今回は17世紀にイングランドで起こったピューリタン革命の指導者オリヴァー・クロムウェルについてです。

ピューリタン革命は別名清教徒革命とも呼ばれ、1642年から1649年の間起こった内戦です。クロムウェルはピューリタン革命時には鉄騎隊を率いてネイズビーの戦いで国王軍を撃破。その後チャールズ1世を捕えて処刑し、その後護国卿に就任して独裁政治を行ったんです。

それじゃあ世界史に詳しい歴女のまぁこと一緒にピューリタン革命のこと、その後のクロムウェルの独裁について解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパ王室に興味があり関連書籍を愛読している。今回はピューリタン革命を指導したクロムウェルについて解説していく。

1 オリヴァー・クロムウェルとは?

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オリヴァー・クロムウェルは、1599年にイングランド東部に位置するハンティントンで生まれました。ちなみに彼が生まれたクロムウェル家はジェントリ階級で、かつてヘンリー8世に仕えたトマス・クロムウェルを輩出した名門。

クロムウェルはケンブリッジ大学に進んだ後、治安判事や政治家という経歴を持つ人物です。しかし最も有名なのは、ピューリタン革命を指導してその後はイングランドの護国卿に就任し独裁政治を行ったことでしょう。そこでここでは、ピューリタン革命に至るまでのイングランドを詳しく解説していきます。

1-1 チャールズ1世

ピューリタン革命の際にイングランドの国王だったのは、チャールズ1世でした。彼は1600年にスコットランドのダンファームリンで生まれました。そして3歳の時に父王ジェームズ1世(スコットランド王としては6世)がイングランド王となったため、イングランドへ移ることに。これはイングランド女王、エリザベス1世が崩御したためでした。彼女は後継者にメアリ・ステュアートの息子であったジェームズを選んだのです。

ジェームズには優秀な息子ヘンリー・フレデリックがいましたが、わずか18歳の若さで亡くなることに。こうして兄に代わって後継者となったのが、ヘンリーよりも6歳下で小柄で吃音だったチャールズです。彼は父王から帝王教育を授けられ、王権神授説を信奉するようになりました。

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1-2 チャールズ1世の即位と結婚

その後ジェームズ1世が病死したため、1625年にチャールズは1世として即位しました。そしてその数か月後には、フランスから花嫁が嫁いでくることに。ヘンリエッタ・マリアです。彼女の父は、フランス王アンリ4世、母はマリー・ド・メディシス。フランスはカトリック国であり、ヘンリエッタ自身は母の影響を受けてカトリック教徒でした。彼女はイングランドに潤沢な持参金を与えましたが、宗教的にみればプロテスタント国の国がカトリック国の王女を娶ったため、その後宗教問題を抱えることに。ちなみに意外にも夫婦仲は良好で、2人の間には9人の子どもに恵まれました。ヘンリエッタはフランスという大国から嫁いできた自負からなかなか英語を覚えようとせず、更に国内をカトリック化しようとしたため顰蹙を買うことに。

1-3 専制政治を行った国王

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アンソニー・ヴァン・ダイク - Royal Collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

さて、先の章ではチャールズの結婚相手について触れました。ではチャールズの政治はどうだったのでしょうか。チャールズは1628年に議会を開くことに。しかしここで議員から権力乱用を指摘されました。議会から権利の請願を突きつけられますが、これに対しチャールズは議会を解散。更には指導者を逮捕するという強硬な姿勢を見せることに。国王の権力は何者にも邪魔されないと考えるチャールズ1世と国王の専制政治を制限したい議員の対立が目立つようになりました。チャールズは2度と議会を開かなくてもいいように議会の承認がいらないところから課税するように。チャールズは特許商人に独占権を販売し、財源を確保していました。

1-4 スコットランドの暴動

11年間にわたり、議会を開かず親政を行ってきたチャールズ1世。しかしついに議会を開かざるを得なくなる状況に陥ることになりました。チャールズは更に財源を得ようとし、スコットランドにイギリス国教会を強制しようとすることに。ところがスコットランドではこれに反発の声が上がり、大きな暴動が起こります。この暴動を抑えるために資金が尽きてしまったチャールズはしぶしぶ議会を開きました。ところが両者の対立は深刻なものとなり、1642年には議会派を武力の力で抑えようとしたため、革命へと発展することになりました。

1-5 クロムウェルの率いた鉄騎隊

チャールズ側は1642年8月にノッティンガムで挙兵し、内戦が勃発しました。当初は三十年戦争に従軍経験を持つ国王軍が優勢となり、一時はロンドンへと攻め入るほどだったそう。一方の議会軍は各州から集まった素人集団であり、更に自分の州を越えて戦うことを好まなかったそう。これを解決するため、1643年に州単位で連合軍を組織。ちなみに東部連合軍はクロムウェルの指導によって成立することに。

1644年のマーストン・ムアの戦いではクロムウェルが率いた鉄騎隊(主な構成員はピューリタンたちだった)の活躍によって議会軍が勝利を収めます。ちなみにこの時組織された鉄騎隊は多くのピューリタンがいたそう。更にネイズビーの戦いでも大勝し、翌年には国王派の本拠地であったオックスフォードを陥落させたことで内戦が終結しました。

2 国王の処刑とクロムウェルの独裁

Oliver Cromwell by Samuel Cooper.jpg
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ピューリタン革命によって王党派と議会派が刃を交え、クロムウェル率いる鉄騎隊らの活躍によって議会派が勝利を収めました。そしてチャールズ1世は逮捕され、裁判を受けることに。この後の流れについて詳しく見ていきましょう。

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2-1 国王処刑

1648年12月、長期議会の中で独立派のプライド大佐によって長老派の議員らが追放されることに。こうして議会は議会派独立派の議員で占められるようになりました。そして翌年の1月にチャールズの裁判が開かれることに。裁判長はジョン・ブラッドショウが、クロムウェルは裁判官を務めました。

1649年1月にチャールズ1世は裁判にかけられ、この裁判において彼は数々の罪状により処刑が決定。そして判決からわずか3日後にホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前にて処刑が施行されました。国王の処刑は多くの国民の目の前で行われることに。ちなみにこの時の処刑方法は斧で斬首。斧で首を斬るのは難しく、そのため打ち損じることが頻繁にありました。あるいは執行人がわざと罪人を苦しませるために打ち損じることもあったそう。幸いチャールズ1世は一撃ではねられたそうです。一方国民たちは国王の処刑を目の当たりにし、恐怖に陥ったそう。これは、当時国王は神と同じ存在と見做されていたため。そのためチャールズの遺体から滴る血液を聖遺物としようと多くの人々が布で血液をぬぐったそう。チャールズの処刑後、イングランドは君主制と貴族院の廃止を行ったことで共和国となりました。

2-2 弾圧を強めていくことに

共和政となったイングランドでは、国内で反革命政府勢力を弾圧していくことになりました。ピューリタン革命の際にクロムウェルを支持した人々に平等派(あるいは水平派)と呼ばれる人々がいました。彼らは国王の処刑後にクロムウェルに対し次々に要求を行う(人民協約)ことに。ところがクロムウェルはこの要求を退けました。同様に弾圧されたのは、ディガーズと呼ばれた水平派の中でも左翼的な位置付けの人々。彼らは「すべての人は生まれながらにして財産に貧富の差はなく、平等に神の被造物を享受する権利がある」と主張して下層農民らの支持を獲得。しかし彼らもまたクロムウェルによって弾圧されます。また国外においては、通商でライバルとなったオランダに対抗して植民地を拡大していくことに。ちなみに航海法の成立によって英蘭戦争が勃発することに。

2-3 アイルランドとスコットランドを征服

チャールズ1世を処刑した後もアイルランドでは国王軍とカトリック教徒が同盟を結び、反革命勢力を築いていました。これに対しクロムウェルは1649年8月、自らが司令官としてアイルランドのダブリンへ軍隊と共に上陸。1650年5月までに多くの市民を含む人々を虐殺しました。

アイルランドへの遠征後にクロムウェルらはスコットランドへ侵入することに。1650年のダンバーの戦いで勝利しますが、スコットランド軍はチャールズの息子、チャールズ(後の2世)を擁立しイングランドへ南下してくることに。ここでクロムウェルは奮闘し、翌年のウースターの戦いで勝利し、チャールズはフランスへと亡命を余儀なくされました。

2-4 スコットランドとアイルランドのその後

息子チャールズのフランス亡命によって長きにわたって続いた内戦が終わりを迎えることになりました。アイルランドでは1652年に土地処分法と53年の償還法によってアイルランド反乱の参加者やカトリック教徒の地主の土地が大量に没収されることに。そしてこれらの土地はロンドン商人やプロテスンタントの地主のものとなり、事実上のアイルランドの植民地化が進むことになりました。一方のスコットランドも1654年に合同することが条例化されることに。

2-5 クロムウェルの独裁

こうしてクロムウェルは次第に独裁政治を行うようになりました。1653年には長期議会を解散。同年には最高官職である護国卿に就任することに。護国卿となった後は、政権維持のため軍事独裁体制を築きました。国内を10区に分けて、それぞれにそこに軍政長官を配置し、彼らに軍事と行政権限を与えることに。こうして軍政長官のもとでピューリタンの道徳が人々に強制されたことで芝居や賭博などが禁止されました

更に1657年に議会から国王になるように要請されましたが、これについては固辞します。ところが実態は戴冠式や着座式といった新たな国王が即位する時に行う儀式を一通り行ったそう。更に護国卿を世襲制にするなど、ほぼ国王と同じ権力を築き上げました。

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3 クロムウェルの死後

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Hendrick de Meijer - www.geheugenvannederland.nl : Home : Info : Pic, パブリック・ドメイン, リンクによる

クロムウェルが病死した後、彼の息子リチャード・クロムウェルが護国卿に就任することになりました。しかしクロムウェルのようなカリスマ性がなかったため、議会や軍隊をまとめ上げることができず、8か月後に護国卿を辞任。その後パリへと亡命することに(その後イングランドへ帰国したそう)。ここではその後の様子について解説していきます。

3-1 身分階級からみたピューリタン革命

国民の階級からこのピューリタン革命を見ていきましょう。イングランドでは、王侯や貴族からなる上流階級、ブルジョワからなる中産階級、そして一般大衆からなる下層階級の3つの階級がありました。ちなみにブルジョワとは、新興勢力の商工業者のこと。これはドイツ語のブルガー(中世の城壁内で商いをした人々をそう呼んだことから)からきており、その後フランス語のブルジョワが定着することに。

このブルジョワが上流階級と結びつけば、立憲君主制となり、下層階級と結びつけば共和制となります。ピューリタン革命では、国王の処刑について反対したのは上流階級。賛成だったのが下層階級でした。そして多くのブルジョワらが下層階級と結びついたため、国王は処刑されることに。こうしてイングランドで史上初の共和制が誕生することになりました。

3-2 なぜ王政復古がなされたのか

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ピーター・レリー - Collection of Euston Hall, Suffolk (http://www.eustonhall.co.uk/new/index.php), パブリック・ドメイン, リンクによる

クロムウェルの死後、王政復古がなされたのは何故でしょうか。それは世論の動きに変化が起こったためと考えられます。クロムウェルの独裁体制となった際に、クロムウェルは下層階級の人々(水平派)を弾圧することに。これはクロムウェルが下層階級の人々は国民の中で最も多く、彼らの要求を全て受け入れれば危険が生じると考えたため。またクロムウェルだけではなく、中産階級の人々も下層階級を危険視し自らの地位を守るように考えるようになりました。こうして中産階級は上流階級と結びつき、それぞれの間を取った策(上流階級は王制を支持、中産階級は議会政治を支持)で立憲君主制を取るようになることに。

3-3 王政復古後のクロムウェルの評価

こうして1660年にチャールズ1世の息子、チャールズ2世が亡命先からイングランドへ迎えられました。王政復古です。そしてチャールズ2世は父の敵、クロムウェルを反逆者とみなしました。クロムウェルの墓は暴かれ、その首はロンドンの処刑場に晒されることに。クロムウェルの評価はとても難しいものです。ピューリタン革命の際には英雄ともてはやされ、王政復古の際には反逆者、あるいは王殺しとされ、アイルランド等を征服したことから征服者とみなされています。しかし現在ではピューリタン革命が市民革命と評価されたことから、クロムウェルは名誉を回復することに。今日ではイギリスの国会議事堂の正門に彼の銅像が立っています

ピューリタン革命の指導者であり、王殺しであるクロムウェル

ピューリタン革命によって時の国王チャールズ1世を捕えて処刑したクロムウェル。その後彼は自身を当初支持してくれていた水平派らを含む人々を弾圧していくことに。更に1653年に護国卿に就任すると、独裁政治を行うようになりました。しかし彼の天下は長くは続かず、1658年にインフルエンザでこの世を去ることに。世襲制にしていた護国卿には息子、リチャード・クロムウェルが就きますが、わずか8か月で辞任。その後は王政復古によってチャールズ2世が統治することになりました。

クロムウェルは王政復古の際に反逆者とされていましたが、19世紀に入ると再評価され現在ではイギリスの国会議事堂の正門に銅像が建てられることに。

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ピューリタン革命を指導した「クロムウェル」を歴女が5分でわかりやすく解説!

今回は17世紀にイングランドで起こったピューリタン革命の指導者オリヴァー・クロムウェルについてです。

ピューリタン革命は別名清教徒革命とも呼ばれ、1642年から1649年の間起こった内戦です。クロムウェルはピューリタン革命時には鉄騎隊を率いてネイズビーの戦いで国王軍を撃破。その後チャールズ1世を捕えて処刑し、その後護国卿に就任して独裁政治を行ったんです。

それじゃあ世界史に詳しい歴女のまぁこと一緒にピューリタン革命のこと、その後のクロムウェルの独裁について解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパ王室に興味があり関連書籍を愛読している。今回はピューリタン革命を指導したクロムウェルについて解説していく。

1 オリヴァー・クロムウェルとは?

image by iStockphoto

オリヴァー・クロムウェルは、1599年にイングランド東部に位置するハンティントンで生まれました。ちなみに彼が生まれたクロムウェル家はジェントリ階級で、かつてヘンリー8世に仕えたトマス・クロムウェルを輩出した名門。

クロムウェルはケンブリッジ大学に進んだ後、治安判事や政治家という経歴を持つ人物です。しかし最も有名なのは、ピューリタン革命を指導してその後はイングランドの護国卿に就任し独裁政治を行ったことでしょう。そこでここでは、ピューリタン革命に至るまでのイングランドを詳しく解説していきます。

1-1 チャールズ1世

ピューリタン革命の際にイングランドの国王だったのは、チャールズ1世でした。彼は1600年にスコットランドのダンファームリンで生まれました。そして3歳の時に父王ジェームズ1世(スコットランド王としては6世)がイングランド王となったため、イングランドへ移ることに。これはイングランド女王、エリザベス1世が崩御したためでした。彼女は後継者にメアリ・ステュアートの息子であったジェームズを選んだのです。

ジェームズには優秀な息子ヘンリー・フレデリックがいましたが、わずか18歳の若さで亡くなることに。こうして兄に代わって後継者となったのが、ヘンリーよりも6歳下で小柄で吃音だったチャールズです。彼は父王から帝王教育を授けられ、王権神授説を信奉するようになりました。

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