今回は武田信虎を取り上げるぞ。武田信玄の父ですが、息子とうまくいかなくて追放されたんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田信虎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田信虎は甲斐の国の生まれ

武田信虎(たけだのぶとら)は、明応3年(1494年)または明応7年(1498年)1月、甲斐の国で誕生。父は甲斐国守護職武田氏の第17代当主信縄(のぶつな)、母は「甲斐国志」をもとに信縄正室の崇昌院とされてきたが、近年の調査では、側室の地侍岩下越前守の娘が生母説が有力となり、山梨県笛吹市春日居町下岩下にあった岩下家の屋敷で生まれたということ。きょうだいは弟が3人と妹が2人。

幼名は武田家の嫡男の名乗りである五郎で、諱は初めは信直、後に信虎と改名、隠居後に出家して無人斎道有。

1-2、信虎、14歳で当主となり武田家の内紛に勝利

永正4年(1507年)、父信縄が37歳で病死したため、信虎は14歳で武田氏第18代当主を継承。しかし当時、信縄の父である信昌が信虎の父信縄の弟である油川信恵を寵愛して、信縄を廃して信恵に家督を譲ろうとしたために信縄と対立、一時は和睦したが、信昌の死去の2年後に信縄が死去して幼少の信虎が家督相続したことで、武田家相続を狙った叔父の油川信恵が小山田氏らと結んで挙兵したのですね。

それに対して信虎は、翌永正5年(1508年)の勝山城の戦いで夜襲を仕掛け、信恵を初めとした主だった者を討ち取って武田家の内紛を終結して、続く坊峰合戦で小山田弥太郎を討ち、後を継いだ小山田信有に自分の妹を嫁がせて和睦を結んだということです。

1-3、信虎、大井氏の娘と結婚

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さかおり (talk - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

信虎はさらに甲斐の北西部で信濃の諏訪氏と争い、永正12年(1515年)には穴山氏の帰属を巡って駿河の今川氏とも対立しました。この戦いは、穴山氏だけでなく大井氏などの国衆も駿河の今川氏に加担したために、一進一退の攻防が続いたということ。

そして信虎は永正14年(1517年)には今川氏と一時的な和睦が成立、また3年後に大井信達を破り、その娘を正室に迎え、後に今川義元に嫁いだ長女、信玄、信繫、信兼が誕生。

2-1、信虎、躑躅が崎の館、甲府の城下町を建設

image by PIXTA / 35485189

武田氏の本拠の甲斐の守護所は、先々代から石和(現山梨県笛吹市)の川田に置かれていたのですが、信虎は永正15年(1518年)に相川の扇状地へ移転して、翌年、平常の住まいの居館、躑躅ケ崎館(つつじがさき)、その詰城(敵に攻められたときに立て籠もるための支城)である要害山城を相次いで築きました。

信虎は、城下町の建設、整備にも着手して、城下に社寺を配置し、また商工業者を誘致して職業別に住まわせたということで、三日市場、八日市場などの定期市も開催、石和時代とは比較にならないほど大規模で強固な城館と城下町が誕生。天正9年(1581年)に武田勝頼が新府城に移るまで、60余年の間、武田三代の領国統治の中心地に。尚、甲斐の府中の略である甲府の地名は信虎の命名と言われています。

そして信虎は、甲斐国衆を城下町に集住させようとしたが、これに反発した栗原氏、今井氏、大井氏が反乱を起こしたために、三氏を鎮圧。永正18年(1521年)には、今川傘下の福島正成(北条綱成の父)が甲斐国内へ侵攻、信虎は一旦要害山城に退いた後、飯田河原合戦と上条河原合戦の2つの戦いで今川勢を撃破。この年には、正室大井氏との間に嫡男の太郎(のちの信玄)が誕生し、幕府へ申請して従五位下、左京大夫にも補任されたということ。

また、信虎は大永2年(1522年)8月に、身延山久遠寺に参詣後、富士登山をして山頂を一周する今のお鉢参りの八葉巡りも行ったそう。

2-2、信虎、穴山氏と今川氏を撃破して甲斐の国を統一

Hachiman Shrine Shimakamijyou Kai City2.JPG
でここ - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

享禄4年(1531年)には、飯富氏、栗原氏、今井氏による大規模反乱が勃発したが、信虎は、韮崎郊外の河原辺で反乱軍を鎮圧。翌年享禄5年(1532年)に、最後まで抵抗した今井氏が降伏したために、甲斐の国における武田家に対する反抗勢力が一掃されて、信虎は甲斐統一を成し遂げ、守護大名の戦国大名化となりましたが、強力な主従関係ではなく、連合体の盟主というものだったよう。

後に息子の信玄が信濃平定に進めたのも信虎が甲斐を統一した素地があったからこそと、信虎の功績が現在は再評価されているということ。

\次のページで「2-3、信虎、関東に出兵、今川氏と和睦」を解説!/

2-3、信虎、関東に出兵、今川氏と和睦

信虎は、父信縄の頃からの外交路線を継承して、山内上杉氏と扇谷上杉氏を支援していたため、大永4年(1524年)に関東に出兵し、両上杉氏と対立していた後北条氏と本格的な抗争状態に入りました。しかし一旦は和睦、そして後北条氏の上野侵攻で破綻。大永6年(1526年)、梨の平の戦いで北条氏綱の軍勢を破ったのちは一進一退の攻防に。そして享禄3年(1530年)に、前関東管領上杉憲房の後室を側室に迎えたということです。

また翌年には佐久郡へ出兵し、今川氏が代替わりしたのを機に和睦。しかし、氏親の子氏輝との間が天文4年(1535年)、不和となったので、信虎は駿河に出兵したが、今川氏を助けて北条氏綱親子が8月、大挙して郡内に乱入して合戦となり、武田勢は信虎の弟信友をはじめ、小山田勢が多数戦死。信虎の弟信友は勝沼(東山梨郡勝沼町)を領していた勝沼氏を継ぎ郡内に駐屯して関東方面に備えたうえに郡内の諸将の動静を監視していた、信虎の右腕だったということです。

そして翌年に、今川氏輝が死去して継嗣問速が起きたときには、信虎は今川義元を支持、正室大井氏との間の長女を義元に嫁がせ、今川氏の仲介で嫡男晴信(信玄)の室に公家の三条家の娘を迎える事により、今川氏との間で甲駿同盟が締結される事に。

2-4、信虎、信濃に侵攻

信虎は享禄元年(1528年)9月、諏訪郡へ侵入し諏訪頼満、頼隆父子を攻撃したが失敗。4年後の享禄4年(1531年)には信虎が上杉氏より側室を迎える事に反発した、飯富虎昌(山県昌景の兄)らが甲府を退去し、諏訪頼満と組んで反乱を起こしたが、信虎は鎮圧。その後、諏訪氏との争いは、天文4年(1535年)9月に信虎と頼満との間で和睦が結ばれて収束、天文9年(1540年)、信虎の娘を諏訪頼重に嫁がせて同盟関係を強化しました。

そして信虎は天文9年(1540年)5月、佐久郡を攻略して一日に36城を落城、天文10年(1541年)の5月には、小県郡に出兵し、海野、禰津氏らの滋野一族を攻めて上野に追放。

2-5、信虎、甲斐を追放される

 天文10年(1541年)6月、信虎が佐久遠征から凱旋した直後、娘婿の今川義元と会うため駿河に赴いたときに、信虎が国境を越えた後、嫡男の信玄によって甲駿国境は厳重に封鎖、信虎は甲斐の国を追放処分となって、駿河で強制隠居に。この計画を実行したのは嫡男の信玄と信繫、譜代の重臣たち板垣信方、甘利虎泰だったということです。

信虎追放の原因は、21歳の嫡男信玄を信虎が疎んじ、廃嫡して4男の信繁に後を継がせようと画策した説、そして信虎の領地の治め方にも問題があり、最初は仁政を行ったが、次第に外征の軍資金調達のために農民や国人衆に重い税を課し、凶作や大飢饉などが起こるに至り、家臣たちにも見放され、危機感を抱いた信玄と側近たちが信虎を追放したということに。

信虎の悪行伝説
「甲陽軍鑑」などでは、信虎が、諫言した家臣を50人以上斬殺したとか、信虎が飼っていた猿を殺した家臣を手打ちにしたとか、妊婦の腹を裂いたなどの悪行伝説があるのですが、これは悪人の悪行としてテンプレ的なもので荒唐無稽と言う説が濃厚です。

また、信虎の悪行を具体的に記した一次史料はほとんどなく、在地の伝承、記録には信虎の悪い評判はないとする意見もあって、信虎の悪行は「甲陽軍鑑」をもとネタとして、「甲陽軍鑑末書」「竜虎豹三品」の「竜韜品」や「武田三代軍記」などの甲州流軍学本の中で作り上げられたという説も。

これらは武田信玄を至高の武将として書かれたものなので、信虎を悪役にして信玄が実の父を追放したことを正当化し、信玄の印象をよくするための操作だと考えられるために、信虎の悪い評判はある程度差し引いて考える必要もあるということですが、この追放が完全無血クーデターで、信虎に付いた家臣が殆どいなかったということを考えると、信虎と重臣達との間で対立があったことは間違いないということです。

3-1、追放後の信虎

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江戸村のとくぞう - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

当時48歳の信虎は、信玄から隠居料をもらって今川氏のもとに住み、今川家中では義元の正室の父であることから、「御舅殿」という待遇で、今川一門よりも上位の座とされました。また信玄がその後、今川氏、後北条氏と甲相駿三国同盟を形成、次に信濃侵攻、そして越後国の上杉謙信との川中島の戦いを展開と活躍するなかで、信虎は信玄に対抗し復権のために甲斐の国に攻め入るということもせず、出家して「無人斎道有」を名乗り、隠居としての余生に。

尚、正室の大井殿は甲斐に残り、側室は信虎に付いて行ったということで、その後も何人かの子供が誕生したということです。

\次のページで「3-2、信虎、上洛」を解説!/

3-2、信虎、上洛

信虎は天文12年(1543年)6月に上洛、京都南方を遊覧して、京都から高野山、奈良をまわって、甲斐国主の頃から交流のあった本願寺証如が使者を派遣して挨拶、そして武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣(信玄は実弟信繁を介して謝礼を行ったそう)、さらに奈良へ赴いたと、奈良の多聞院日記で多聞院英俊が記述。信虎は奈良を旅行後に駿河国へ戻ったが、天文19年(1550年)には今川義元の室の信虎の娘(信玄らの同母姉で今川氏真の母)が死去。

3-3、信虎、室町幕府に仕える

その後の信虎は、駿河国にいたと考えられていたが、息子である信友(駿河で隠居後に生まれた11男、または早世した信兼の兄信基説もあり)に家督を譲った後、弘治3年(1558年)に京都に移って室町幕府に在京奉公をしたということです。

駿河では信虎の娘婿の今川義元は永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで討死にし、信虎の孫の氏真が継承。永禄7年(1567年)に義元の娘を正室とする信玄の嫡男の義信が廃嫡され、義元の娘は駿河に返されたため甲駿関係は悪化、甲駿同盟は破綻、永禄11年(1568年)信玄は駿河の今川領へ侵攻開始という事情があったので、信虎の京都移住は桶狭間の合戦以後とみられていましたが、公家の山科言継の日記などから、信虎は桶狭間の戦い以前から京都に屋敷をもっていたということで、信虎は在京の前甲斐の守護として、将軍足利義輝に仕候していたそう。

信虎の身分は外様大名で儀礼的に高い席次も獲得できたため、諸大名や公家たちとの交流も盛んに行い、永禄3年(1560年)には公卿の菊亭(今出川)晴季に駿河で生まれた娘を嫁がせているということで、信虎は駿府と京都を往復していた可能性が高いということ。

3-4、信虎、甲賀氏に身を寄せる

永禄7年(1564年)から永禄10年(1567年)にかけて、信虎は志摩国英虞郡の地頭の一人である甲賀氏のもとに身を寄せていたということで、この間、九鬼氏が志摩を追われて織田氏の配下となる事件が起こっていて、信虎も何らかの関わりがあると言われています。

また永禄8年(1565年)には将軍義輝が三好三人衆に殺害された永禄の変が勃発したが、将軍に伺候していたはずの信虎の動静は不明で、駿河に戻っていたかも。

永禄10年(1567年)には京都にいて、その後も在京活動を継続。尚、「甲陽軍鑑」などによれば、信虎は今川家のお家騒動に関わり、息子の信玄に孫の今川氏真の排除を勧めたために、氏真が追放されたということですが、実際は信虎は息子の信友に家督を譲って(信友は今川家に仕えた)のちのことで、信虎は今川氏に反旗を掲げた事実はないということです。

信虎はその後還暦をすぎても、室町幕府15代将軍義昭の治世下でも幕府に仕候をし、息子の信玄の西上作戦が始まった元亀年間に将軍義昭の命で近江甲賀郡へ派遣されて、六角氏と共に近江への攻撃を企図していたという記録があるが、義昭の挙兵は、同年4月に信玄が西上作戦の途上で死去して武田勢が撤兵したことで失敗し、義昭も京から追放に。

3-5、信虎、孫の勝頼と対面

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信玄の死後、甲斐国では信玄の側室との間に生まれた孫の勝頼が家督を継承しましたが、信虎は天正2年(1574年)には5男武田信廉の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面。この席で信虎は、自分を追放した重臣たちを罵倒して勝頼が困ったという話もあり。

そして同年3月、伊那の娘婿の根津松鴎軒常安(根津元直の長男)の庇護のもと、信濃高遠で81歳で死去。

甲斐の国の守護大名として甲斐の国を統一したが、偉大過ぎた息子に追放された

武田信虎は甲斐の守護大名の嫡男に生まれ、14歳で家督を継いですぐに叔父の反乱を鎮圧後、甲斐の国の主だった勢力を次々と戦いで破り、婚姻で和睦をして配下におさめ、戦乱の世に一時勢いを失った武田家の威信を取り戻し甲斐の国を平定した武将。

合戦に明け暮れ、甲府に躑躅が崎の館も建てて城下町を整備したのに、頼りないと思って軽く見た跡取り息子の信玄、寵愛して跡継ぎにしたいとおもったほどの4男信繫がタッグを組み、あっという間に追放されてしまい、娘婿の駿河の国でしかたなく48歳で出家して隠居。歴史から消えたと思いきや、意外にも京都で元守護大名として足利将軍に近侍したりとそこそこ活躍し、追放後は息子信玄よりも長寿で天命を全うすることに。

息子信玄がその後川中島合戦などで有名となり、偉大な息子を見損なった信虎は悪人伝説が出来、悪評にまみれていたのですが、2019年、甲府開府500年ということもあり、甲斐の国を統一し躑躅が崎の館を建てて甲府の街を作った功績が認められ、悪評も根拠がないと一掃されて、信玄が信濃に進出する土台を作った有能な武将と再評価となり、主役で映画も作られるまでに名誉回復がなったのです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

甲斐の国を統一した守護大名で信玄の父「武田信虎」をわかりやすく歴女が解説

今回は武田信虎を取り上げるぞ。武田信玄の父ですが、息子とうまくいかなくて追放されたんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田信虎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田信虎は甲斐の国の生まれ

武田信虎(たけだのぶとら)は、明応3年(1494年)または明応7年(1498年)1月、甲斐の国で誕生。父は甲斐国守護職武田氏の第17代当主信縄(のぶつな)、母は「甲斐国志」をもとに信縄正室の崇昌院とされてきたが、近年の調査では、側室の地侍岩下越前守の娘が生母説が有力となり、山梨県笛吹市春日居町下岩下にあった岩下家の屋敷で生まれたということ。きょうだいは弟が3人と妹が2人。

幼名は武田家の嫡男の名乗りである五郎で、諱は初めは信直、後に信虎と改名、隠居後に出家して無人斎道有。

1-2、信虎、14歳で当主となり武田家の内紛に勝利

永正4年(1507年)、父信縄が37歳で病死したため、信虎は14歳で武田氏第18代当主を継承。しかし当時、信縄の父である信昌が信虎の父信縄の弟である油川信恵を寵愛して、信縄を廃して信恵に家督を譲ろうとしたために信縄と対立、一時は和睦したが、信昌の死去の2年後に信縄が死去して幼少の信虎が家督相続したことで、武田家相続を狙った叔父の油川信恵が小山田氏らと結んで挙兵したのですね。

それに対して信虎は、翌永正5年(1508年)の勝山城の戦いで夜襲を仕掛け、信恵を初めとした主だった者を討ち取って武田家の内紛を終結して、続く坊峰合戦で小山田弥太郎を討ち、後を継いだ小山田信有に自分の妹を嫁がせて和睦を結んだということです。

1-3、信虎、大井氏の娘と結婚

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さかおり (talk投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

信虎はさらに甲斐の北西部で信濃の諏訪氏と争い、永正12年(1515年)には穴山氏の帰属を巡って駿河の今川氏とも対立しました。この戦いは、穴山氏だけでなく大井氏などの国衆も駿河の今川氏に加担したために、一進一退の攻防が続いたということ。

そして信虎は永正14年(1517年)には今川氏と一時的な和睦が成立、また3年後に大井信達を破り、その娘を正室に迎え、後に今川義元に嫁いだ長女、信玄、信繫、信兼が誕生。

2-1、信虎、躑躅が崎の館、甲府の城下町を建設

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武田氏の本拠の甲斐の守護所は、先々代から石和(現山梨県笛吹市)の川田に置かれていたのですが、信虎は永正15年(1518年)に相川の扇状地へ移転して、翌年、平常の住まいの居館、躑躅ケ崎館(つつじがさき)、その詰城(敵に攻められたときに立て籠もるための支城)である要害山城を相次いで築きました。

信虎は、城下町の建設、整備にも着手して、城下に社寺を配置し、また商工業者を誘致して職業別に住まわせたということで、三日市場、八日市場などの定期市も開催、石和時代とは比較にならないほど大規模で強固な城館と城下町が誕生。天正9年(1581年)に武田勝頼が新府城に移るまで、60余年の間、武田三代の領国統治の中心地に。尚、甲斐の府中の略である甲府の地名は信虎の命名と言われています。

そして信虎は、甲斐国衆を城下町に集住させようとしたが、これに反発した栗原氏、今井氏、大井氏が反乱を起こしたために、三氏を鎮圧。永正18年(1521年)には、今川傘下の福島正成(北条綱成の父)が甲斐国内へ侵攻、信虎は一旦要害山城に退いた後、飯田河原合戦と上条河原合戦の2つの戦いで今川勢を撃破。この年には、正室大井氏との間に嫡男の太郎(のちの信玄)が誕生し、幕府へ申請して従五位下、左京大夫にも補任されたということ。

また、信虎は大永2年(1522年)8月に、身延山久遠寺に参詣後、富士登山をして山頂を一周する今のお鉢参りの八葉巡りも行ったそう。

2-2、信虎、穴山氏と今川氏を撃破して甲斐の国を統一

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でここ投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

享禄4年(1531年)には、飯富氏、栗原氏、今井氏による大規模反乱が勃発したが、信虎は、韮崎郊外の河原辺で反乱軍を鎮圧。翌年享禄5年(1532年)に、最後まで抵抗した今井氏が降伏したために、甲斐の国における武田家に対する反抗勢力が一掃されて、信虎は甲斐統一を成し遂げ、守護大名の戦国大名化となりましたが、強力な主従関係ではなく、連合体の盟主というものだったよう。

後に息子の信玄が信濃平定に進めたのも信虎が甲斐を統一した素地があったからこそと、信虎の功績が現在は再評価されているということ。

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