室町時代戦国時代日本史歴史

甲斐の国を統一した守護大名で信玄の父「武田信虎」をわかりやすく歴女が解説

2-3、信虎、関東に出兵、今川氏と和睦

信虎は、父信縄の頃からの外交路線を継承して、山内上杉氏と扇谷上杉氏を支援していたため、大永4年(1524年)に関東に出兵し、両上杉氏と対立していた後北条氏と本格的な抗争状態に入りました。しかし一旦は和睦、そして後北条氏の上野侵攻で破綻。大永6年(1526年)、梨の平の戦いで北条氏綱の軍勢を破ったのちは一進一退の攻防に。そして享禄3年(1530年)に、前関東管領上杉憲房の後室を側室に迎えたということです。

また翌年には佐久郡へ出兵し、今川氏が代替わりしたのを機に和睦。しかし、氏親の子氏輝との間が天文4年(1535年)、不和となったので、信虎は駿河に出兵したが、今川氏を助けて北条氏綱親子が8月、大挙して郡内に乱入して合戦となり、武田勢は信虎の弟信友をはじめ、小山田勢が多数戦死。信虎の弟信友は勝沼(東山梨郡勝沼町)を領していた勝沼氏を継ぎ郡内に駐屯して関東方面に備えたうえに郡内の諸将の動静を監視していた、信虎の右腕だったということです。

そして翌年に、今川氏輝が死去して継嗣問速が起きたときには、信虎は今川義元を支持、正室大井氏との間の長女を義元に嫁がせ、今川氏の仲介で嫡男晴信(信玄)の室に公家の三条家の娘を迎える事により、今川氏との間で甲駿同盟が締結される事に。

2-4、信虎、信濃に侵攻

信虎は享禄元年(1528年)9月、諏訪郡へ侵入し諏訪頼満、頼隆父子を攻撃したが失敗。4年後の享禄4年(1531年)には信虎が上杉氏より側室を迎える事に反発した、飯富虎昌(山県昌景の兄)らが甲府を退去し、諏訪頼満と組んで反乱を起こしたが、信虎は鎮圧。その後、諏訪氏との争いは、天文4年(1535年)9月に信虎と頼満との間で和睦が結ばれて収束、天文9年(1540年)、信虎の娘を諏訪頼重に嫁がせて同盟関係を強化しました。

そして信虎は天文9年(1540年)5月、佐久郡を攻略して一日に36城を落城、天文10年(1541年)の5月には、小県郡に出兵し、海野、禰津氏らの滋野一族を攻めて上野に追放。

2-5、信虎、甲斐を追放される

 天文10年(1541年)6月、信虎が佐久遠征から凱旋した直後、娘婿の今川義元と会うため駿河に赴いたときに、信虎が国境を越えた後、嫡男の信玄によって甲駿国境は厳重に封鎖、信虎は甲斐の国を追放処分となって、駿河で強制隠居に。この計画を実行したのは嫡男の信玄と信繫、譜代の重臣たち板垣信方、甘利虎泰だったということです。

信虎追放の原因は、21歳の嫡男信玄を信虎が疎んじ、廃嫡して4男の信繁に後を継がせようと画策した説、そして信虎の領地の治め方にも問題があり、最初は仁政を行ったが、次第に外征の軍資金調達のために農民や国人衆に重い税を課し、凶作や大飢饉などが起こるに至り、家臣たちにも見放され、危機感を抱いた信玄と側近たちが信虎を追放したということに。

信虎の悪行伝説
「甲陽軍鑑」などでは、信虎が、諫言した家臣を50人以上斬殺したとか、信虎が飼っていた猿を殺した家臣を手打ちにしたとか、妊婦の腹を裂いたなどの悪行伝説があるのですが、これは悪人の悪行としてテンプレ的なもので荒唐無稽と言う説が濃厚です。

また、信虎の悪行を具体的に記した一次史料はほとんどなく、在地の伝承、記録には信虎の悪い評判はないとする意見もあって、信虎の悪行は「甲陽軍鑑」をもとネタとして、「甲陽軍鑑末書」「竜虎豹三品」の「竜韜品」や「武田三代軍記」などの甲州流軍学本の中で作り上げられたという説も。

これらは武田信玄を至高の武将として書かれたものなので、信虎を悪役にして信玄が実の父を追放したことを正当化し、信玄の印象をよくするための操作だと考えられるために、信虎の悪い評判はある程度差し引いて考える必要もあるということですが、この追放が完全無血クーデターで、信虎に付いた家臣が殆どいなかったということを考えると、信虎と重臣達との間で対立があったことは間違いないということです。

3-1、追放後の信虎

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江戸村のとくぞう投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

当時48歳の信虎は、信玄から隠居料をもらって今川氏のもとに住み、今川家中では義元の正室の父であることから、「御舅殿」という待遇で、今川一門よりも上位の座とされました。また信玄がその後、今川氏、後北条氏と甲相駿三国同盟を形成、次に信濃侵攻、そして越後国の上杉謙信との川中島の戦いを展開と活躍するなかで、信虎は信玄に対抗し復権のために甲斐の国に攻め入るということもせず、出家して「無人斎道有」を名乗り、隠居としての余生に。

尚、正室の大井殿は甲斐に残り、側室は信虎に付いて行ったということで、その後も何人かの子供が誕生したということです。

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