
2-6、義元、三河を支配
天文18年(1549年)に家臣の謀反で西三河の岡崎城主松平広忠(家康の父)が若くして暗殺(病死説も)され、義元は松平家が支配していた西三河地域を今川家の領土にしようと画策。広忠の嫡子の竹千代(家康)は織田の人質で不在のため、義元は岡崎付近に向けて今川軍を派遣して事実上松平家の所領を領有。そして松平家の支配下の三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込み、織田方の三河安祥城(現愛知県安城市)を攻略、織田家の勢力を一掃したため、義元の継承直後からの織田氏との争いは義元が勝利。
そして信秀の庶長子の城将、織田信広を捕らえて松平竹千代と人質交換し、自らの配下として尾張進出への足掛かりに。そして天文20年(1551年)に織田信秀の死去後は、尾張へ攻勢の圧力をかけ始めたそう。尚、竹千代は、天文24年(1555年)3月に駿府の義元の下で元服、義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗って、義元の姪で重臣関口親永の娘の瀬名姫(築山殿)と結婚。
2-7、甲相駿三国同盟が成立
天文19年(1550年)武田信玄の姉で義元の正室が亡くなり、武田と姻戚関係が一時断たれたので、義元は天文22年(1552年)11月、娘の嶺松院を武田義信(信玄の嫡男)に嫁がせて同盟関係を保ち、同年、北条氏康の嫡男氏政と武田信玄の娘黄梅院が婚約、翌年には太原雪斎の尽力で義元の嫡子氏真と氏康の娘早川殿が結婚という、甲相駿三国同盟が成立。
また弘治元年(1555年)の第2次川中島の戦いで、武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)の仲介を行い、両者の和睦を成立。
三河を巡っての織田氏との対立が激化して触発された吉良氏や奥平氏などが今川氏に叛旗を翻し、三河忿劇(みかわそうげき)と呼ばれる争いが起こり、永禄元年(1558年)には、支配下の松平元康(徳川家康)に三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻略させたということです。
2-8、今川仮名目録に追加
義元は、天文22年(1553年)に、父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えました。そして今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏であることを理由とし、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府との関係を断絶したということ。これは室町幕府の権威によって領国を統治していた守護大名を脱却して、自らの実力で領国を統治する戦国大名だという明確な宣言だそう。
2-9、義元、息子氏真に家督を譲る
三国同盟を成立させた義元は20歳の嫡子氏真に家督を譲り、氏真が永禄元年(1558年)に駿河や遠江国に発給した文書が残っているということです。しかしこの時期の三河国への文書発給は、義元の名で行われているので、義元は新領土の三河の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念する目的で氏真に家督を譲って、形式上隠居し、本国である駿河と遠江の経営を委ねたとする見方があるそう。
2-10、義元 桶狭間の戦いで敗死

義元は、永禄3年(1560年)5月に織田信長の那古野城を目指し、駿河、遠江、三河の2万余の大軍を率いて尾張国へ侵攻。まず、織田方に身動きを封じられた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康(のちの徳川家康)などに陥落させました。
そして義元は、前哨戦勝利の報告を受け、沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる途中に豪雨のために桶狭間(おけはざま)山で休息中の雨が止んだ直後、織田信長が精鋭を率いて急襲、義元は松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣毛利良勝に愛刀の義元左文字と首を奪われ、42歳で討ち死に。
2-11、義元の死後
織田方に討ち取られた義元の首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣岡部元信と信長との開城交渉で、後に返還となって駿河に戻りました。
義元の戦死後は、嫡男の氏真が名実ともに駿河、遠江、三河領主として跡を継いだが、この混乱に乗じて人質だった松平元康(後の徳川家康)が西三河で独立し、東三河でも戸田氏、西郷氏などが離反して松平氏の傘下に。そして三河の動揺が隣国の遠江に伝わり、色々な噂が飛び交って大混乱となり、遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な遠州錯乱といわれた状態に。氏真はまだ23歳の若輩で人心掌握の才に欠けていたせいもあり、井伊直親、飯尾連竜などの粛清で事態を収拾しようとしたが、かえって人心の離反を加速させてしまったそう。
そして今川領内は、家臣(国人領主)の離脱が相次いだため、自国領内すらまともに統治できない状態となってあっという間に衰退、義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康によって駿河、遠江を追われて、大名としての今川家は滅亡に。尚、駿河を追放された氏真は、正室の早川殿の実家北条家に身を寄せ、武田と北条の同盟が復活した後、徳川家康の家臣となり、江戸時代に今川氏は旗本高家に収まって続いたのでした。
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