数学に興味がある人の中で、オイラーを知らない人はほとんどいないでしょう。ガウスと並んで人類史上最も有名な数学者の一人です。今回は物理学の記事なので、彼が作った剛体の力学についても学んでみよう。
今回は物理学科出身のライター・トオルさんと解説していきます。
ライター/トオル
物理学科出身のライター。広く科学一般に興味を持つ。初学者でも理解できる記事を目指している。
レオンハルト・オイラーについて
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今回はレオンハルト・オイラーについてです。彼は人類史上最も有名な数学者の一人であり、数多くの業績残しました。オイラーは研究量においても有名であり、もっとも多数の論文を執筆した数学者だとされています。解析、数論、幾何学、数理物理学とその研究内容は多岐にわたり、多くの定理・公式を発見しました。今回は物理学の記事ですので、オイラーが多くの貢献をした剛体の力学についても紹介してみましょう。
レオンハルト・オイラーの生涯
Jakob Emanuel Handmann – 2011-12-22 (upload, according to EXIF data), パブリック・ドメイン, リンクによる
レオンハルト・オイラーは天才に相応しく常に研究をしていた人生でした。オイラーは死んだとき、生きることと計算することを辞めたと評されるほど、研究にささげた人生だったようです。
その1.生い立ち
レオンハルト・オイラーは1707年スイスのバーゼルに生まれました。父親はプロテスタントの牧師で、数学の教育を受けたことがあり父親から最初の数学の教育を受けたようです。13歳ですでに大学の聴講生となっていたオイラーは、著名な数学者であるヨハン・ベルヌーイの弟子として本格的に数学研究に取り組むようになります。バーゼル大学での教職を目指いしていたようですが、年齢が若すぎることもありバーゼル大学での職を得られませんでした。
その2.青年期
そこでオイラーはヨハン・ベルヌーイの息子であるダニエル・ベルヌーイの推薦により、ロシアの首都サンクトペテルブルクに移りここで科学アカデミーの教職に就き研究に励みます。ここでスイス出身のカラリーナ・グゼルと結婚し、生涯で13人の子供を設けました。ただし、オイラー自身より長生きした子供は三人だけです。この頃オイラーは健康を損ない1738年には、右目を失明しています。
その3.壮年期
1741年ロシアが政情不安定になったこともあり、プロイセン(現在のドイツ)の皇帝フリードリッヒ二世に招聘されオイラーはベルリン科学アカデミーに移りました。そこで20年以上精力的に研究を続けましたが、フリードリッヒ二世と次第に不和になり1766年頃、エカチェリーナ二世の招きにより再びサンクトペテルブルクのアカデミーに移ります。
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