
3-1、義元の逸話

尾張の新興勢力の信長に急襲され、まさかの討ち死にをしたために、軟弱だとか公家化しているなどとサゲ評価ばかりでしたが、最近は再評価されているということで、色々な逸話をご紹介しますね。
3-2、戦国三大文化といわれる今川文化
義元は少年時代を京都の寺で過ごしたため、茶の湯や和歌に精通していて、能楽などの各種芸能も愛する人物だったということで、領主となったのちも、京都から積極的に文化人を招いて、駿府の城下町を小京都のような街にし、京風の公家文化をとり入れた今川文化は、越前の朝倉氏、周防の大内氏と並んで戦国三大文化といわれているそう。
また徳川家康は、義元のもとで25年間も人質として育ったため、家康が能を好んだというのは、今川文化を受け継いだという見方がされるということ。
そういうわけで、義元がお歯黒と化粧をしていたのが、公家風だで軟弱と言われていましたが、当時の史料によれば、身分の高い男性はお歯黒や化粧をするのがたしなみだったという記述があるということだし、桶狭間合戦で輿に乗っていたのは、輿に乗るには室町将軍の許可がいるという身分の高さを誇示していたということで、色々誤解を解くと、義元が軟弱な公家風侍という見方も変わってくるということです。
3-3、内政にも優れた手腕を発揮
義元は、父氏親が制定した分国法の「今川仮名目録三十三条」に、修正を含め21条を追加したのですが、分国法を制定した戦国大名は今川氏のほかには大内、武田、伊達、長宗我部ら8家しかなく、戦国期は主従関係が不安定なので領主の力が強くなければ成文化できなかったそう。
これは義元が内政にも優れていたことのあらわれで、義元は家臣を「寄親」と「寄子」に分類して上下関係を明確にし、そしては領国内で本格的な検地を実施し、農地の生産能力を把握し、金山の開発、流通、商業の整備もおこない、殖産産業を開発。これは、駿河、遠江、三河は農業地が少なく、年貢を集めにくかったために、段銭、棟別銭という年貢以外で財源を確保するため。
静岡大学の小和田教授によれば、当時の史料から、町人たちが、これまでは年貢を100石納めていたが150石に増やすので、自治を認めてほしいという申請をしたとき、義元は許可して町人の自治を認め、また駿府の街の有力町人に町人頭と言う名を与え、そして信長よりも1年早く富士宮浅間大社の門前を楽市楽座にしていたなど、町人対策にも新しい発想を持ち、東海道の流通経済を支配下に置いていたということです。
こちらの記事もおすすめ

経済活性化に成功した織田信長の一手!「楽市楽座」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説
駿河の守護大名で東海一の弓取りといわれたが、桶狭間合戦ですべて失った
今川義元は駿河の守護大名の名門一族の4男に生まれ、禅僧になるべく幼くして寺に入れられて京都の大寺院で修行したが、駿河に帰国した直後に長兄が急死し、思いがけず還俗して大名になった人。
そしてお家騒動の内紛を収めた後は、近隣に後北条氏や武田氏、松平に織田と強豪がひしめく中、武田家と縁組して同盟をくみ、外交面、内政面でも側近で教育係でもあった太原雪斎の助言もあって上手にこなし、京都の文化人を招いて駿河に小京都っぽい文化をもたらしと、東海一の弓取りとの評判高い大名となりました。しかしうつけものといわれた代替わりしたばかりの織田家の尾張へ攻め入ろうとしたとき、思わぬ急襲であの織田信長のためにあっけなく討ち死にしたことで、お歯黒とお化粧、輿に乗っているなんてと軟弱な公家風ばかりが強調され、武士の風上にも置けない無能な武将と酷評が定着してしまったとのでした。
そして今川氏は息子の代で大名としては滅亡したために、長い間義元は地元でも銅像が一つもない状態でしたが、最近やっと銅像も出来て、研究も進み、武田信玄や北条氏と肩を並べる大名であったこと、徳川家康が受け継いだ事績も多いことなどが再評価されつつあるということです。