室町時代戦国時代日本史歴史

甲斐の国を統一した守護大名で信玄の父「武田信虎」をわかりやすく歴女が解説

3-2、信虎、上洛

信虎は天文12年(1543年)6月に上洛、京都南方を遊覧して、京都から高野山、奈良をまわって、甲斐国主の頃から交流のあった本願寺証如が使者を派遣して挨拶、そして武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣(信玄は実弟信繁を介して謝礼を行ったそう)、さらに奈良へ赴いたと、奈良の多聞院日記で多聞院英俊が記述。信虎は奈良を旅行後に駿河国へ戻ったが、天文19年(1550年)には今川義元の室の信虎の娘(信玄らの同母姉で今川氏真の母)が死去。

3-3、信虎、室町幕府に仕える

その後の信虎は、駿河国にいたと考えられていたが、息子である信友(駿河で隠居後に生まれた11男、または早世した信兼の兄信基説もあり)に家督を譲った後、弘治3年(1558年)に京都に移って室町幕府に在京奉公をしたということです。

駿河では信虎の娘婿の今川義元は永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで討死にし、信虎の孫の氏真が継承。永禄7年(1567年)に義元の娘を正室とする信玄の嫡男の義信が廃嫡され、義元の娘は駿河に返されたため甲駿関係は悪化、甲駿同盟は破綻、永禄11年(1568年)信玄は駿河の今川領へ侵攻開始という事情があったので、信虎の京都移住は桶狭間の合戦以後とみられていましたが、公家の山科言継の日記などから、信虎は桶狭間の戦い以前から京都に屋敷をもっていたということで、信虎は在京の前甲斐の守護として、将軍足利義輝に仕候していたそう。

信虎の身分は外様大名で儀礼的に高い席次も獲得できたため、諸大名や公家たちとの交流も盛んに行い、永禄3年(1560年)には公卿の菊亭(今出川)晴季に駿河で生まれた娘を嫁がせているということで、信虎は駿府と京都を往復していた可能性が高いということ。

3-4、信虎、甲賀氏に身を寄せる

永禄7年(1564年)から永禄10年(1567年)にかけて、信虎は志摩国英虞郡の地頭の一人である甲賀氏のもとに身を寄せていたということで、この間、九鬼氏が志摩を追われて織田氏の配下となる事件が起こっていて、信虎も何らかの関わりがあると言われています。

また永禄8年(1565年)には将軍義輝が三好三人衆に殺害された永禄の変が勃発したが、将軍に伺候していたはずの信虎の動静は不明で、駿河に戻っていたかも。

永禄10年(1567年)には京都にいて、その後も在京活動を継続。尚、「甲陽軍鑑」などによれば、信虎は今川家のお家騒動に関わり、息子の信玄に孫の今川氏真の排除を勧めたために、氏真が追放されたということですが、実際は信虎は息子の信友に家督を譲って(信友は今川家に仕えた)のちのことで、信虎は今川氏に反旗を掲げた事実はないということです。

信虎はその後還暦をすぎても、室町幕府15代将軍義昭の治世下でも幕府に仕候をし、息子の信玄の西上作戦が始まった元亀年間に将軍義昭の命で近江甲賀郡へ派遣されて、六角氏と共に近江への攻撃を企図していたという記録があるが、義昭の挙兵は、同年4月に信玄が西上作戦の途上で死去して武田勢が撤兵したことで失敗し、義昭も京から追放に。

3-5、信虎、孫の勝頼と対面

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信玄の死後、甲斐国では信玄の側室との間に生まれた孫の勝頼が家督を継承しましたが、信虎は天正2年(1574年)には5男武田信廉の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面。この席で信虎は、自分を追放した重臣たちを罵倒して勝頼が困ったという話もあり。

そして同年3月、伊那の娘婿の根津松鴎軒常安(根津元直の長男)の庇護のもと、信濃高遠で81歳で死去。

甲斐の国の守護大名として甲斐の国を統一したが、偉大過ぎた息子に追放された

武田信虎は甲斐の守護大名の嫡男に生まれ、14歳で家督を継いですぐに叔父の反乱を鎮圧後、甲斐の国の主だった勢力を次々と戦いで破り、婚姻で和睦をして配下におさめ、戦乱の世に一時勢いを失った武田家の威信を取り戻し甲斐の国を平定した武将。

合戦に明け暮れ、甲府に躑躅が崎の館も建てて城下町を整備したのに、頼りないと思って軽く見た跡取り息子の信玄、寵愛して跡継ぎにしたいとおもったほどの4男信繫がタッグを組み、あっという間に追放されてしまい、娘婿の駿河の国でしかたなく48歳で出家して隠居。歴史から消えたと思いきや、意外にも京都で元守護大名として足利将軍に近侍したりとそこそこ活躍し、追放後は息子信玄よりも長寿で天命を全うすることに。

息子信玄がその後川中島合戦などで有名となり、偉大な息子を見損なった信虎は悪人伝説が出来、悪評にまみれていたのですが、2019年、甲府開府500年ということもあり、甲斐の国を統一し躑躅が崎の館を建てて甲府の街を作った功績が認められ、悪評も根拠がないと一掃されて、信玄が信濃に進出する土台を作った有能な武将と再評価となり、主役で映画も作られるまでに名誉回復がなったのです。

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