日本史

上杉謙信と川中島で戦った甲斐の守護大名「武田信玄」をわかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は武田信玄を取り上げるぞ。上杉謙信のライバルでおなじみだが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田信玄について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田信玄は、甲斐の生まれ

武田信玄(たけだしんげん)は、大永元年(1521年)11月に甲斐国守護大名の武田信虎の嫡子として誕生。母は正室で西郡の有力国人大井氏の娘の大井夫人。

きょうだいは夭折した兄がひとり、4歳下の信繫をはじめとして弟が11人、妹が9人。
幼名は太郎または勝千代で、諱は晴信、号は機山、出家して徳栄軒信玄と名乗りました。信玄は、父信虎が、進攻して来た福島正成との飯田河原の戦いの最中に、母が一時避難していた甲府の躑躅が崎の館の詰城である要害城で生れたとされています。

信玄の武田家は
信玄は、甲斐国の守護大名で、甲斐源氏武田家第18代武田信虎の嫡男という名門
織田信長や徳川家康、豊臣秀吉のように系図をごまかさなくてもいい本物の清和源氏で、新羅三郎義光(しんらさぶろう)の子孫として鎌倉幕府以来の守護大名というお家柄です。

武田家の甲斐国は、上杉禅秀の乱がきっかけで守護武田氏の権威が一時失墜して有力国衆が台頭したものの、信玄の曾祖父の信昌の時代に守護代跡部氏を排斥して国衆勢力を服従させたそう。そして信玄の父信虎の時代には武田宗家の内紛、また有力国衆が新たに台頭したり、対外勢力もと再びややこしくなったが、信虎が甲斐統一を達成、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を作って家臣団組織も整備してと、戦国大名としての地位を確立しました。

信玄は父の築いた体制を受け継ぎ、隣国の信濃に侵攻するという実力も伴った大名なのですね。

1-2、信玄の子供時代

image by PIXTA / 34254159

信玄は幼少期、母が招いた長禅寺の禅僧岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)から禅や兵法を学び、学問が好きな文学青年に成長。しかし父信虎から見ると軟弱にみえたようで、4歳下の同母弟で信虎のお気に入りだったという信繫とは常に較べられてけなされていたということで、据え物斬りで怖気づいたとか、信玄が元服前に父の名馬を所望したのが気に食わなかったなどの話があり、ついには父信虎が正月の祝いの席で信玄を差し置いて、信繫に杯を与えた(家督相続に関わる重大な扱いの違いのあらわれ)ということがあったということですが、弟信繫は信玄に対して驕る様子は全くなく、信玄を慕い従順な態度で右腕に徹したということです。

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優秀な弟がいると兄貴としてはやり辛かったのだろうが、兄貴をバカにしない弟はよっぽど賢かったか、父親が兄貴の優秀さを見抜けなかったんだろうな

1-3、信玄、元服し、初陣で殿を務める

天文5年(1536年)3月、信玄は15歳で元服し、室町幕府の足利義晴将軍から諱を一時もらって晴信と名乗り、父信虎のときとおなじく従5位下大膳大夫に任ぜられたそう。そして11月に父に従って初陣、武田軍約8千の軍勢で佐久平賀城主平賀玄信ら2千の籠る海ノ口城に攻め、海ノ口城を包囲、大雪と必死の抵抗で34日間で数回攻撃したが落城できずに信虎が甲府に帰った後、信玄は殿軍(しんがり)として3百人余りの兵を連れて引き返し、油断していた平賀軍の虚を突いて一瞬にして城を攻め落としたとされています。しかしこの話は「甲陽軍鑑」にはあるが、他の史料には登場しないそう。

そして翌年天文6年(1537年)2月に信玄は今川義元の斡旋で、公家三条公瀬の次女を正室に迎えることになり、この結婚からは長男義信を頭に3男2女が誕生。
尚、信玄はそれ以前の天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主上杉朝興の娘が正室として迎えられ、翌年に出産で親子とも死去したということですが、元服前に結婚していたとは?

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