今回は山本勘助を取り上げるぞ。武田信玄の軍師と言われているが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、山本勘助について5分でわかるようにまとめた。

1-1、山本勘助は、三河の国または駿河の国の生まれ

山本勘助(やまもとかんすけ)は、「甲陽軍鑑」、「北越軍談」の記述を引用して書かれたという「甲斐国志」によれば、明応2年(1493年)または明応9年(1500年)、三河国(現愛知県東部)、または駿河国(現静岡県東部)で誕生。

父は駿河国富士郡山本(現静岡県富士宮市山本)の今川家の家臣吉野貞幸と母安の3男で、幼名は源助。勘助は12歳で牛久保城(現愛知県)の城主牧野家の家臣大林勘左衛門の養子となって、勘助晴幸と改名、号は道安、出家して道鬼斎。

1-2、勘助、諸国へ武者修行

勘助は、大林家での少年期に兵法を学び、20歳になると武者修行の旅へ出て、5年後の25歳のときには伊賀忍術のルーツでもある山伏の兵法を学ぶために、真言宗の総本山高野山に参籠しました。

そして摩利支天像を授かって自身の守護神に定め、その後も四国、山陰、山陽、九州まで、諸国をまわり各地の大名に仕えつつ兵法の修行に励んだそう。また兵法修行に合わせて、全国にある城を検分して築城技術や知識も身に付けたということです。

1-3、勘助、今川家へ仕官できず浪人暮らしに

勘助は34、35歳ごろに大林家に戻ったが、大林家に男子が誕生していたため、山本姓にもどって再び関東方面に武者修行に出ました。そして天文5年(1536年)には駿河の大名今川義元へ仕官を希望したが、勘助が、片目と手足が不自由で供を連れていなかったため仕官が叶わなかったということで、勘助は40歳を過ぎても浪人のままだったということ。

2-1、勘助、若き武田信玄に召し抱えられる

image by PIXTA / 61219584

50歳前後となった勘助は、兵法家としての名声が諸国に聞こえるようになり、武田家の重臣板垣信方が、駿河国に城取り(築城術)に通じた者がいると23歳の若き甲斐国領主武田信玄(晴信)に勘助を推挙。そして天文12年(1543年)に武田家は勘助を知行100貫という破格の待遇で召抱えようと申し入れたということ。

庵原忠胤(いはらただたね、勘助の叔父で今川家家臣)は勘助に、武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行けと言ったが、勘助はあえて武田家のために朱印状を受けずに甲府へ赴き、信玄と対面、信玄は勘助の才を見抜いて知行200貫で召し抱えることに

2-2、勘助、信玄に信頼される

信玄は「城取り」や諸国を修行したため情勢について知識のある勘助と語って知識の深さに感心し、信頼をあつくしたということですが、新参者への破格の待遇のため、家中の南部下野守が勘助を誹謗したが、信玄は南部を改易して勘助を厚遇、南部はその後各地をさまよった挙句に餓死したという話まであるそう。 そして同年、晴信が信濃国へ侵攻すると、勘助は9つの城を落とす大功を立てて100貫を加増され知行300貫に。

しかし無縁の浪人である勘助を武田家がいきなり200貫で召し抱えるというのは無理があるために、実は勘助の家系は、清和源氏の流れを汲んだ駿河源氏の吉野氏の子孫なので、吉野氏の親戚にあたる武田家の一門穴山氏の推挙で武田家に仕えたという話もあるということです。

\次のページで「2-3、勘助、諏訪御寮人側室に賛成」を解説!/

2-3、勘助、諏訪御寮人側室に賛成

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信玄は天文11年(1542年)、父信虎の頃に妹との結婚で同盟を結んだはずの諏訪頼重を攻め滅ぼしたのですが、頼重の側室腹の娘である美貌の諏訪御寮人を側室にしたいと言い出して、家臣たちは反対。しかし勘助は諏訪御料人が信玄の子を産めば、その子に諏訪家を継がせて諏訪家の旧臣たちを武田家に従わせたらよろしかろうと献策し、信玄歓喜。

結果的に諏訪御寮人からは信玄の4男勝頼が誕生し、のちに諏訪勝頼を名乗って諏訪支配を任せられたということです。

2-4、勘助、甲州法度之次第の制定にも助言

天文16年(1547年)、信玄は分国法である「甲州法度之次第」を制定しましたが、これは武田家臣団の統制や甲斐の国の領国支配のための法律で、領主である信玄自身もこの法律の対象になるのが特徴で、「喧嘩両成敗」も有名ですが、勘助は駿河にいたために、今川氏の分国法である「今川仮名目録」をもとに、信玄に助言したということです。

2-5、勘助、砥石崩れを救う活躍

天文15年(1546年)、信玄は信濃国(現長野県)北部を治めていた村上義清の砥石城を攻略したが、城の防御が予想以上に堅固で、重臣らが戦死するなど信玄自身が最前線で戦うほどで、「砥石崩れ」と呼ばれた大苦戦となりました。

勘助は信玄に進言して両角虎定が率いる50騎の隊を借り受け、本陣に模した陣を形成するという陽動作戦で村上軍を翻弄。その間に、信玄は体勢を立て直して反撃に出て勝利。「破軍建返し」と呼ばれる縦横無尽の活躍の功績で、勘助は知行800貫に加増されて足軽大将に抜擢されたそう。

2-6、勘助、築城でも貢献

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勘助は、諸国を武者修行して見聞を広めたためもあって、築城術にも長けていたということで、勘助が築いた代表的な城として、伊那の高遠城、佐久の小諸城、海津城があり、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれ、高い防御力を第一に考えた要塞として機能する城造りだったということです。

また「真田三代記」によれば、勘助は真田幸隆(昌幸の父)と懇意で、信玄の重臣の馬場信春にも築城術を伝授したそう。 そして勘助は信玄に諸国武者修行で見聞きした、毛利元就、大内義隆、今川義元、上杉憲政、松平清康らについて語り、今川義元に関しては討死を予見したという話もあるそうです。

2-7、勘助、川中島合戦での作戦失敗で討ち死に

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信玄に敗れた村上義清が越後の上杉謙信を頼ったなどがきっかけになり、天文22年(1553年)、信玄と上杉謙信の間で北信濃を巡って川中島の合戦が開始。この戦いはその後の10年ほどの間に5度にわたって戦われることになりました。

勘助は、川中島に海津城(松代城)を築城して武田軍の拠点としていましたが、永禄4年(1561年)、第4次の川中島の合戦では、上杉軍は、海津城の向かいの妻女山(さいじょさん)に布陣。勘助は兵を2手に分け、別働隊が妻女山を襲い、山を降りてきた上杉軍を八幡原に布陣した武田の本隊と別働隊で挟み撃ちにするという作戦を進言したということ。

この作戦は、キツツキが木をつついたことで、驚いて木の中から飛び出した虫を食べるという、「キツツキ戦法」といわれています。しかしこの勘助の作戦は謙信に見破られ、武田の別働隊が到着したときには、謙信は夜のうちに妻女山を出撃していたということで、慌てて本隊の待つ八幡原に向かったが、別働隊より少ない人数の武田軍本隊は、上杉軍の総攻撃を受けて武田信玄の弟の信繁らをはじめとする主だった武将達が何人も討ち死にし、信玄の本陣に討ち入った謙信との一騎打ちと言う伝説もあったほどの大激戦となりました。

そして勘助は、武田軍を窮地に追い込んだ責任を感じて、死を決意して敵陣に突入し、自ら刀を抜いて奮戦したが、69歳で体中を槍で突かれるという壮絶な最期を迎えたということ。

3-1、勘助の謎

Yamamoto Kansuke killed at Kawanakajima.jpg
月岡芳年 - 『川中島三討死 山本道鬼討死之図』 (http://morimiya.net/online/ukiyoe-big-files/U732.html), パブリック・ドメイン, リンクによる

勘助は武田24将で武田5名臣のひとりとされていますが、多くの伝説と謎に満ちた人物となっているので、色々とご紹介しますね。

\次のページで「3-2、甲陽軍鑑にしか登場しない」を解説!/

3-2、甲陽軍鑑にしか登場しない

勘助は、甲陽軍鑑では大活躍しているが、他の史料には登場しない人物なので、実在の人物ではないとさえ言われることがあります。

名前にしても、信玄が諱晴信の一字を取って「晴幸」の諱を与えたという話があるが、室町将軍足利義晴の偏諱からもらった「晴」字を家臣に与えることは社会通念ではありえないとか、各地で武者修行して武田家に仕えるまでの年数も矛盾が多いとか、川中島で討ち死にしたときは、69歳と言うのも、当時としては戦場に出るには老齢すぎなど、生年も明応2年(1493年)から文亀元年(1501年)説まであって、はっきりしないということに。

3-3、軍師は江戸時代の産物

「甲陽軍鑑」では勘助を軍師とは言わず、実戦の指揮をとる足軽大将だったということで、日本の軍師のイメージは、多くは江戸時代以降の軍記もので、中国の歴史物語の高名な諸葛孔明にあやかって作り出されたものだそう。

甲陽軍鑑とは
江戸時代初期に武田氏の老臣高坂弾正昌信の口述、遺記を基にして、春日惣二郎、小幡下野らが書きついだものを兵学者の小幡景憲が集大成したといわれている軍書のこと。20巻59品あり、武田信玄、勝頼の2代にわたっての合戦や戦術、刑法、行政などが記されていて、武士道に言及した記述もみられ、武田家の事跡や軍学を論じた、甲州流軍学の教典とされ、江戸時代には軍記物としてベストセラー的に読まれ、講談などで人気が出たといわれています。

が、これは信玄や勘助と同時代に書かれた一次史料ではないこと、年代的に誤記が多く、明らかに創作と思われる出来事もあり、内容的に事実とは異なっている記述が多いなどで、史料としての信頼性が低く、明治以後は研究者の論争の種となっている書物なのですね。現在の研究では、戦国時代に使われた言葉で書かれていることが明らかになり、年代の間違いも最初の方は多いが後半は正確なものだと、以前よりは信ぴょう性も高いと評価が変わったそうですが、勘助については、比較対象となる史料がほとんどないために、色々な功績も事実かどうかの判断は難しく、今後の研究が待たれるということです。

3-4、小山団扇

大阪府藤井寺市の伝統工芸品である小山団扇(こやまうちわ)は、徳川将軍や天皇にも献上されていたもので、秘伝の製造方法は、一子相伝の技術として昭和の時代まで代々継承され続けたということです。

この小山団扇の起源が戦国時代のそれも勘助にあるという説があり、勘助は三好氏の動向を探るために藤井寺市小山地区に潜伏中、近隣住民に怪しまれないように、小山団扇を製造販売していたという話が伝わっているとか。

3-5、ヤマ勘は勘助が語源説

あてずっぽうなことを「山勘」(ヤマカン)と言うのですが、これが山本勘助由来という説があるそう。本当は勘助以前から使われていて、鉱脈を掘りあてる山師の勘が語源ということです。

\次のページで「3-6、山本管助説」を解説!/

3-6、山本管助説

勘助は、「甲陽軍鑑」が元とはいえ、武田信玄の伝説的軍師として誰知らぬ者のない存在となったのですが、これは講談などで江戸時代に一般的に広まった虚像で、明治後に史料を調べて実証的な確認作業が行われると、実在さえ不確かな存在となってしまいました。

しかし、昭和になってテレビの大河ドラマの影響で新史料が発見されたことで、武田信玄の家臣に「山本菅助」という人物がいたことは確かになったそう。しかし色々な史料をコツコツ調べれば調べるほど、勘助が信玄の軍師というのは創作で、華々しく活躍したことはないだろうし、各地に残る勘助の家伝、伝承も江戸時代になって講談で名高くなった後に作られた可能性が高いそう。

信玄の軍師として有名だが、実際に信玄の軍師だったかは不明

山本勘助は、駿河に生まれ50歳まで諸国を武者修行し、なかなか仕官先が見つからなかったが、その才能を見抜いた若き武田信玄に召し抱えられて実力を発揮し、敗色の色濃い合戦を逆転して勝利に導いたりして認められ、足軽大将として実戦の指揮を執るようになった軍師として知られた人。

そして信玄の側で色々有益な助言をしたり、城を築城したりと多大な貢献をしたが、川中島の合戦で勘助の作戦が失敗し、責任を取って討ち死にしたということになっています。しかしこれがすべて「甲陽軍鑑」の中だけにしか登場しないため、武田家の滅亡後、信玄時代の家臣のしっかりした記録もほとんどないとはいえ、信玄の右腕としての勘助の存在そのものが他の史料で証明できない虚構の軍師ということに。

最近になって「山本菅助」の存在が確認されて、実在の人物ではあることが判明したのですが、果たして勘助は、江戸時代に武田信玄が伝説化した過程で作り出されたキャラクターで幻の人物なのかどうかについて、勘助の果たしたという功績、存在の解明についての今後の研究が待たれるところです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

武田信玄の軍師と言われた「山本勘助」をわかりやすく歴女が解説

今回は山本勘助を取り上げるぞ。武田信玄の軍師と言われているが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、山本勘助について5分でわかるようにまとめた。

1-1、山本勘助は、三河の国または駿河の国の生まれ

山本勘助(やまもとかんすけ)は、「甲陽軍鑑」、「北越軍談」の記述を引用して書かれたという「甲斐国志」によれば、明応2年(1493年)または明応9年(1500年)、三河国(現愛知県東部)、または駿河国(現静岡県東部)で誕生。

父は駿河国富士郡山本(現静岡県富士宮市山本)の今川家の家臣吉野貞幸と母安の3男で、幼名は源助。勘助は12歳で牛久保城(現愛知県)の城主牧野家の家臣大林勘左衛門の養子となって、勘助晴幸と改名、号は道安、出家して道鬼斎。

1-2、勘助、諸国へ武者修行

勘助は、大林家での少年期に兵法を学び、20歳になると武者修行の旅へ出て、5年後の25歳のときには伊賀忍術のルーツでもある山伏の兵法を学ぶために、真言宗の総本山高野山に参籠しました。

そして摩利支天像を授かって自身の守護神に定め、その後も四国、山陰、山陽、九州まで、諸国をまわり各地の大名に仕えつつ兵法の修行に励んだそう。また兵法修行に合わせて、全国にある城を検分して築城技術や知識も身に付けたということです。

1-3、勘助、今川家へ仕官できず浪人暮らしに

勘助は34、35歳ごろに大林家に戻ったが、大林家に男子が誕生していたため、山本姓にもどって再び関東方面に武者修行に出ました。そして天文5年(1536年)には駿河の大名今川義元へ仕官を希望したが、勘助が、片目と手足が不自由で供を連れていなかったため仕官が叶わなかったということで、勘助は40歳を過ぎても浪人のままだったということ。

2-1、勘助、若き武田信玄に召し抱えられる

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50歳前後となった勘助は、兵法家としての名声が諸国に聞こえるようになり、武田家の重臣板垣信方が、駿河国に城取り(築城術)に通じた者がいると23歳の若き甲斐国領主武田信玄(晴信)に勘助を推挙。そして天文12年(1543年)に武田家は勘助を知行100貫という破格の待遇で召抱えようと申し入れたということ。

庵原忠胤(いはらただたね、勘助の叔父で今川家家臣)は勘助に、武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行けと言ったが、勘助はあえて武田家のために朱印状を受けずに甲府へ赴き、信玄と対面、信玄は勘助の才を見抜いて知行200貫で召し抱えることに

2-2、勘助、信玄に信頼される

信玄は「城取り」や諸国を修行したため情勢について知識のある勘助と語って知識の深さに感心し、信頼をあつくしたということですが、新参者への破格の待遇のため、家中の南部下野守が勘助を誹謗したが、信玄は南部を改易して勘助を厚遇、南部はその後各地をさまよった挙句に餓死したという話まであるそう。 そして同年、晴信が信濃国へ侵攻すると、勘助は9つの城を落とす大功を立てて100貫を加増され知行300貫に。

しかし無縁の浪人である勘助を武田家がいきなり200貫で召し抱えるというのは無理があるために、実は勘助の家系は、清和源氏の流れを汲んだ駿河源氏の吉野氏の子孫なので、吉野氏の親戚にあたる武田家の一門穴山氏の推挙で武田家に仕えたという話もあるということです。

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