バテレン追放令とは、イエズス会宣教師の布教活動により拡大したキリスト教の禁止を発令したもの。多くのキリシタン大名や日本人信者は改宗を求められた。のちに江戸幕府はカトリック信者であるポルトガル商人を国外退去させ、長崎に出島をつくった。

当時の秀吉や家康がキリシタンを恐れた理由は何なのでしょうか。関連する人物を取り上げながら、バテレン追放令の歴史や海外の反応を、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本史をたどるとき「バテレン追放令」を避けて通ることはできない。豊臣秀吉や徳川家康の時代になるとキリシタンを追放する流れが生まれる。スペイン征服を恐れた、奴隷貿易があったなど、さまざまな理由があった。そこでバテレン追放令の内容をまとめてみた。

バテレン追放令とは?

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バテレン追放令とは、1587年に発令されたキリスト教の布教と南蛮貿易を規制する文書。戦国時代からイエズス会などの宣教師の布教活動により増え続けていたキリスト教信者を減らすこともその目的でした。

豊臣秀吉が発令した禁制文書

バテレン追放令を発令したのは豊臣秀吉。織田信長の時代、キリスト教の布教は容認されていました。秀吉もこの方針を継承。イエズス会準管区長の宣教師ガスパール・コエリョに布教許可書を渡しています。しかしながら、キリスト教信者の増加やポルトガル商人の権力拡大を受けて秀吉は方針を転換するようになりました。

原本は長崎県の博物館に残っている

バテレン追放令の原本は長崎県に現存。平戸市にある松浦資料博物館に残されています。そこにある「バテレン文書」は5か条からなる文書。さらに伊勢神宮の神宮文庫から11か条のバージョンが見つかりますが、その関係性は明らかになっていません。

豊臣秀吉がバテレン追放令を発令した理由

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狩野光信 - 1. Shouzou.com [1], Kōdai-ji temple warehouse, Kyoto, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

信長の方針を継承してキリスト教の布教を認めていた秀吉ですが、いくつかのできごとを経て考え方が変化。イエズス会やポルトガル商人が利権を牛耳っており、コントロールしきれないと考え始めます。

イエズス会の領地となっていた長崎

秀吉が驚いたことのひとつが、長崎の領地がイエズス会に寄進されていたこと。秀吉の立場からすると、すべての土地は大名が管理するとはいえ秀吉のものです。それが天下統一の考え方。しかしながら、秀吉が知らないうちに土地がイエズス会に寄進され、怒りを買うことになりました。

キリシタン大名の大村純忠が寄進

イエズス会に長崎の土地を寄進したのはキリシタン大名であった大村純忠。彼は戦国時代、長崎の港をポルトガル人に提供し、大きな利益を得ていました。他の戦国大名に奇襲されたときポルトガル人の支援によって撃退に成功。そこで純忠は、お礼としてイエズス会に長崎を寄進します。

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バテレン追放令とはどのような内容?

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Toyotomi Hideyoshi (豊臣 秀吉, March 17, 1537 – September 18, 1598) - Jomon.jp.net [1]. Non-creative photograph of a Public Domain 2D document., パブリック・ドメイン, リンクによる

バテレン追放令は秀吉は信仰の自由を認めながらも一部の状況に対して「けしからん」と怒っているもの。どっちつかずの曖昧な内容になりました。ただ、その内容から、当時のキリスト教やポルトガル商人の権力拡大の様子がよく分かります。

キリスト教を信仰すること自体は否定しない

バテレン追放令では、キリスト教の信仰自体は否定していません。信仰心はそれぞれの心のなかにあるものだ理解を示しています。ただ、大名などが領地の人々に改宗を無理強いすることはだめ。知行地が一定の広さ以上ある大名は、秀吉の許可をもらえば信仰できますが、それ以下の場合も、信じることは自由としています。

キリスト教の教会に領地を与えることは禁止

秀吉が問題視しているのはキリスト教を信仰することではなく領地の問題。秀吉は、すベての土地は自分のものであると考えています。そのため自分の許可なくキリスト教の教会などに土地を寄進することははっきりと禁じました。勝手に寄進されると天下統一がゆらぐと考えたのです。

奴隷貿易や肉食に不快感を示す

もうひとつ、秀吉が嫌がっているのは奴隷貿易。実際に奴隷貿易が行われていたかどうかは定かではありません。しなしながら、キリスト教に改宗しない農民などを奴隷として売買しているという噂がありました。また日本は古来から肉食は禁止。そのためウシやウマを食べる西洋の習慣も危惧しています。

豊臣秀吉は宣教師と対立してバテレン追放令を発布

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とくに九州の大名たちはキリスト教の宣教師と上手く関係を築くことで、互いに利益を得てきました。しかしながらキリスト教が広がるにつれて傲慢な態度をとる宣教師も出てきます。それにより秀吉は態度を硬化しました。

神道や仏教を否定する教えが流通

キリシタン大名の領地内では、神社やお寺などが破壊されるなどの暴力的行為が頻発。それに対してイエズス会準管区長の宣教師ガスパール・コエリョは、キリスト教の教えにしか救いがないことを人々は悟ったからだと回答。それが怒りを買いました。

ガスパール・コエリョがスペインの武力を誇示

さらにガスパール・コエリョは、スペイン艦隊を指揮しているのは自分だと発言。大砲をたくさん積んだ船を秀吉に見せるなど威嚇的な言動をしました。実際は、ガスパール・コエリョは軍隊を動かす権限はなく、まわりのイエズス会宣教師にも彼の言動は批判されました。

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バテレン追放令が禁止するのは布教活動のみ

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バテレン追放令は、のちの禁教令とは異なり禁止するのは布教のみ。信仰そのものは黙認します。秀吉の時代に厳しい禁教が実行されることはありませんでした。

イエズス会の宣教師は強硬策に出ようとする

バテレン追放令により、表立った活動をするとさらに規制が厳しくなると危惧した宣教師たち。一度、布教活動を自粛します。そして、平戸の近くにある島に集まり、その後の方針を話し合った結果、長崎の植民地化を提案。しかし、キリシタン大名の理解は得られませんでした。

サン=フェリペ号事件をきっかけに秀吉は態度を硬化

キリスト教を黙認するというかたちをとった秀吉ですが、彼の態度が硬化する事件が起こります。それがサン=フェリペ号事件。台風により四国に漂着したサン=フェリペ号の船長が、スペインの領土の大きさを自慢したことで秀吉は激怒。宣教師たちは危機を感じ、ふたたび潜伏しました。

バテレン追放令は「二十六聖人の殉教」に発展

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秀吉は徹底した禁教政策は行いませんでしたが、唯一の例外となるが「二十六聖人の殉教」と呼ばれるもの。日本では処刑の当日である2月5日が記念日とされています。

京都奉行の石田三成が処刑候補者をリストアップ

サン=フェリペ号事件によりキリスト教に対する警戒心を高めた秀吉は、京都奉行の石田三成に命じて処刑候補者のリストアップをはじめます。フランシスコ会員、イエズス会会員、そのほかの信徒などが捕縛されました。キリシタン大名も候補にあがりましたが、光成の裁量で除外されます。

最年少の処刑者は12歳のドビコ茨木

処刑が決まった24名は耳たぶを切り落とされて市中引き回しとなりました。処刑者を世話するために付き添っていた日本人も加えられて合計26名に。日本人20名、スペイン人4名、ポルトガル人とメキシコ人が各1名でした。最年少の処刑者は12歳のドビコ茨木。処刑するにはあまりに幼いためキリスト教の信仰を捨てたら許すと提案するも、彼はそれを断ります。

江戸幕府によりバテレンを本格的に追放

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不明 - detail from , パブリック・ドメイン, リンクによる

あいまいな状況のまま潜伏してしのいでいた宣教師たちが本格的に国外追放となるのは江戸時代。家康が征夷大将軍として政権を獲得したあとです。

布教活動がふたたび活発になり禁教が決定

江戸幕府も当初はキリスト教に寛容な政策をとっていたものの、ドミニコ会やアウグスティノ会など別の会派の宣教師たちが布教活動を開始。処刑の犠牲者を出したフランシスコ会もふたたび布教をはじめます。そのようななか、日本との取引を狙うオランダがポルトガルの排除や禁教を提案。さらに神道や仏教の勢力も、キリスト教の排除を進言します。さらにキリシタン大名の不祥事も続き、キリスト教の禁止が決定されました。

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キリシタン大名の高山右近はマニラに追放

1612年に禁教令が発布。それによりキリスト教の宣教師たちや信者たちはマニラやマカオに追放されます。キリシタン大名であった高山右近も国外追放。彼はマニラでスペイン総督に歓迎されるものの、このときすでに60代。長い船旅の疲れも追い打ちをかけ、翌年にマニラで亡くなります。聖アンナ教会にて10日間にわたる盛大な葬儀が開催。遺骨はイエズス会の聖堂にて保管されました。

鎖国令によりバテレン追放令は徹底される

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Isaac Titsingh - Koninklijke Bibliotheek Bijzonderheden over Japan, behelzende een verslag van de huwelijks plegtigheden, begrafenissen en feesten der Japanezen, de gedenkschriften der laatste Japansche keizers, en andere merkwaardigheden nopens dat rijk, パブリック・ドメイン, リンクによる

家康はキリスト教の信者を処刑するなど迫害はしませんでしたが、次の秀吉の代になると対応が厳しくなります。そこでしかれたのが鎖国政策。貿易ができるのは長崎の出島だけとなりました。最初はポルトガル人が出島に滞在するものの排除。かわりにオランダ人が入りました。

島原の乱が鎖国令のきっかけになる

1616年に秀忠は鎖国令を出し、すべての人々がキリスト教を信仰することを禁止します。このように態度が厳しくなった理由のひとつが島原の乱。飢饉の時期における厳しい年貢の取り立てに対して農民たちが一揆をおこします。その拠り所としてキリスト教の信仰があったことから幕府に禁教を決意させました。各地に潜伏している宣教師もおり、見つかると処刑されるようになります。

江戸幕府は隠れキリシタンの探索と処刑を継続

幕府はひっそりと信仰を続けている「隠れキリシタン」の摘発に力を入れるように。形骸化していたバテレン追放令が現実に実行されるかたちになりました。密告者には報奨金が与えられるように。とくに宣教師の潜伏を密告すると銀500枚が支払われました。キリスト教の信者は信仰を捨てることを強要され、血判によりそれを誓わせます。本当に教えを捨てたのかを見定めるために使われたのが「踏み絵」でした。

キリスト教は禁止されるものの信仰は続けられる

長崎を中心に多数いたポルトガル人商人と宣教師たちを出島に住まわせたあと、国外退去を命じて南蛮貿易も中止となりました。そのあとは、中国と新たな取引先となったオランダのみが出入りを許され、鎖国政策が徹底されます。これまでの宣教師はカトリック系でしたがオランダはプロテスタント。貿易を優先させて布教は行いませんでした。日本では「隠れキリシタン」の風習が定着。見つからないように形をかえて信仰が続けられました。

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安土桃山時代日本史歴史

「バテレン追放令」とは?発令された背景やその後の影響を元大学教員がわかりやすく解説

バテレン追放令とは、イエズス会宣教師の布教活動により拡大したキリスト教の禁止を発令したもの。多くのキリシタン大名や日本人信者は改宗を求められた。のちに江戸幕府はカトリック信者であるポルトガル商人を国外退去させ、長崎に出島をつくった。

当時の秀吉や家康がキリシタンを恐れた理由は何なのでしょうか。関連する人物を取り上げながら、バテレン追放令の歴史や海外の反応を、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本史をたどるとき「バテレン追放令」を避けて通ることはできない。豊臣秀吉や徳川家康の時代になるとキリシタンを追放する流れが生まれる。スペイン征服を恐れた、奴隷貿易があったなど、さまざまな理由があった。そこでバテレン追放令の内容をまとめてみた。

バテレン追放令とは?

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バテレン追放令とは、1587年に発令されたキリスト教の布教と南蛮貿易を規制する文書。戦国時代からイエズス会などの宣教師の布教活動により増え続けていたキリスト教信者を減らすこともその目的でした。

豊臣秀吉が発令した禁制文書

バテレン追放令を発令したのは豊臣秀吉。織田信長の時代、キリスト教の布教は容認されていました。秀吉もこの方針を継承。イエズス会準管区長の宣教師ガスパール・コエリョに布教許可書を渡しています。しかしながら、キリスト教信者の増加やポルトガル商人の権力拡大を受けて秀吉は方針を転換するようになりました。

原本は長崎県の博物館に残っている

バテレン追放令の原本は長崎県に現存。平戸市にある松浦資料博物館に残されています。そこにある「バテレン文書」は5か条からなる文書。さらに伊勢神宮の神宮文庫から11か条のバージョンが見つかりますが、その関係性は明らかになっていません。

豊臣秀吉がバテレン追放令を発令した理由

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狩野光信 – 1. Shouzou.com [1], Kōdai-ji temple warehouse, Kyoto, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

信長の方針を継承してキリスト教の布教を認めていた秀吉ですが、いくつかのできごとを経て考え方が変化。イエズス会やポルトガル商人が利権を牛耳っており、コントロールしきれないと考え始めます。

イエズス会の領地となっていた長崎

秀吉が驚いたことのひとつが、長崎の領地がイエズス会に寄進されていたこと。秀吉の立場からすると、すべての土地は大名が管理するとはいえ秀吉のものです。それが天下統一の考え方。しかしながら、秀吉が知らないうちに土地がイエズス会に寄進され、怒りを買うことになりました。

キリシタン大名の大村純忠が寄進

イエズス会に長崎の土地を寄進したのはキリシタン大名であった大村純忠。彼は戦国時代、長崎の港をポルトガル人に提供し、大きな利益を得ていました。他の戦国大名に奇襲されたときポルトガル人の支援によって撃退に成功。そこで純忠は、お礼としてイエズス会に長崎を寄進します。

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