ナチス政権時代のドイツではヒトラーにより人種差別的な政策がとられた。アーリア人至上主義に基づきユダヤ人を標的に迫害。第二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所などにユダヤ人を囚人として移送して、男性・女性と性別を問わず大量殺害した。

多くの犠牲者を生んだユダヤ人迫害とはどんなものなのか、当時のドイツ人の民族主義と関連づけながら、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「ユダヤ人迫害」を避けて通ることはできない。戦争中のナチスのホロコーストは、ドイツ政府が正式に謝罪したとはいえ、今でもドイツ国民の記憶に刻み込まれている。そこでユダヤ人迫害の歴史を関連する写真とともにまとめてみた。

ユダヤ人迫害とは

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Bundesarchiv, Bild 146-1970-005-28 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

ヨーロッパでは、キリストを十字架に送ったのがユダヤ人であるという話から、中世ごろからユダヤの迫害が始まりました。そのなかでもとくに悲惨なユダヤ人迫害がナチス・ドイツによるホロコースト。ユダヤ人を絶滅させようとする政策です。

ナチス政権によるユダヤ人大量虐殺

ユダヤ人迫害が行われたのは第二次世界大戦中。ナチス党のトップである独裁者ヒトラーがユダヤ人をターゲットに大量虐殺、たくさんの犠牲者を生み出しました。

ヒトラーは、若いころはユダヤ人の友達がいるなど、差別意識はないように見えました。ただ、若いころに関わったユダヤ人の友人と金銭トラブルがあり、差別意識が生まれたと推測されています。

アーリア人至上主義が虐殺の根拠

ヒトラーがユダヤ人を迫害する際に根拠としたのがアーリア人至上主義。もともとアーリア人とは、インド・ヨーロッパ語族に属する民族のことをゆるやかに指していました。厳密にはインドやイランの系統の民族を意味します。

拡大解釈のすえに理想的な民族の姿として美化。ほとんど神話に近い存在になります。それをドイツの民族主義と結びつけ、アーリア人のなかでいちばん純化されているのがゲルマン民族であると考えました。

ヒトラーは自伝的著作である『我が闘争』のなかでアーリア人についての独自解釈を展開しています。彼によるとアーリア人と、その最上位にあるゲルマン人は、文化を創造できるただひとつの民族。アーリア人を「文化の創造者」と位置づけました。それに対してユダヤ人は「文化の破壊者」。そこで、アーリア人の血統がユダヤ人により破壊されないように虐殺するという風に、自身の政策を正当化しました。ただ、ヒトラーが考えるアーリア人は幻想のようなもので生物学的には存在しません。

強制収容所でユダヤ人迫害

image by PIXTA / 58555313

ユダヤ人迫害の手段としてとくに有名なものが強制収容所。アンネ・フランクという少女の日記により、強制収容所に送られて命を落とすまでのユダヤ人の苦難が広く知られることになりました。

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親衛隊がユダヤ人狩りを実施

ナチスは、ドイツや占領地に住んでいるユダヤ人をとらえて強制労働をさせる、強制収容所に送るなどしました。ユダヤ人は捕まることを恐れて潜伏。それを見つけ出すのが親衛隊の役割でした。

これは「ユダヤ人狩り」と呼ばれ、ドイツが占領した国でもおこなわれます。そのため、ドイツのほかフランスをはじめとするヨーロッパ各地で「ユダヤ人狩り」が実行されていました。

殺害の方法は多種多様

ユダヤ人迫害の方法はさまざまでした。ひとつは工場に送って強制労働させること。ここでは必要最低限の水と食料だけを与え、ドイツのために死ぬまで働かせることです。主に軍需工場が送り先となりました。

もうひとつが絶滅収容所に送ること。ここでは、銃殺やガス室殺害、人体実験などを通じて直接的に殺しました。労働に適さない、思想に問題があるなど、何らかの基準のもと送られていたようです。

強制収容所のなかでもっとも有名なものがアウシュビッツ強制収容所。ドイツの占領地であったポーランド南部にありました。ここに建設されたのは、交通の便の良さ、炭坑や石炭の産地との距離、ソ連の侵攻の防衛になるなど理由はさまざま。過酷な労働を強いるとともに、それに適さない人はガス室に送りこむ、ふたつの機能を持つ場所でした。現在、二度とおなじ過ちを繰り返さないという反省をこめて、収容所の建物は世界遺産に登録されています。

ユダヤ人迫害の方向性の変化

image by PIXTA / 55501824

実は、ナチス政権は最初からユダヤ人を絶滅させるという考えではなかったようです。最初は、中世から存在していたゲットー(強制隔離地区)のような場所をつくり、そこに移送する計画でした。

当初はマダガスカル島に移送することを計画

反ユダヤ主義の学者の一部が、ドイツからユダヤ人を追い出してアフリカ大陸の南方にあるマダガスカル島に移住させるというアイデアを考えます。これがこれがマダガスカル計画。ナチスの指導者たちも注目するようになりました。

マダガスカル計画はナチスの上層部で何度も議論するものの実現には至らず。そのまま強制移住ではなく強制労働・虐殺にシフトしました。実際に移住が行われていたらマダガスカル島は経済破綻しただろうと言われています。

ポーランド占領が迫害の分岐点

ナチス政権がユダヤ人の迫害を本格化させるのがポーランド侵攻の時期。ポーランドにもユダヤ人が数多く住んでいたため、占領することで人口が一気に増えました。

ナチス政権はユダヤ人を隔離すると共に、ソ連に勝利したらそこに送り込むことを思案。しかしソ連に勝利する見込みはなくなり、強制収容所における労働や殺害に方向転換しました。

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ユダヤ人迫害の背景にはキリスト教が関係?

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Vasily Petrovich Vereshchagin - first upload:art-catalog.ru second upload: freechristimages.org, パブリック・ドメイン, リンクによる

ユダヤ人迫害=ヒトラーと思われがちですが、ヨーロッパでは昔から行われてきました。キリスト教にて伝わるイエス・キリストの最期にユダヤ人が関わったという逸話がその原因です。

キリスト教の位置づけは裏切り者

キリスト教はユダヤ教から派生して生まれた宗教。律法に厳しいユダヤ教を批判したのがイエス・キリストでした。そのためユダヤ教の上層部の怒りを買い、反逆を企てている危険人物と見なされます。その結果、十字架にはりつけとなり処刑されました。

ヨーロッパはキリスト教国家がメインとなります。それによりユダヤ人=悪とみなされ、ゲットーに隔離されるように。ユダヤ人は卑しい職業とされた金貸しなどで成功をおさめますが、それがさらにネガティブなイメージをつくりだしました。

アーリア人とユダヤ人の対立構造

ヒトラーが想像する世界は「アーリア人」と「ユダヤ人」という二つの民族だけの世界。彼にとってほかの民族は存在しないも同然でした。さらに彼が思い描く戦いは「勝つか負けるか」のどちらかだけという極端なものでした。

そこでヒトラーは上位にあるアーリア人を絶やさないように、そしてドイツ国民を守るために、ユダヤ人を排除するという思想を固めていきます。ほとんど仮想敵のような存在でした。

ヒトラーが極端な人種観を持つようになった背景として、当時の科学が深くかかわっています。この当時、欧米を中心に「ダーウィニズム」が流行。これは、ダーウィンの「適者生存」を人間世界にあてはめ、脅威となる人種を排除しなければ自分たちが滅びると信じたのです。ダーウィンの「適者生存」は、生物の進化の歴史を語るものであり、差別観はまったくありません。「ダーウィニズム」は、科学の力によって人種差別を正当化してしまったのです。

ユダヤ人迫害の根拠となったニュルンベルク法

Reichsparteitag. Der grosse Appell der Politischen Leiter auf der von Scheinwerfern berstrahlten Zeppelinwiese in... - NARA - 532605.tif
不明または not provided 翻訳 - U.S. National Archives and Records Administration, パブリック・ドメイン, リンクによる

ニュルンベルク法とはナチス政権時代のドイツで施行された法律。正式には「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」のふたつをあわせてニュルンベルク法と言います。

ドイツ人の血と名誉を守るために何をした?

ニュルンベルク法の目的はドイツ人の血統を守ること。そのため異なる民族の迫害を法的に合法化しました。また、政治的にナチスと相いれない立場の人を排除することも法的に認めます。

ドイツ人の血と名誉を守るために排除されたのは、政治的に相いれない左翼、そして非アーリア人であるユダヤ人でした。これらによりふたつのグループは公務員から排除されることになります。

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ニュルンベルク法を通じてユダヤ人とは何かを定義

ニュルンベルク法におけるユダヤ人の定義は非常にあいまいでした。なぜならユダヤ人は混血化が進んでおり、どこまでがユダヤ人でどこからがドイツ人なのか、線引きをすることが難しかったのです。

本人がユダヤ教徒ではなくても、両親や祖父母が信仰しているとユダヤ人とされました。血統については、修正のすえ、4分の1がユダヤ人の場合はドイツ人。半分の場合はユダヤ人とみなされました。

ユダヤ人迫害から守った人々

Schindlers factory Brnenec CZ 2004b.JPG
photo taken by Miaow Miaow in August 2004 - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

ユダヤ人を迫害するために法的な整備も進められ、労働力を確保するための強制収容所の数も増やしていきます。迫害が過激になっていく状況下、ユダヤ人を守ろうとした人もいました。そこで日本で有名なふたりの行動をご紹介します。

実業家のオスカー・シンドラー

オスカー・シンドラーは現在のチェコで生まれたドイツ人実業家。工場で製造したものの闇取引で財を成します。その後、彼の工場は軍需工場となり、ユダヤ人が強制労働するために送り込まれました。

シンドラーは、工場の数を増やして殺される前のユダヤ人を労働需要があるとして引き取り、救出し続けました。闇取引でもうけたお金で食料を買って寝る場所も用意。多くのユダヤ人がそれにより救われます。

外交官の杉原千畝

杉原千畝は日本人の外交官。リトアニアに赴任しているとき、ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ難民を救済。外務省の指令に背くかたちで、難民にビザを発給したことで知られています。

日本とドイツは同盟を結んでいたため、ユダヤ人を救出したことがばれると、罷免される恐れがありました。それにもかかわらず杉原千畝は大量のビザを発行。それは「命のビザ」と呼ばれました。

シンドラーの名前が有名になったが、ユダヤ系アメリカ人のスティーブン・スピルバーグ監督による映画『シンドラーのリスト』でしょう。彼の名前が世界中に知れ渡ることになりました。杉原千畝はビザ発給の責任が問われて事実上の解雇。夫人の回想『6千人の命のビザ』がテレビドラマ化され、日本人は彼の名前を初めて知ることになります。2009年には「世界に誇れる日本人」のランキングでトップ10入を果たしました。

「ユダヤ人迫害」は現代でも続いている

実は、現代のドイツでも反ユダヤ主義は必ずしも消えているとは言えません。2019年に、反ユダヤ主義政策を担当する高官が、伝統的な帽子であるキッパの着用を控えるように呼びかけます。これはドイツ国内でユダヤ人に対する反発が高まり、迫害を受ける可能性があることが理由。ヨーロッパでは右傾化がすすむと反ユダヤ主義に向かう傾向が今でもあるのです。「ユダヤ人迫害」は過去の歴史ではなく、現在の問題としてとらえる必要があるのですね。

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ドイツナチスドイツヨーロッパの歴史世界史歴史

ドイツが行った「ユダヤ人迫害」とは?経緯やその実情を元大学教員がわかりやすく解説

親衛隊がユダヤ人狩りを実施

ナチスは、ドイツや占領地に住んでいるユダヤ人をとらえて強制労働をさせる、強制収容所に送るなどしました。ユダヤ人は捕まることを恐れて潜伏。それを見つけ出すのが親衛隊の役割でした。

これは「ユダヤ人狩り」と呼ばれ、ドイツが占領した国でもおこなわれます。そのため、ドイツのほかフランスをはじめとするヨーロッパ各地で「ユダヤ人狩り」が実行されていました。

殺害の方法は多種多様

ユダヤ人迫害の方法はさまざまでした。ひとつは工場に送って強制労働させること。ここでは必要最低限の水と食料だけを与え、ドイツのために死ぬまで働かせることです。主に軍需工場が送り先となりました。

もうひとつが絶滅収容所に送ること。ここでは、銃殺やガス室殺害、人体実験などを通じて直接的に殺しました。労働に適さない、思想に問題があるなど、何らかの基準のもと送られていたようです。

強制収容所のなかでもっとも有名なものがアウシュビッツ強制収容所。ドイツの占領地であったポーランド南部にありました。ここに建設されたのは、交通の便の良さ、炭坑や石炭の産地との距離、ソ連の侵攻の防衛になるなど理由はさまざま。過酷な労働を強いるとともに、それに適さない人はガス室に送りこむ、ふたつの機能を持つ場所でした。現在、二度とおなじ過ちを繰り返さないという反省をこめて、収容所の建物は世界遺産に登録されています。

ユダヤ人迫害の方向性の変化

image by PIXTA / 55501824

実は、ナチス政権は最初からユダヤ人を絶滅させるという考えではなかったようです。最初は、中世から存在していたゲットー(強制隔離地区)のような場所をつくり、そこに移送する計画でした。

当初はマダガスカル島に移送することを計画

反ユダヤ主義の学者の一部が、ドイツからユダヤ人を追い出してアフリカ大陸の南方にあるマダガスカル島に移住させるというアイデアを考えます。これがこれがマダガスカル計画。ナチスの指導者たちも注目するようになりました。

マダガスカル計画はナチスの上層部で何度も議論するものの実現には至らず。そのまま強制移住ではなく強制労働・虐殺にシフトしました。実際に移住が行われていたらマダガスカル島は経済破綻しただろうと言われています。

ポーランド占領が迫害の分岐点

ナチス政権がユダヤ人の迫害を本格化させるのがポーランド侵攻の時期。ポーランドにもユダヤ人が数多く住んでいたため、占領することで人口が一気に増えました。

ナチス政権はユダヤ人を隔離すると共に、ソ連に勝利したらそこに送り込むことを思案。しかしソ連に勝利する見込みはなくなり、強制収容所における労働や殺害に方向転換しました。

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