemon, CC 表示 3.0, リンクによる

義輝の権力掌握の動きは、傀儡政権としての将軍擁立が目的の松永久秀と三好三人衆にとって、意に反したものであったので、久秀の長男松永久通と三好三人衆は、10代将軍足利義稙の養子で義輝の叔父の足利義維(よしつな)と組み、義維の嫡男で義輝の従弟義栄(よしひで)を新将軍にと朝廷にかけあったが、朝廷は拒否。こういう状況で、義輝の強力な味方だった近江の六角氏は、永禄6年(1563年)の観音寺騒動があったために領国の近江から離れられず、義輝擁護が手薄になっていたということ。

そして永禄8年(1565年)5月19日、松永久通と三好三人衆は主君の三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目にした約1万の軍勢を率いて、義輝の二条御所に押し寄せて、将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入。

義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された、または寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかった、または槍で足を払われ、倒れたところを上から刺し殺された、または自害したともいわれています。享年30歳。

この時、義輝に従った多くの奉公衆、摂津晴門の嫡子らも討死。義輝の正室の近衛稙家の娘は実家の近衛家へ送り届けられて助かったが、義輝の生母慶寿院(近衛稙家の妹で12代将軍義晴の正室)は自害し、義輝が寵愛していた側室の小侍従局(進士晴舎しんじはるいえの娘)は、御所を脱出したが捕えられ四条河原で斬首されたということ。

また、三好氏に近い幕臣の伊勢貞助は、義輝を助けるどころか御所内の室町幕府歴代の重宝が入った唐櫃を密かに御所外に搬出し、変の直後には、義輝の家臣だったはずの奉公衆や奉行衆が三好長逸の所に挨拶に赴くなど、回復したかに思えた幕府の脆弱さが露見したそう。

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義輝の最期
義輝は、剣豪の塚原卜伝に兵術、剣術を学び、奥義である「一之太刀(ひとつのたち)」を伝授されたということで知られていて、その最期も将軍とは思えないような立ち回りを展開し、たった一人で奮戦したが力尽きたということが有名です。後世の柳生宗矩書状にも、塚原卜伝の直門として、義輝、北畠具教の名が記されているので、卜伝の直弟子であったことは確かであるが、義輝が免許皆伝したという記録はなく、「一之太刀」も、北畠具教や細川藤孝にも授けられたということなので、義輝剣豪説も疑問があるということなんですね。

「ルイス・フロイスの日本史」には、義輝は「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」とあり、永禄の変でも「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった」という伝聞記録が書き記されていて、他の史料にも同様なことが記述されています。

江戸時代後期の頼山陽があらわした「日本外史」では、「義輝は、足利家秘蔵の名刀の数々を畳にさして戦い、名刀が刃こぼれするたびに新しい刀に替えて敵と戦った」という内容になっているそう。頼山陽は「足利季世記」という軍記物を参考に書いたらしく、これは要するに、塚原卜伝、奥義、将軍という連想で、将軍が自ら御所で立ち回りをして敵と戦うのだから、名刀の数々が出てきてもおかしくないということが付け加えられたのではないでしょうか

家臣に急襲されて壮絶な討ち死をした、生まれながらの足利将軍

足利義輝は、12代将軍義晴の嫡男として生まれ、11歳で将軍に就任した生まれながらの将軍です。しかし応仁の乱後、室町幕府は権力争いで不安定となっていて、義輝も京都で戦に敗れて近江へ逃げるの繰り返しで成長。

そして三好長慶や松永久秀らが台頭、父の死後は細川晴元、六角氏などの協力を仰ぎ、必死で戦って将軍親政で幕府の威信を取り戻そうと、戦国大名を調停したり名前を与えたりして懐柔したりとがんばりましたが、傀儡政権をもくろんだ三好三人衆に邪魔にされて御所を襲撃されて暗殺されるという異常事態に。

義輝は武家貴族の将軍にあるまじき、剣豪のように自ら戦って討ち死にするという最期を遂げ、後世に剣豪将軍として名を残すことになったのです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

剣豪のような最期を遂げた足利13代将軍「足利義輝」をわかりやすく歴女が解説

2-3、義輝、三好長慶との戦いが長期戦化

三好長慶側では、義輝との和睦を巡って伊勢貞孝と奉公衆の進士賢光が長慶と対立し、義輝方についたため、義輝は好機到来と翌年の天文20年(1551年)長慶暗殺を試みたが、失敗。また同年5月に、親長慶派で、長慶の岳父でもある遊佐長教(ゆさながのり)が暗殺されるという事件が起こり、首謀者は義輝と言われているということ。

そして遊佐の暗殺から2ヶ月後、義輝の幕府軍が権力奪還を目指して入京したが、三好長慶の家臣の松永久秀が4万の軍勢で幕府軍を迎え撃ち、幕府軍は敗退(相国寺の戦い)。この後、義輝は一時的に長慶と和睦したが、幕府内の権力闘争などが影響して和睦を破棄するなど政情不安が続き、天文22年(1553年)閏1月、上野信孝などの義輝の側近の奉公衆らが、長慶排除のために細川晴元と通じて、2月には親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を行い、大舘晴光、朽木稙綱も同調。

そして3月、義輝は長慶との和約を破棄、東山の麓に築いた霊山城に入城しました。義輝は晴元と長慶が芥川山城を包囲しているところに連合し、入京しようとしたが、7月に長慶が芥川山城に抑えの兵を残して上洛、8月に幕府軍が籠城する霊山城は陥落させられたそう。

2-4、義輝、朽木谷へのがれる

天文22年(1553年)8月、義輝は伯父の前関白近衛稙家らと朽木元綱(稙綱の孫)を頼って近江朽木谷に逃亡。長慶は将軍に随伴する者に対して知行没収を通達したので、多くが義輝らを見捨てて帰京。

そういうわけで、伊勢貞助や結城忠正という、奉公衆(幕府の御家人)なのに三好氏の家臣に準じた立場となる者も現れるようになったということです。天文23年(1554年)2月12日、義藤は朽木谷に滞在中、従三位に昇叙し、義輝と改名。

2-5、義輝、朽木谷で挙兵

弘治4年(1558年)2月に、朝廷は正親町天皇の即位で年号を永禄に改元したが、京から離れた朽木谷にいた義輝は改元を知らされていなかったと朝廷に抗議したということです。改元は朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきたが、今回の改元について朝廷は将軍の義輝に相談せずに、三好長慶に相談して改元を実施したという事態になっていたんですね。

永禄元年(1558年)3月、義輝は三好政権打倒のために、朽木谷で挙兵。5月に六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移動し、翌月には幕府軍が如意ヶ嶽に布陣、三好長逸らの軍と北白川で交戦を行ったそう。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢となったものの、長慶の弟三好実休も加勢し、六角義賢が支援を打ち切ったために苦戦したということです。

3-1、義輝、5年ぶりに京へ

永禄元年(1558年)11月、義輝は六角義賢の仲介で長慶との間に和議が成立し事態が収束したために、5年ぶりに京都に戻り、御所での直接的な幕府政治を再開、12月末には、伯父の近衛稙家の娘を正室に迎えました。

長慶は幕府の御相伴衆に加えられたうえに修理大夫への任官を推挙され、義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることに。

しかし長慶は、義輝の権威に自らが取り込まれることや、長年対立してきたために義輝の和解が困難だということで、永禄2年(1559年)12月、嫡男孫次郎が義輝から偏諱をもらって義長(後に義興)と名乗り、翌年1月には義長が三好氏代々の官途の筑前守に任ぜられたのを機会に、長慶は三好氏の家督と本拠地の摂津国芥川山城を義長に譲り、河内国飯盛山城に移りました。こういうことで長慶は義輝との一定の距離を置き、息子の義長(義興)と義輝が、新たな関係を結んで関係の安定化をねらったといわれています。

3-2、義輝、将軍親政を行い、戦国大名を調停

22歳の義輝は将軍御所に入って将軍親政を行い、将軍の権威の復活に積極的に取り組んだということです。

義輝はその一環として、毛利元就と尼子晴久。伊達晴宗と稙宗、松平元康(徳川家康)と今川氏真、北条氏政と武田晴信(信玄)など、戦国大名の調停を盛んに行うようになり、戦国大名たちへの懐柔策として、大友義鎮を筑前、豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じて、三好長慶、義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許可。そして義輝の名の偏諱を家臣や全国の諸大名に与えました。初名の義藤の藤を、細川藤孝、筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏、藤政などに、輝の字は、毛利輝元、伊達輝宗、上杉輝虎(謙信)、足利一門の足利輝氏など、足利将軍家が代々使う義を、武田義信、朝倉義景、島津義久にと、与えまくったのですね。

また永禄2年(1559年)には、美濃の斎藤義龍、尾張の織田信長、越後の長尾景虎(上杉謙信)など、上洛してきた戦国大名にも謁見し、永禄4年(1561年)には、信玄に駆逐されて上方へ亡命していた前信濃守護の小笠原長時の帰国支援を命じ、長尾景虎(上杉謙信)への関東管領就任の許可も与え、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、武田信虎、三好長慶、三好義興らを御相伴衆に任じたということです。

相伴衆とは
相伴衆(しょうばんしゅう)は、室町将軍が殿中での饗宴や他家を訪問する際に陪席することを許された役職であり、室町幕府が定めた身分で高い家柄の者に限られ、三管領に次ぎ、御供衆の上に位置していた管領家、またはその一族や有力守護大名が任命されるのが習わしでした。が、戦国時代になると、戦国大名の中にも相伴衆に任命されるものが現れ始めたが、義輝はこれをさらに拡充。

これは管領が既に形骸化していたために、戦国大名らを懐柔する目的で幕府内での高い身分を与えたということだそうです。

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