大阪は「天下の台所」と呼ばれる独自の食文化が残るところ。代々伝わる伝統的な料理から安価で庶民的なものまで楽しめる。そのため、日本人だけではなく、外国人観光客にも大人気のエリアのひとつとなった。いまでも活気に満ちた市場が多く、食の流通の中心であることが分かる。

海外でも人気の大阪は、どうして「天下の台所」として人々に親しまれるようになったのでしょうか。それじゃ、関連するできごとを日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。「天下の台所」という言葉を聞くものの、その意味を理解している人は、ほとんどいないのではないだろうか。「天下の台所」は江戸時代の歴史と深くかかわる基本用語。そこで「天下の台所」とはどんな存在だったのかまとめてみた。

「天下の台所」の意味とは?

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現在、大阪の食文化を紹介するとき「天下の台所」と表現されることがあります。たこ焼きや串カツなどを、天下の台所の食文化として紹介されることも。歴史的にみると「天下の台所」が意味する食文化は、現在のニュアンスと若干異なります。

江戸時代の商業の中心地であった大阪のこと

大阪が「天下の台所」と認識されるようになったは江戸時代とされています。実際は、天下の台所という言葉が広まっていたわけではなく、商業の中心地として注目されていたと考えたほうがいいでしょう。

大阪は、海路、水路、道路が各地方とつながっており、地域の名産を一堂に集められる環境にありました。そこで、各地から名産が大阪に集められ、そこから改めて各地に送るという物流体制ができあがります。

各藩の蔵屋敷が大阪に集結

大阪が商業の中心地として注目されるに従い、各藩の蔵屋敷も集まるようになります。蔵屋敷とは、藩内の特産物を売るための倉庫兼住居。交通の要所に建てられましたが、とくに大阪に集中しました。

大阪に蔵屋敷ができはじめたのは豊臣秀吉の時代。政権が豊臣家から徳川家に移り、政治の中心が江戸に移ったあとも、蔵屋敷は大阪に残りました。大阪は商業の街として独自に発展していきます。

「天下の台所」という言葉はいつから使われていた?

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台所は、生活にかかわるあらゆるものがある場所。そんな台所のような雰囲気が大阪にはありました。ただ、「天下の台所」という言葉が初めて使われた時期ははっきりと分かりません。

天保年間の古文書に「天下の台所」が登場

一説によると、初めて天下の台所という言葉を使ったのは大坂町奉行だった阿部正蔵。天保の改革のひとつである株仲間の廃止に異議を申し立てる意見書のなかで、はじめて天下の台所という表現が使われました。

そのなかにあるのが「大坂表之義は諸国取引第一之場所」や「世俗諸国之台所と相唱」という表現。大阪はいろいろな地域の取引が行われる台所のようなところだと書かれています。

大阪町奉行の阿部正蔵とはどんな人物?

阿部正蔵は江戸時代の後期の旗本。石高は3000石と大きな力を持つ立場ではありませんでした。天保の改革により株仲間が解散。大阪に集められる特産物などの量が減り、物価の上昇につながったと申し立てました。

このとき阿部正蔵がうったえたのは大阪の問屋機能を強化すること。それにより経済がよくなると考えました。この正蔵の経済政策は聞き入れられなかったようです。

「天下の台所」の経済力を恐れた江戸幕府

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不明 - http://www.rekihaku.ac.jp/e_gallery/edozu/l12.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

大阪が商業の中心地として栄えた時代、政治の中心地は江戸でした。そのため江戸幕府は経済力がある大阪に対して複雑な感情を持っていたようです。

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「天下の台所」を治めるのは弱小大名のみ

江戸幕府は大阪の経済力を恐れて、特定の大名に権力が集中しないように人事を行いました。そのため大阪をおさめるのは弱小大名のみ。権力を分散させるために藩を細かく分けました。もっとも大きな大名は5万石の岸和田藩。そのほかの大名は1万石程度でした。岸和田藩については岸和田城を有していましたが、そのほかは城を持つことが許されませんでした。

農民が一揆をおこさないように管理

さらに江戸幕府は大阪で農民一揆が起こらないように注意を払いました。村と村のあいだに幕府の直轄地を入れることで、村民同士がつながらないようにします。しかしながら、厳しい年貢の取り立てやさまざまな独占の不満から、何度も農民一揆が企てられました。なかには窮状を訴えるために直訴し、そのまま殺された農民もいたようです。

黒門市場は「天下の台所」を象徴するところ

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大阪の食文化といえば、たこ焼き、お好み焼き、串カツなどが有名。さらに大阪の繁華街を歩くと、カニやフグ料理のお店も目立ちます。それは大阪が魚介類の取引拠点として栄えたことが理由でした。

鮮魚商から発展した黒門市場

江戸時代の「天下の台所」の雰囲気が分かるスポットのひとつが黒門市場。江戸時代、圓明寺の黒門のまえに鮮魚商が商売を始めたことが始まりです。

当時の名前は圓明寺市場。大阪大空襲により市場はいちど壊滅します。しかしながら戦後に驚異的なスピードで復興しました。現在の黒門市場にも魚関係のお店や飲食店が充実。180近くのお店の約半分が鮮魚を扱っています。

大阪ではフグ料理が名物なのはなぜ?

秀吉の時代、フグ料理は毒にあたって亡くなる人が続出したため禁止令が出ていました。江戸時代も基本的にはフグ食は禁止。フグを食べたのが見つかると、厳しい処分が下されていたようです。

とはいえ、調理方法が発達するにつれて、フグ料理のレシピも浸透。武家はフグを食べることを禁じられていたものの庶民は別。フグは大名のもとに行かないため、大阪でも庶民レベルで食べられていたと思われます。

「天下の台所」は秀吉の城築をきっかけに発展

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不明 - Universalmuseum Joanneum, パブリック・ドメイン, リンクによる

大阪は古代から都あるいは副都として発展してきました。豊臣秀吉が織田信長に勝利し、大阪本願寺の跡地に大阪城を作ります。それにより大阪はさらに栄えていきました。

大坂城下に町人を集めた豊臣秀吉

織田信長と本願寺の戦いを通じて、いったん大阪の勢いはなくなります。そこで、次に政権をとった豊臣秀吉は、大阪城の周囲に大名屋敷や町人を集め、経済の中心地として立て直しました。安土桃山時代のうち、秀吉が政権を握っていたころが、大阪はもっともにぎわっていたと言われています。しかしながら大坂夏の陣で、ふたたび大阪の地は廃れてしまいました。

徳川家康も戦火に焼かれた大坂を復興

豊臣家に続く勢力として台頭した徳川家康は、戦火に焼かれた大阪の地の復興を試みます。江戸幕府の勢力は関東が中心。関西は味方となる勢力がありません。そこで大阪を直轄地とします。

関西の大名を見張るために大阪城を再建。城下町に町人や地方大名を集めます。江戸よりも海運が恵まれていたことから水路を整備。日本各地から水路を使って年貢米を大阪に集めました。

大阪はどうして「天下の台所」となったのか?

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投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 08:47, 20 June 2009 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

大阪はどうして「天下の台所」と言われるほど多くの物資が集まったのでしょうか。そこで、大阪のどのような点が経済の発展につながったのか、詳しく見ていきたいと思います。

水路によるネットワークの中心地の大阪

ひとつは大阪は水路が充実していたこと。大阪の航路は、西回りや東回りなど、効率的に物資を運べるように整備されていました。大量輸送可能であることが強み。輸送費のコストも実現されました。

これらの水路は幕府だけではなく町人の手によっても発展。堀川は12本、橋は200つくられ、ネットワーク化されました。それを受けて土佐堀川や堂島川筋にたくさんの蔵屋敷が集まり物流拠点となったのです。

商人の卓越した商才が大阪を進化させる

さらに大阪の商人たちは独自の組織を作り、ものを売るアイデアを考えだしました。とくに大阪で発達したのが加工製品。大阪に集まった原材料を加工して、それをさらに高値で売るスタイルを確立します。

大阪の商人たちは地方の特産物の情報を積極的に集め、価格を決定する力を備えていったのことも、大阪を進化させる要因となりました。価格交渉が得意な大阪人というイメージは、大阪の歴史と結びついたものなのです。

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「天下の台所」の歴史から生まれた出汁文化

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「天下の台所」であった大阪では、今でも私たちの食卓を彩る食文化が生み出されます。それは多様な素材が全国から集まる大阪の立地を生かしたものでした。

大阪は昆布だしを使った調理法発祥の地

江戸時代の大阪で発展したのが昆布だし。北海道でとれた昆布は日本海を渡り、下関そして瀬戸内海を経由して「天下の台所」である大阪に運ばれてきました。これらの昆布は大阪で加工されます。

京都で使われていたのが利尻昆布。いっぽう大阪では真昆布が加工されました。利尻昆布とは異なる濃厚な出汁のうまみが特徴の真昆布。その味は評判になり大阪の特産品となりました。

庶民のあいだでは片口いわしの煮干しが人気

大阪は軟水のため素材のうまみがうまく引き出されます。そこで江戸時代に出汁文化が定着。しかしながら昆布だしは高級品。かつおぶしも浸透しますが、庶民には手に届きにくい価格帯でした。

そこで庶民のあいだで人気となったのが片口いわしの煮干しです。瀬戸内海や大阪近海でたくさんとれる片口いわしを加工。庶民レベルで自然のうまみを味わう文化が育まれました。

「天下の台所」では魚を加工した佃煮も定着

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浅草界隈を歩くと佃煮屋さんがたくさんあります。その由来となるのが大阪の漁師。江戸時代には魚を保存する手段として佃煮が積極的に作られるようになりました。

大阪の漁師が江戸で売り出したのが佃煮

江戸時代、徳川家康は摂津国の佃村の優秀な漁師を江戸に呼び寄せます。そして、隅田川沿いにある干潟を埋め立てた場所に住まわせました。これが現在の佃島です。大阪の漁師たちは船内で食べるために小魚や貝類の保存食を作ります。たくさん捕れたときはそれを売り出すようになりました。それにより生まれたのが佃煮。江戸の人々のあいだに佃煮が広まりました。

参勤交代の大名たちのお土産として人気に

佃煮は保存性に優れています。そのため参勤交代で江戸に来ていた大名の江戸土産として大人気に。各地に佃煮が持ち帰られ、その味が広がっていきました。佃煮の味付けは江戸で独自に進化。現在、私たちがよく食べている佃煮の味は、大阪の漁師の味をもとに江戸で進化したものです。

「天下の台所」の歴史は今の大阪にも残っている

「天下の台所」という言葉は今の大阪の食文化をあらわすものとして定着。江戸時代に限定されず、幅広く使用されています。もうひとつの大阪の食文化の代名詞が「くいだおれ」。大阪に行くと、ついつい食べ過ぎてしまう魅力的な食べ物がたくさんある。そのなかで、江戸時代の「天下の台所」の名残であるだし昆布や佃煮は影が薄くなりつつあります。そこで歴史の名残を感じるために、江戸時代に由来がある食べ物を食べてみるのもよさそうですね。

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日本史歴史江戸時代

大阪が「天下の台所」と呼ばれた理由は?食文化の歴史を元大学教員が簡単にわかりやすく解説

大阪は「天下の台所」と呼ばれる独自の食文化が残るところ。代々伝わる伝統的な料理から安価で庶民的なものまで楽しめる。そのため、日本人だけではなく、外国人観光客にも大人気のエリアのひとつとなった。いまでも活気に満ちた市場が多く、食の流通の中心であることが分かる。

海外でも人気の大阪は、どうして「天下の台所」として人々に親しまれるようになったのでしょうか。それじゃ、関連するできごとを日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。「天下の台所」という言葉を聞くものの、その意味を理解している人は、ほとんどいないのではないだろうか。「天下の台所」は江戸時代の歴史と深くかかわる基本用語。そこで「天下の台所」とはどんな存在だったのかまとめてみた。

「天下の台所」の意味とは?

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現在、大阪の食文化を紹介するとき「天下の台所」と表現されることがあります。たこ焼きや串カツなどを、天下の台所の食文化として紹介されることも。歴史的にみると「天下の台所」が意味する食文化は、現在のニュアンスと若干異なります。

江戸時代の商業の中心地であった大阪のこと

大阪が「天下の台所」と認識されるようになったは江戸時代とされています。実際は、天下の台所という言葉が広まっていたわけではなく、商業の中心地として注目されていたと考えたほうがいいでしょう。

大阪は、海路、水路、道路が各地方とつながっており、地域の名産を一堂に集められる環境にありました。そこで、各地から名産が大阪に集められ、そこから改めて各地に送るという物流体制ができあがります。

各藩の蔵屋敷が大阪に集結

大阪が商業の中心地として注目されるに従い、各藩の蔵屋敷も集まるようになります。蔵屋敷とは、藩内の特産物を売るための倉庫兼住居。交通の要所に建てられましたが、とくに大阪に集中しました。

大阪に蔵屋敷ができはじめたのは豊臣秀吉の時代。政権が豊臣家から徳川家に移り、政治の中心が江戸に移ったあとも、蔵屋敷は大阪に残りました。大阪は商業の街として独自に発展していきます。

「天下の台所」という言葉はいつから使われていた?

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台所は、生活にかかわるあらゆるものがある場所。そんな台所のような雰囲気が大阪にはありました。ただ、「天下の台所」という言葉が初めて使われた時期ははっきりと分かりません。

天保年間の古文書に「天下の台所」が登場

一説によると、初めて天下の台所という言葉を使ったのは大坂町奉行だった阿部正蔵。天保の改革のひとつである株仲間の廃止に異議を申し立てる意見書のなかで、はじめて天下の台所という表現が使われました。

そのなかにあるのが「大坂表之義は諸国取引第一之場所」や「世俗諸国之台所と相唱」という表現。大阪はいろいろな地域の取引が行われる台所のようなところだと書かれています。

大阪町奉行の阿部正蔵とはどんな人物?

阿部正蔵は江戸時代の後期の旗本。石高は3000石と大きな力を持つ立場ではありませんでした。天保の改革により株仲間が解散。大阪に集められる特産物などの量が減り、物価の上昇につながったと申し立てました。

このとき阿部正蔵がうったえたのは大阪の問屋機能を強化すること。それにより経済がよくなると考えました。この正蔵の経済政策は聞き入れられなかったようです。

「天下の台所」の経済力を恐れた江戸幕府

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不明http://www.rekihaku.ac.jp/e_gallery/edozu/l12.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

大阪が商業の中心地として栄えた時代、政治の中心地は江戸でした。そのため江戸幕府は経済力がある大阪に対して複雑な感情を持っていたようです。

\次のページで「「天下の台所」を治めるのは弱小大名のみ」を解説!/

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