今回は武田勝頼を取り上げるぞ。武田信玄の息子で長篠合戦で負けたんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田勝頼について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田勝頼は甲斐の国の生まれ

武田勝頼(たけだかつより)は、天文15年(1546年)に甲斐の国で誕生。父は甲斐の国の守護大名武田晴信(信玄)、母は側室の信濃国諏訪領主諏訪頼重の娘、諏訪御料人(乾福院殿)で、信玄の4男。

生誕地、幼名は不明で、通称は四郎、諱は勝頼、母の実家諏訪氏を継いだので諏訪勝頼、また信濃国伊那谷の高遠城主だったので伊奈四郎勝頼とも呼ばれることがあります。きょうだいは長兄が義信と盲目で出家した次兄と夭折した三兄、そして弟が仁科盛信と葛山信貞、信清、黄梅院、菊姫、松姫他。

1-2、勝頼の子供時代

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勝頼は躑躅ヶ崎館で母とともに育ったらしいということ。「高白斎記」などには信玄の嫡男で正室三条殿の生んだ義信、次男信親(竜宝)に関する記事は多いが、勝頼や母の諏訪御料人に関する記事はなく、乳母や傅役などについても不明、勝頼について詳しく載っている「甲陽軍鑑」の内容は現代では疑問視されているそうです。

永禄5年(1562年)6月、勝頼は16歳の時に元服して、母の実家の諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」と、信玄の幼名の勝千代を取って、諏訪四郎勝頼と名乗るように。勝頼は跡部右衛門尉ら8名の家臣団を付けられて、信玄の弟信繫の跡継ぎである従兄の武田信豊らと共に親族衆に列せられたということ。

また、勝頼の異母弟である盛信も信濃仁科氏を継承するなど、信玄は父とおなじく、旧族を懐柔するために息子たちを入嗣させる方針を着々と実行していたということです。

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勝頼の母の実家諏訪家とは
勝頼は信玄の嫡男義信(母は正室で公家の三条家出身)とは違い、側室の子であるとよく言われますが、母諏訪御寮人の実家である信濃の諏訪家は武田家よりも古い名家で、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝をつとめてきた信濃の名族。平安時代の末期に武士化した一族が、戦国時代に小笠原氏、村上氏、木曽氏と並んで「信濃四大将」のひとつと称されていました

そして信濃進出を狙った勝頼の祖父信虎の頃から武田家と対立していたが和睦、天文9年(1538年)、諏訪頼重と信玄の妹とが政略結婚したが、天文10年(1539年)、信虎を追放して当主となった信玄は諏訪氏と戦って滅ぼしてしまい、頼重の娘である勝頼の母(信玄妹の娘ではない)を側室にして勝頼が生まれたということなんですね。

尚、頼重は殺され、信玄の妹はまもなく亡くなってその息子寅王丸も謀反で殺されたため、勝頼が諏訪氏を継ぐことに。武田家臣の間では、諏訪氏の娘を側室にすることに反対があったということですが、かなりの美人で信玄がほれ込んだという話も。

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1-3、勝頼、高遠城主に、初陣も

勝頼は、元服後に城代秋山虎繁(信友)に代わって信濃高遠城主となり、勝頼の高遠城入城に際しては馬場信房が城の改修を行った記録があるが、 勝頼の高遠領支配については具体的な実情は不明で、高遠建福寺で行われた諏訪御料人の17回忌、永禄7年(1564年)に諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納したなどがわかっているだけということです。

そして勝頼の初陣は、永禄6年(1563年)の上野箕輪城攻めまたは武蔵松山城攻めといわれていて、勝頼は物見に出て帰る途中の長野氏の家臣藤井豊後を追い、城外の椿山で組み打ちで討ち取り、その後の箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げたということ。

その後、勝頼は、父信玄の晩年の戦のほとんどに従軍し、武蔵滝山城攻めでは北条氏照の家老諸岡山城守と三度槍を合わせ、小田原城攻めからの撤退戦では殿(しんがり)を務め、松田憲秀の家老酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちもという勇猛果敢さをみせたそう。

1-4、長兄義信廃嫡事件

永禄8年(1565年)、勝頼の異母兄で武田家後継者であった義信と父信玄との対立が深まり、義信の家臣らが信玄暗殺の密謀の疑いで処刑され、義信自身も幽閉される事件が起こり、義信は2年後に切腹(毒殺説も)。

この義信と信玄の対立の原因は、勝頼が微妙に関係しているようで、今川義元の娘で従妹を正室にしている義信はもちろん今川よりだが、父信玄は新興勢力の織田信長と同盟を結んで従来の北進戦略を変更、信濃侵攻、東海方面への侵攻を具体化するために、勝頼と信長養女(龍勝院)との婚礼が進めていたこと、信玄が勝頼に高遠城を与えたなどについて、義信とその家臣が不満を持つようになったからだそう。武将の親子関係が気まずくなると家臣同士の対立も起こるため、内紛をおさめるのにはこういった制裁が加えられることに。

そういうわけで、義信切腹後の跡取りは、次兄は盲目で出家していて三兄は夭折したため、4男の勝頼にまわってきたのですね。尚、信玄は将軍足利義昭に勝頼への官位と偏諱の授与を願い出たが、織田信長が圧力をかけために勝頼には正式な官位は与えられなかったそうで、守護大名家の武田家の跡取りとして、官位どころか名前に「信」も将軍から拝領もないというのは異例ということです。

1-5、勝頼の嫡男が誕生

永禄10年(1567年)、高遠城で勝頼と正室の竜勝院殿との間に嫡男武王丸(のちの信勝)が誕生し、父信玄はこの信勝を武田家の跡取りとして、16歳になるまで勝頼が後見人を務めると決めたということです。

勝頼親子は元亀2年(1571年)2月には甲府へ召還されて、かわって叔父の武田信廉が高遠城主に。そして同年9月に勝頼の正室竜勝院殿が死去したために、 勝頼はその後、後北条氏の娘を継室として迎えることに。しかし武田の家臣たちは母方の姓を名乗る勝頼を諏訪の者とみていたため、仮の当主という不安定な立場で、家臣団の忠誠を期待しての統率は難しかったということです。

2-1、勝頼、父信玄の死去で家督を相続

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勝頼の父信玄は、相模の後北条氏と同盟を結び、諸勢力とともに将軍足利義昭の信長包囲網に参加、元亀3年(1572年)に京都を目指した西上作戦を開始しました。

勝頼は従兄弟の武田信豊、穴山信君とともに大将をつとめて、同年11月に徳川方の遠江二俣城を攻略、12月には三方ヶ原の戦いで織田、徳川連合軍を撃破。この戦いで勝頼の隊は63の首をあげたといわれています。

しかし元亀4年(1573年)4月、信玄が途上で病死したため西上作戦は挫折し、勝頼は武田姓にもどって27歳で家督を相続し、武田氏第20代当主に。尚、信玄の遺言で3年間は喪を秘密にするということで、表向きは信玄が隠居して、勝頼が家督を相続したと発表されたそう。

そして信玄の遺言通りに天正3年(1575年)に葬儀が行われ正式に信玄の死が公表されると、武田家を見限って他家に走る家臣が続出。

2-2、勝頼、高天神城を陥落

信玄の死去で武田家の西上作戦がとん挫したために、信長包囲網は解除となり、信長と徳川家康らは窮地を脱したということ。信長は将軍足利義昭を河内国に追放し、越前国、近江国に攻め入って朝倉義景と浅井長政を滅ぼしました。

家康も、武田方だった三河国山間部の山家三方衆の奥平貞能と貞昌親子を寝返らせることに成功したのですが、これに対して勝頼は天正2年(1574年)2月に東美濃の織田領に侵攻、明知城を陥落させ、明知城の後詰(援軍)に出陣しようとした信長と信忠は岐阜に撤退。さらに勝頼は6月に遠江国の徳川領に侵入して、信玄が落とせなかった高天神城を陥落させて小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定して、9月には天竜川を挟んで家康と対陣した後に浜松城に迫り、浜松城下に放火したということです。

2-3、勝頼、長篠の合戦で大敗

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天正3年(1575年)には勝頼は勢いに乗って、武田氏を裏切って徳川方についた奥平貞昌を討つために長篠城を攻め、家康と信長が大群の援軍を送って戦ったのが、長篠の合戦です。

この戦いは、信長軍が柵を作って武田騎馬軍団を防ぎ、最新兵器である鉄砲を用いて三弾撃ちを行い、無謀な突撃を繰り返す旧式武器の武田の騎馬軍団を壊滅したという、新しい時代の到来をあらわした合戦として有名。しかし最近の研究では、これは事実ではなかったということに。

実は長篠の合戦は一次資料が少ないために真実の姿がよくわかっていないということで、鉄砲の総数も不明で三段撃ちも実際にはなかったという説すらあるそう。そして8時間もの攻防が行われたことや、地形が平坦ではなく騎馬戦に向いていないので武田軍は下馬して戦ったなど、言われているような長篠の戦いとは違った戦だったが、信長が多くの鉄砲を用いて勝利したのは間違いなく、武田軍の損害の大半は、追撃する敵を食い止める際に生じたもので、この戦いで武田軍は、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春らの優れた武将を多数失い大打撃をこうむったのでした。

2-4、勝頼、謙信の上杉家家督相続争いに介入

天正5年(1577年)、勝頼は北条氏政の妹を後室に迎えて北条との結びつきを強めました。そしてその一方で父信玄の自分が死んだら謙信を頼れという言葉もあったせいか、越後の上杉とも関係修復をし、翌年に上杉謙信が急死したあとに起こった謙信の2人の養子である景勝と景虎の家督相続争い、御館の乱で勝頼は両者の和睦調停に乗り出すことに。勝頼は継室が北条氏出身ということで、北条氏政の実弟の景虎を支持、しかし景勝側が莫大な金の贈与と上野領の割譲という破格の条件を提示したために景勝支持に

この家督相続争いは、結局、景虎が自刃して景勝が継承したために、北条氏は武田家と手切りとなって徳川と結び、勝頼は上杉と同盟を結んだ代わりに、織田、徳川、北条と敵対関係になることに。

2-5、高天神城落城で離反者続出し、信長の甲州征伐に

そして徳川家康は天正9年(1581年)、高天神城奪回のために猛攻をかけましたが、勝頼は援軍を送れずに高天神の城兵はほとんど全滅状態で落城したのち、勝頼の家臣団からは離反者が続出したということです。

翌年には勝頼の妹婿でもある信濃の豪族木曾義昌が、高天神城での敗北で武田家の行く末に不安を抱き、勝頼の新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせたために、織田氏の調略に応じて実弟上松義豊を人質に出して離反。

これが信長の甲州征伐のきっかけとなり、勝頼は従兄の武田信豊を将にした討伐軍を木曽谷に向けて派遣したが、義昌の地の利を得た戦術と織田信忠の援軍もあって鳥居峠で撃退されてしまいました。その後、織田、徳川、北条の軍勢が一斉に武田領に攻め込み、信長による朝廷工作で武田勝頼は「朝敵」とされたうえに、凶兆とされる浅間山の噴火もあって動揺した武田の家臣団は崩壊し、ほとんどの城が次々と降伏する中で、高遠城の勝頼の弟仁科盛信が果敢に戦って全滅した話は有名です。

3、武田勝頼の最期

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その後、勝頼は韮崎の新府城での籠城を諦めて小山田信茂の岩殿城を目指したが、小山田が織田に降伏したため行き場を失い、天目山棲雲寺を目指す途中に織田方が迫ったこともあり、田野で嫡男信勝や正室(北条氏政の妹)ら家族ととともに37歳で自刃。または疲労と空腹で動けなくなったところをあっさりと討ち取られたという説もあるそう。

信長は3月14日、浪合(長野県阿智村)で勝頼らの首を実検して、「勝頼は日本で知られた弓取りだったが、運が尽きてしまった」と述べたという話があり、3月15日に勝頼らの首は飯田で晒され、その翌日に京都で獄門に掛けられたということです。父信玄の死からわずか10年で武田家は滅亡に。

偉大な父の急造跡継ぎとしてがんばったが、新興勢力信長に屈した3代目

武田勝頼は偉大なカリスマ武将信玄の4男として名門諏訪氏の母との間に生まれ、長兄の義信が父信玄とトラブルを起こして切腹に追い込まれたために、急造の跡継ぎとされた人。

守護大名の名門で実力も伴う戦国大名武田信玄の息子としては、初陣デビュー後も勇猛果敢な働きをしていましたが、織田信長の養女の正室から生まれた息子が真の跡継ぎで、勝頼はその後見と定めてすぐに父信玄が病死したため、かなり不安定な立場で20代目を継承。まだ独立心旺盛な武田家の重臣たちの統率もままならないところを、信長や家康が攻めて来るもので、ちょっと負けると重臣たちは離反するわと、信玄の時代は鉄壁だったはずの武田軍団がばらばらになり、あっという間に武田家は滅亡することに。

そういうわけで「甲陽軍鑑」などの影響で、武田家を滅ぼした3代目と勝頼の評判はかなり悪かったのですが、近年になってから「甲陽軍鑑」は信玄アゲのために父信虎と息子勝頼をサゲて書かれているといわれるようになり、新府城の発掘調査がきっかけになり、勝頼の外交政策や内政、人物像についてなど、けっして凡庸ではなかったと研究が進んでいるということです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

武田家3代目で天目山に消えた「武田勝頼」をわかりやすく歴女が解説

今回は武田勝頼を取り上げるぞ。武田信玄の息子で長篠合戦で負けたんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田勝頼について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田勝頼は甲斐の国の生まれ

武田勝頼(たけだかつより)は、天文15年(1546年)に甲斐の国で誕生。父は甲斐の国の守護大名武田晴信(信玄)、母は側室の信濃国諏訪領主諏訪頼重の娘、諏訪御料人(乾福院殿)で、信玄の4男。

生誕地、幼名は不明で、通称は四郎、諱は勝頼、母の実家諏訪氏を継いだので諏訪勝頼、また信濃国伊那谷の高遠城主だったので伊奈四郎勝頼とも呼ばれることがあります。きょうだいは長兄が義信と盲目で出家した次兄と夭折した三兄、そして弟が仁科盛信と葛山信貞、信清、黄梅院、菊姫、松姫他。

1-2、勝頼の子供時代

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勝頼は躑躅ヶ崎館で母とともに育ったらしいということ。「高白斎記」などには信玄の嫡男で正室三条殿の生んだ義信、次男信親(竜宝)に関する記事は多いが、勝頼や母の諏訪御料人に関する記事はなく、乳母や傅役などについても不明、勝頼について詳しく載っている「甲陽軍鑑」の内容は現代では疑問視されているそうです。

永禄5年(1562年)6月、勝頼は16歳の時に元服して、母の実家の諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」と、信玄の幼名の勝千代を取って、諏訪四郎勝頼と名乗るように。勝頼は跡部右衛門尉ら8名の家臣団を付けられて、信玄の弟信繫の跡継ぎである従兄の武田信豊らと共に親族衆に列せられたということ。

また、勝頼の異母弟である盛信も信濃仁科氏を継承するなど、信玄は父とおなじく、旧族を懐柔するために息子たちを入嗣させる方針を着々と実行していたということです。

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勝頼の母の実家諏訪家とは
勝頼は信玄の嫡男義信(母は正室で公家の三条家出身)とは違い、側室の子であるとよく言われますが、母諏訪御寮人の実家である信濃の諏訪家は武田家よりも古い名家で、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝をつとめてきた信濃の名族。平安時代の末期に武士化した一族が、戦国時代に小笠原氏、村上氏、木曽氏と並んで「信濃四大将」のひとつと称されていました

そして信濃進出を狙った勝頼の祖父信虎の頃から武田家と対立していたが和睦、天文9年(1538年)、諏訪頼重と信玄の妹とが政略結婚したが、天文10年(1539年)、信虎を追放して当主となった信玄は諏訪氏と戦って滅ぼしてしまい、頼重の娘である勝頼の母(信玄妹の娘ではない)を側室にして勝頼が生まれたということなんですね。

尚、頼重は殺され、信玄の妹はまもなく亡くなってその息子寅王丸も謀反で殺されたため、勝頼が諏訪氏を継ぐことに。武田家臣の間では、諏訪氏の娘を側室にすることに反対があったということですが、かなりの美人で信玄がほれ込んだという話も。

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