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当時の秀吉や家康がキリシタンを恐れた理由は何なのでしょうか。関連する人物を取り上げながら、バテレン追放令の歴史や海外の反応を、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- バテレン追放令とは?
- 豊臣秀吉が発令した禁制文書
- 原本は長崎県の博物館に残っている
- 豊臣秀吉がバテレン追放令を発令した理由
- イエズス会の領地となっていた長崎
- キリシタン大名の大村純忠が寄進
- バテレン追放令とはどのような内容?
- キリスト教を信仰すること自体は否定しない
- キリスト教の教会に領地を与えることは禁止
- 奴隷貿易や肉食に不快感を示す
- 豊臣秀吉は宣教師と対立してバテレン追放令を発布
- 神道や仏教を否定する教えが流通
- ガスパール・コエリョがスペインの武力を誇示
- バテレン追放令が禁止するのは布教活動のみ
- イエズス会の宣教師は強硬策に出ようとする
- サン=フェリペ号事件をきっかけに秀吉は態度を硬化
- バテレン追放令は「二十六聖人の殉教」に発展
- 京都奉行の石田三成が処刑候補者をリストアップ
- 最年少の処刑者は12歳のドビコ茨木
- 江戸幕府によりバテレンを本格的に追放
- 布教活動がふたたび活発になり禁教が決定
- キリシタン大名の高山右近はマニラに追放
- 鎖国令によりバテレン追放令は徹底される
- 島原の乱が鎖国令のきっかけになる
- 江戸幕府は隠れキリシタンの探索と処刑を継続
- キリスト教は禁止されるものの信仰は続けられる
この記事の目次
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ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本史をたどるとき「バテレン追放令」を避けて通ることはできない。豊臣秀吉や徳川家康の時代になるとキリシタンを追放する流れが生まれる。スペイン征服を恐れた、奴隷貿易があったなど、さまざまな理由があった。そこでバテレン追放令の内容をまとめてみた。
バテレン追放令とは?
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バテレン追放令とは、1587年に発令されたキリスト教の布教と南蛮貿易を規制する文書。戦国時代からイエズス会などの宣教師の布教活動により増え続けていたキリスト教信者を減らすこともその目的でした。
豊臣秀吉が発令した禁制文書
バテレン追放令を発令したのは豊臣秀吉。織田信長の時代、キリスト教の布教は容認されていました。秀吉もこの方針を継承。イエズス会準管区長の宣教師ガスパール・コエリョに布教許可書を渡しています。しかしながら、キリスト教信者の増加やポルトガル商人の権力拡大を受けて秀吉は方針を転換するようになりました。
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原本は長崎県の博物館に残っている
バテレン追放令の原本は長崎県に現存。平戸市にある松浦資料博物館に残されています。そこにある「バテレン文書」は5か条からなる文書。さらに伊勢神宮の神宮文庫から11か条のバージョンが見つかりますが、その関係性は明らかになっていません。
豊臣秀吉がバテレン追放令を発令した理由
信長の方針を継承してキリスト教の布教を認めていた秀吉ですが、いくつかのできごとを経て考え方が変化。イエズス会やポルトガル商人が利権を牛耳っており、コントロールしきれないと考え始めます。
イエズス会の領地となっていた長崎
秀吉が驚いたことのひとつが、長崎の領地がイエズス会に寄進されていたこと。秀吉の立場からすると、すべての土地は大名が管理するとはいえ秀吉のものです。それが天下統一の考え方。しかしながら、秀吉が知らないうちに土地がイエズス会に寄進され、怒りを買うことになりました。
キリシタン大名の大村純忠が寄進
イエズス会に長崎の土地を寄進したのはキリシタン大名であった大村純忠。彼は戦国時代、長崎の港をポルトガル人に提供し、大きな利益を得ていました。他の戦国大名に奇襲されたときポルトガル人の支援によって撃退に成功。そこで純忠は、お礼としてイエズス会に長崎を寄進します。
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