今回は今川義元を取り上げるぞ。織田信長にあっさり負けた印象が強いが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、今川義元について5分でわかるようにまとめた。

1-1、今川 義元は駿河の生まれ

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今川義元(いまがわよしもと)は、永正16年(1519年)、駿河の今川館(今川氏の居館で現駿府城の場所にあったとされる)で誕生。父は駿河の守護大名今川氏親(うじちか)で、母は正室で公家の中御門宣胤の娘(寿桂尼)、義元は正室を母とする同母兄弟の3男。しかし本来は側室の子で、のちに正室の寿桂尼と養子縁組をしたとする説あり。

きょうだいは正室腹の兄が2人、側室腹の庶兄が2人、弟がひとり、姉妹が5人。幼名は芳菊丸、法名は栴岳承芳(せんがくしょうほう)、還俗して諱を義元。官名は治部大輔(じぶたいゆう)。

1-2、義元の子供時代

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663highland, CC 表示 2.5, リンクによる

義元は兄がいたために、仏門に入って僧となる人生を歩まされることになり、4歳で駿河国富士郡瀬古善得寺の吉良家出身の禅僧である琴渓承舜(きんけいしょうしゅん)に預けられたが、享禄2年(1529年)に承舜が死去したので、その弟子の九英承菊(後の太原雪斎、たいげんせっさい)が義元の守役となったということです。

その後は、雪斎と共に京都の建仁寺に入り常庵龍崇の元で得度して、栴岳承芳と名乗ることに。そして雪斎と共に妙心寺で大休宗休(だいきゅうそうきゅう)に学び学識を深めたそう。 なお、この修行中には歌会などを通じて京都の公家や文化人とも深く交わったということ。

1-3、義元、駿河に戻り家を継承

義元は20歳の時に領主の長兄氏輝の命令で、前年に今川氏と武田氏が不和となったからと帰国要請を受けて駿河へ戻ったが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が24歳で急死。そして次兄の彦五郎(兄氏輝の息子説、4男説、また存在しないなど諸説あり)までもが長兄の氏輝と同日に死亡。氏輝はもともと体が弱かったというものの、謎の多い死といわれていますが、とにかく3男の義元に継承権が巡ってきたのですね。

義元には庶兄がいたのですが、長兄の氏輝、次兄の彦五郎と同じ正室の寿桂尼の息子であったためで、今川家の重臣たちから還俗をするよういわれて、主君であり本家本流に当たる室町幕府の将軍足利義晴から偏諱を賜って、義元と名乗ることに。

1-4、異母兄とのお家騒動、花倉の乱

しかし義元の継承に異議を唱えた有力家臣の福島氏は、福島家出身の側室から生まれた義元の異母兄で、僧籍の玄広恵探(げんこうえたん、今川良真(ながさね)を名乗った説あり)を当主として反旗を翻し、花倉の乱(はなくら)が勃発

異母兄の恵探側は今川館に攻め寄せたり一時は攻勢だったが、義元側の太原雪斎、岡部親綱ら家臣団が奮戦。そして義元が伊豆国(現静岡県伊豆半島)、相模国(現神奈川県西南部)を領する後北条氏から支援を得てのち、花倉城は陥落し、恵探は自害に追い込まれたということです。

内乱を鎮めた義元は名実ともに今川氏の当主となって、忠義を示した家臣で特に教育係でもあった太原雪斎を重用して支配体制を整えたそう。

また、義元の母寿桂尼は、若い息子氏輝を補佐していた女丈夫だったということで、実子義元を還俗させて家督を継がせた説、または側室の子の玄広恵探を押していた説、義元は寿桂尼の実子ではない新説まで登場しているが、義元の亡き後氏真の補佐までしたという、かなり長生きでしっかりした女性だったよう。

\次のページで「2-1、義元、武田信虎の娘と婚姻して同盟」を解説!/

今川家とは
今川氏は、足利氏の傍流で他の傍流の斯波家や畠山家とは別格だった吉良氏の分家にあたり、室町幕府の御所である足利将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えたあとは今川が継ぐということになっていた名門中の名門で、義元は9代目の当主です。今川家は、代々駿河の守護に任命され、遠江守護家も分流に。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であったそう。

2-1、義元、武田信虎の娘と婚姻して同盟

義元は家督を継承後、太原雪斎の助言もあって外交方針を大きく転換、義元は天文5年(1536年)7月、長兄の氏輝の代までは敵対していた隣国の甲斐国の武田信虎の嫡男晴信(信玄)と、摂家に次ぐ家格の精華家の三条公頼の娘の結婚の仲立ち(中御門家出身の母寿桂尼の尽力といわれる)をし、翌年には武田氏当主である武田信虎の娘を正室に迎えて甲駿同盟を成立

2-2、河東一乱で後北条氏と紛争

甲駿同盟の成立は、旧来の盟友で義元の当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買い、天文6年(1537年)2月に北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻。これを第一次河東一乱(かとういちらん)といい、お家騒動の花倉の乱で内部対立を引き摺り家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えなかったということ。この合戦で河東(現静岡県東部、富士川より東側)を奪われたので、義元は武田の援軍と連帯して領土奪還を試みたが、反義元派の武将らが義元から離反、家臣の反乱と北条氏の侵攻との板挟みとなり、河東は北条氏に占領されたまま長期化、9年も続くことに。

そして天文14年(1545年)、義元は、河東を奪還するために北条氏と敵対していた山内上杉氏の上杉憲政と同盟を締結し、北条氏を挟み撃ちにする策に出ました。そして同盟国の武田氏にも出陣を要請して侵攻を開始。駿河国には今川と武田連合軍が、関東には山内上杉憲政軍、という形で同時に軍事行動を行ったということで、関東攻めの山内上杉軍は、扇谷上杉氏や古河公方の足利晴氏らとも連合、8万の大軍となって河越城を包囲したために、窮地に立った氏康は武田信玄に仲介を依頼、義元との交渉で河東の地を今川氏に返還する条件で和睦して、第二次河東一乱が終結に。

2-3、義元、尾張の織田信秀とも三河国を巡って対立

義元は河東一乱と並行して三河国へも進出。三河国は元々、松平家の支配だったが、一族の内紛などもあって今川家の庇護下に置かれるほど弱体化したため、天文9年(1540年)、尾張国(現愛知県西部)の織田信秀が三河国(現愛知県東部)に侵攻を開始

義元は三河に援軍を送って三河の諸侯軍と連合、天文11年(1542年)には織田軍と一大決戦し猛攻の前に敗退(これは第一次小豆坂の戦いといわれていますが、後世の創作である可能性もあるということ)。そして天文10年(1541年)には、北条氏綱が死去して氏康が家督を継承。

また甲斐国の武田信虎は嫡男の武田晴信(信玄)、信濃国の諏訪頼重や村上義清と信濃佐久郡侵攻を行った後、信虎は甲斐へ帰国。そして義元と正室で信虎の娘を訪問するために駿河へ来訪したが、晴信(信玄)と重臣たちによって国境を封鎖される無血クーデターが発生義元は晴信(信玄)とも連絡を保ち、お舅様として信虎を厚遇し、義理の弟にも当たる晴信(信玄)とも同盟関係を続けて、高遠合戦では武田に援軍を派遣したということです。

2-4、松平家の人質を巡って織田信秀と争う

天文16年(1547年)西三河の岡崎城主松平広忠が義元に帰順して、嫡男で6歳の竹千代(後の徳川家康)を人質に差し出したが、竹千代を送り届けるはずの三河田原城主(現愛知県田原市)戸田康光が、前年に義元に一族を滅ぼされたために裏切って竹千代は織田氏に届けられたということ。

義元はこのことで戸田宗家を武力で滅ぼし、田原城に有力家臣の朝比奈氏を入れましたが、近年の研究では、これは松平広忠、戸田康光連合軍と、松平家内部の反主流派の松平信孝、酒井忠尚の争いに、要請を受けた義元と織田信秀連合軍が加勢して戦ったもので、その結果戸田氏は義元に滅ぼされ、松平氏は信秀に岡崎城を奪われて竹千代を人質に出すことで許されたのでは、という新たな見方もあるそうです。

2-5、義元、織田信秀に大勝

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立花左近 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻、しかし義元の側近の雪斎と譜代重臣朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝。これは第二次小豆坂の戦いといわれていて、この頃までには、松平広忠も松平信孝を滅ぼして再び今川方に帰属したということです。

\次のページで「2-6、義元、三河を支配」を解説!/

2-6、義元、三河を支配

天文18年(1549年)に家臣の謀反で西三河の岡崎城主松平広忠(家康の父)が若くして暗殺(病死説も)され、義元は松平家が支配していた西三河地域を今川家の領土にしようと画策。広忠の嫡子の竹千代(家康)は織田の人質で不在のため、義元は岡崎付近に向けて今川軍を派遣して事実上松平家の所領を領有。そして松平家の支配下の三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込み、織田方の三河安祥城(現愛知県安城市)を攻略、織田家の勢力を一掃したため、義元の継承直後からの織田氏との争いは義元が勝利

そして信秀の庶長子の城将、織田信広を捕らえて松平竹千代と人質交換し、自らの配下として尾張進出への足掛かりに。そして天文20年(1551年)に織田信秀の死去後は、尾張へ攻勢の圧力をかけ始めたそう。尚、竹千代は、天文24年(1555年)3月に駿府の義元の下で元服、義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗って、義元の姪で重臣関口親永の娘の瀬名姫(築山殿)と結婚。

2-7、甲相駿三国同盟が成立

天文19年(1550年)武田信玄の姉で義元の正室が亡くなり、武田と姻戚関係が一時断たれたので、義元は天文22年(1552年)11月、娘の嶺松院を武田義信(信玄の嫡男)に嫁がせて同盟関係を保ち、同年、北条氏康の嫡男氏政と武田信玄の娘黄梅院が婚約、翌年には太原雪斎の尽力で義元の嫡子氏真と氏康の娘早川殿が結婚という、甲相駿三国同盟が成立。

また弘治元年(1555年)の第2次川中島の戦いで、武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)の仲介を行い、両者の和睦を成立。

三河を巡っての織田氏との対立が激化して触発された吉良氏や奥平氏などが今川氏に叛旗を翻し、三河忿劇(みかわそうげき)と呼ばれる争いが起こり、永禄元年(1558年)には、支配下の松平元康(徳川家康)に三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻略させたということです。 

2-8、今川仮名目録に追加

義元は、天文22年(1553年)に、父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えました。そして今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏であることを理由とし、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府との関係を断絶したということ。これは室町幕府の権威によって領国を統治していた守護大名を脱却して、自らの実力で領国を統治する戦国大名だという明確な宣言だそう。

2-9、義元、息子氏真に家督を譲る

三国同盟を成立させた義元は20歳の嫡子氏真に家督を譲り、氏真が永禄元年(1558年)に駿河や遠江国に発給した文書が残っているということです。しかしこの時期の三河国への文書発給は、義元の名で行われているので、義元は新領土の三河の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念する目的で氏真に家督を譲って、形式上隠居し、本国である駿河と遠江の経営を委ねたとする見方があるそう。

2-10、義元 桶狭間の戦いで敗死

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義元は、永禄3年(1560年)5月に織田信長の那古野城を目指し、駿河、遠江、三河の2万余の大軍を率いて尾張国へ侵攻。まず、織田方に身動きを封じられた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康(のちの徳川家康)などに陥落させました。

そして義元は、前哨戦勝利の報告を受け、沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる途中に豪雨のために桶狭間(おけはざま)山で休息中の雨が止んだ直後、織田信長が精鋭を率いて急襲、義元は松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣毛利良勝に愛刀の義元左文字と首を奪われ、42歳で討ち死に。

2-11、義元の死後

織田方に討ち取られた義元の首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣岡部元信と信長との開城交渉で、後に返還となって駿河に戻りました。

義元の戦死後は、嫡男の氏真が名実ともに駿河、遠江、三河領主として跡を継いだが、この混乱に乗じて人質だった松平元康(後の徳川家康)が西三河で独立し、東三河でも戸田氏、西郷氏などが離反して松平氏の傘下に。そして三河の動揺が隣国の遠江に伝わり、色々な噂が飛び交って大混乱となり、遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な遠州錯乱といわれた状態に。氏真はまだ23歳の若輩で人心掌握の才に欠けていたせいもあり、井伊直親、飯尾連竜などの粛清で事態を収拾しようとしたが、かえって人心の離反を加速させてしまったそう。

そして今川領内は、家臣(国人領主)の離脱が相次いだため、自国領内すらまともに統治できない状態となってあっという間に衰退、義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康によって駿河、遠江を追われて、大名としての今川家は滅亡に。尚、駿河を追放された氏真は、正室の早川殿の実家北条家に身を寄せ、武田と北条の同盟が復活した後、徳川家康の家臣となり、江戸時代に今川氏は旗本高家に収まって続いたのでした。

\次のページで「3-1、義元の逸話」を解説!/

3-1、義元の逸話

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尾張の新興勢力の信長に急襲され、まさかの討ち死にをしたために、軟弱だとか公家化しているなどとサゲ評価ばかりでしたが、最近は再評価されているということで、色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、戦国三大文化といわれる今川文化

義元は少年時代を京都の寺で過ごしたため、茶の湯や和歌に精通していて、能楽などの各種芸能も愛する人物だったということで、領主となったのちも、京都から積極的に文化人を招いて、駿府の城下町を小京都のような街にし、京風の公家文化をとり入れた今川文化は、越前の朝倉氏、周防の大内氏と並んで戦国三大文化といわれているそう。

また徳川家康は、義元のもとで25年間も人質として育ったため、家康が能を好んだというのは、今川文化を受け継いだという見方がされるということ。

そういうわけで、義元がお歯黒と化粧をしていたのが、公家風だで軟弱と言われていましたが、当時の史料によれば、身分の高い男性はお歯黒や化粧をするのがたしなみだったという記述があるということだし、桶狭間合戦で輿に乗っていたのは、輿に乗るには室町将軍の許可がいるという身分の高さを誇示していたということで、色々誤解を解くと、義元が軟弱な公家風侍という見方も変わってくるということです。

3-3、内政にも優れた手腕を発揮

義元は、父氏親が制定した分国法の「今川仮名目録三十三条」に、修正を含め21条を追加したのですが、分国法を制定した戦国大名は今川氏のほかには大内、武田、伊達、長宗我部ら8家しかなく、戦国期は主従関係が不安定なので領主の力が強くなければ成文化できなかったそう。

これは義元が内政にも優れていたことのあらわれで、義元は家臣を「寄親」と「寄子」に分類して上下関係を明確にし、そしては領国内で本格的な検地を実施し、農地の生産能力を把握し、金山の開発、流通、商業の整備もおこない、殖産産業を開発。これは、駿河、遠江、三河は農業地が少なく、年貢を集めにくかったために、段銭、棟別銭という年貢以外で財源を確保するため。

静岡大学の小和田教授によれば、当時の史料から、町人たちが、これまでは年貢を100石納めていたが150石に増やすので、自治を認めてほしいという申請をしたとき、義元は許可して町人の自治を認め、また駿府の街の有力町人に町人頭と言う名を与え、そして信長よりも1年早く富士宮浅間大社の門前を楽市楽座にしていたなど、町人対策にも新しい発想を持ち、東海道の流通経済を支配下に置いていたということです。

駿河の守護大名で東海一の弓取りといわれたが、桶狭間合戦ですべて失った

今川義元は駿河の守護大名の名門一族の4男に生まれ、禅僧になるべく幼くして寺に入れられて京都の大寺院で修行したが、駿河に帰国した直後に長兄が急死し、思いがけず還俗して大名になった人。

そしてお家騒動の内紛を収めた後は、近隣に後北条氏や武田氏、松平に織田と強豪がひしめく中、武田家と縁組して同盟をくみ、外交面、内政面でも側近で教育係でもあった太原雪斎の助言もあって上手にこなし、京都の文化人を招いて駿河に小京都っぽい文化をもたらしと、東海一の弓取りとの評判高い大名となりました。しかしうつけものといわれた代替わりしたばかりの織田家の尾張へ攻め入ろうとしたとき、思わぬ急襲であの織田信長のためにあっけなく討ち死にしたことで、お歯黒とお化粧、輿に乗っているなんてと軟弱な公家風ばかりが強調され、武士の風上にも置けない無能な武将と酷評が定着してしまったとのでした。

そして今川氏は息子の代で大名としては滅亡したために、長い間義元は地元でも銅像が一つもない状態でしたが、最近やっと銅像も出来て、研究も進み、武田信玄や北条氏と肩を並べる大名であったこと、徳川家康が受け継いだ事績も多いことなどが再評価されつつあるということです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

信長に桶狭間で倒された駿河の守護大名「今川義元」をわかりやすく歴女が解説

今回は今川義元を取り上げるぞ。織田信長にあっさり負けた印象が強いが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、今川義元について5分でわかるようにまとめた。

1-1、今川 義元は駿河の生まれ

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今川義元(いまがわよしもと)は、永正16年(1519年)、駿河の今川館(今川氏の居館で現駿府城の場所にあったとされる)で誕生。父は駿河の守護大名今川氏親(うじちか)で、母は正室で公家の中御門宣胤の娘(寿桂尼)、義元は正室を母とする同母兄弟の3男。しかし本来は側室の子で、のちに正室の寿桂尼と養子縁組をしたとする説あり。

きょうだいは正室腹の兄が2人、側室腹の庶兄が2人、弟がひとり、姉妹が5人。幼名は芳菊丸、法名は栴岳承芳(せんがくしょうほう)、還俗して諱を義元。官名は治部大輔(じぶたいゆう)。

1-2、義元の子供時代

義元は兄がいたために、仏門に入って僧となる人生を歩まされることになり、4歳で駿河国富士郡瀬古善得寺の吉良家出身の禅僧である琴渓承舜(きんけいしょうしゅん)に預けられたが、享禄2年(1529年)に承舜が死去したので、その弟子の九英承菊(後の太原雪斎、たいげんせっさい)が義元の守役となったということです。

その後は、雪斎と共に京都の建仁寺に入り常庵龍崇の元で得度して、栴岳承芳と名乗ることに。そして雪斎と共に妙心寺で大休宗休(だいきゅうそうきゅう)に学び学識を深めたそう。 なお、この修行中には歌会などを通じて京都の公家や文化人とも深く交わったということ。

1-3、義元、駿河に戻り家を継承

義元は20歳の時に領主の長兄氏輝の命令で、前年に今川氏と武田氏が不和となったからと帰国要請を受けて駿河へ戻ったが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が24歳で急死。そして次兄の彦五郎(兄氏輝の息子説、4男説、また存在しないなど諸説あり)までもが長兄の氏輝と同日に死亡。氏輝はもともと体が弱かったというものの、謎の多い死といわれていますが、とにかく3男の義元に継承権が巡ってきたのですね。

義元には庶兄がいたのですが、長兄の氏輝、次兄の彦五郎と同じ正室の寿桂尼の息子であったためで、今川家の重臣たちから還俗をするよういわれて、主君であり本家本流に当たる室町幕府の将軍足利義晴から偏諱を賜って、義元と名乗ることに。

1-4、異母兄とのお家騒動、花倉の乱

しかし義元の継承に異議を唱えた有力家臣の福島氏は、福島家出身の側室から生まれた義元の異母兄で、僧籍の玄広恵探(げんこうえたん、今川良真(ながさね)を名乗った説あり)を当主として反旗を翻し、花倉の乱(はなくら)が勃発

異母兄の恵探側は今川館に攻め寄せたり一時は攻勢だったが、義元側の太原雪斎、岡部親綱ら家臣団が奮戦。そして義元が伊豆国(現静岡県伊豆半島)、相模国(現神奈川県西南部)を領する後北条氏から支援を得てのち、花倉城は陥落し、恵探は自害に追い込まれたということです。

内乱を鎮めた義元は名実ともに今川氏の当主となって、忠義を示した家臣で特に教育係でもあった太原雪斎を重用して支配体制を整えたそう。

また、義元の母寿桂尼は、若い息子氏輝を補佐していた女丈夫だったということで、実子義元を還俗させて家督を継がせた説、または側室の子の玄広恵探を押していた説、義元は寿桂尼の実子ではない新説まで登場しているが、義元の亡き後氏真の補佐までしたという、かなり長生きでしっかりした女性だったよう。

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