
3-4、情報収集の組織も
信玄は諜報活動のために「三ツ者(みつもの)」と呼ばれる情報収集のための組織を作り、僧侶や商人などに身をやつした諜報員たち、また身寄りのない少女を歩き巫女として、各地で情報を集めさせたということで、信玄は他国の情勢についてや武将たちの日常の活動や趣味などの細部に渡って詳細な情報を手に入れ、戦略を立てたり調略に使ったりしていたということです。
3-5、水洗トイレを愛用
信玄は躑躅ヶ崎館に、自分専用の水洗トイレを設置、館の裏から流れる水を利用し、信玄が紐を引いて鈴を鳴らすと、配置された数人の家臣に知らされて上流の者が水を流す仕組みだったそうで、信玄はトイレを「草木(臭き)が絶えぬから」と「山」と呼んでいたそう。
この信玄専用トイレは敵襲に備えて身動きが取れるようにと6畳の広さがあり、室内には机や硯も常備されていて、書状を書いたり作戦を考えたりもしたといわれています。

ほほう、大名ともなれば常にお付きがいるはずだから、ひとりになって集中して考えたかったんだろうな
3-6、信長の贈り物を梱包箱で確かめる
信長の養女と勝頼との結婚のやり取りの際、信玄は梱包の漆箱を調べると、漆が何度も重ね塗りされた最高級品だったということが判明。信玄は信長が品物だけでなく梱包にまで高価な漆箱を用いることで、織田家の誠意の表れと大変な高評価をしたということです。
信長は尾張の守護代の家柄で守護大名の武田家の格下で、勝頼に嫁がせたのが信長の実の娘でなくて遠縁の養女とわかれば信玄は激怒しただろうと言われていますが、信長は信玄を恐れてかなり気を使ったことが伺われるエピソードでは。
また、信玄は、甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の違いを重視していて、長尾家出身の謙信が関東管領の上杉家の養子となったのちは格式が逆転したのが愉快でなかったらしく、最期まで謙信を長尾姓で呼んでいたそう。
3-7、信玄の死因は
「甲陽軍鑑」によると、信玄は20代の頃から度々体調を崩したということで、史料などから、胃がんか肺結核を患っていたのではと言われています。
戦国最強の武将と言われたが、上洛途中で病死
武田信玄は甲斐の国の守護大名の嫡男として生まれ、父信虎に廃嫡されかかったが、逆に父を追放して領主となった人。
領主となったのちは独立心旺盛な甲斐の武将たちをリーダーシップを発揮して統率し、信玄堤なども作って領国を上手に治めた上に信濃にも進出、川中島では宿敵の上杉謙信と5度にわたっての激突は名勝負として伝説に。そして近隣と同盟を結んでいよいよ京都へ上洛開始、まだ若造だった徳川家康など三方ヶ原で粉砕しちゃったほどの強力な軍団でしたが、信玄は惜しくもその直後に病没し、念願の瀬田に武田の旗を掲げることは出来ませんでした。
その後、跡取りの勝頼は頑張ったのだけど、信玄のカリスマ的支配には到底及ばず、10年で新興勢力の織田軍団に滅ぼされてしまいましたが、「甲陽軍鑑」とか、また武田軍団の生き残りは家康が召し抱えたなどもあって、江戸時代以降も信玄の人気はうなぎのぼりになり、現代にも通じる名言も多数残した伝説的武将となったのですね。