
2-5、信繫、家訓を作成

永禄元年(1558年)4月、信繫は99箇条の家訓を作成して嫡子の信豊に与えたということで、序文は長禅寺住職の春国光新が撰文し、内容も「論語」などの中国古典から引用され、「惣領家に対して謀反をしてはならない」などと、ひたすら兄信玄の御屋形様に服従をうたい、「他家の人に家中の悪事ゆめ語るべからず」と諭し、家臣を大事にしろとこと細かく指示し、信繁の教養や心配り誠実な人柄を彷彿とさせるものだそう。
信玄が制定した「甲州法度之次第」もこの信繁の家訓参考にしたということで、信繁の家訓は江戸時代の武士や儒学者にも武士の心得を示すものと愛読されて、信繫は「まことの武将」とうたわれることに。また信繁は、天文17年(1548年)に公卿の四辻季遠らが甲斐を訪れた際、和歌を詠んだなど教養が高かったことが伺われるということです。
2-6、川中島合戦の勃発
信濃の領主だった村上義清は、その後北方へと落ち延びて越後の上杉謙信を頼り、奥信濃の高梨、井上両氏らも武田家の脅威に不安を感じ上杉謙信に助けを求めたために、謙信は武田家の行動を脅威として信濃へ出兵。
そういうわけで北信濃の川中島で、上杉軍と武田軍が天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)まで、5回にわたり12年もの間戦うことに。信繁は北信濃戦線の専任指揮官に任命され、川中島で上杉軍と戦ったのですね。
こちらの記事もおすすめ

甲斐の虎武田信玄と越後の龍上杉謙信が五度に渡り行った「川中島の戦い」を戦国通サラリーマンが5分でわかりやすく解説
2-7、川中島での最期

戦国武将には必ず影武者がいたといわれていますが、武田信玄にも何人かの影武者がいたということで、もうひとりの弟である武田信廉が信玄にそっくりだったとして有名だが、信繫自身も信玄によく似ていたため影武者の一人であったとか、信繫が常日頃から、もし御屋形様(信玄)に一大事があれば、かならず自分が身代わりとなると話していたということで、永禄4年(1561年)9月の第4次川中島合戦での上杉謙信との一騎打ちも、信玄ではなく信繫だったかもと言われています。
この合戦では、妻女山に陣取った上杉謙信の陣に別働隊が攻撃を仕掛ける間に、信玄の本隊が退却してくる上杉軍を待ち伏せて挟み撃ちにする啄木鳥戦法の作戦をとったのですが、謙信はこの作戦を見破って武田の別働隊が妻女山山頂へ到達する前に下山、武田軍本陣前の千曲川へと布陣して夜明けと共に戦闘状態に入りました。
信繁の守る武田軍本陣は8000、上杉軍は妻女山麓に抑えに1000を残して、総大将の謙信が1万2000の軍を指揮していたということで、謙信の陣形は「車懸かり」という戦法で、武田軍の陣形は「鶴翼の陣」だったということ。そしてこの戦いは、戦国史上最大の死傷者を出す大決戦となり、戦いの最中、武田本隊に謙信は単騎で突入、床机に座した信玄に馬上から三太刀斬りつけ、信玄は鉄製の軍配で太刀を防いだという伝説が生まれ、両大将が直接対決する激戦に。
信繁は本隊の前衛として布陣していたのですが、別働隊が千曲川流域へ到達するまでの時間稼ぎとして自らも槍を持ち、信玄には、全員が討死覚悟なので援軍は不要、自分たちが戦う間に勝利の工夫をせよと使者を送り、家臣の春日源之丞に「長老丸(信豊)の事を頼む」と愛用の母衣を渡して戦闘に飛び込んだが、数刻後、武田軍の別働隊が上杉軍の後背をついて優勢を取り戻したときには、すでに信繁は37歳で討死した後だったそう。
信繁を討った人物は特定できないが、信繁の忠臣が信繁の首を上杉軍から取り戻し、兄信玄は信繁の遺体を抱き寄せて号泣し、家臣たちも敵味方問わずに悔やんだということです。
3、信繫の死後の評価
信繫は名高い名将だっただけに、川中島で戦死した事を悔やむ者は多く、敵の上杉謙信からもその死を悼まれたという話もあり、武田方の武将の山県昌景と内藤昌豊は、「万事よく整えてこなせる素晴らしい副将」と評し、当時は、信玄の近習として仕えていた武藤喜兵衛昌幸、後の真田昌幸は、信繁の武徳にあやかろうとして「信繁」と名付けた次男が、後年大坂夏の陣で活躍した真田信繁(幸村)だったということは有名。
また、その後、信玄と嫡男義信の関係が悪化し、義信は切腹に追い込まれるのですが、信繫が生きていればそうならなかった、そしてその後の武田家滅亡もなかったかもと言われるほど、有能で誠実な副将であった信繫の存在は武田家にとってかけがえのない副将、その早すぎる死は武田家にとってかなりの打撃だったことは間違いないことでしょう。
兄信玄に従い、副将として人生を捧げた
武田信繫は守護大名の武田信虎の4男、あの武田信玄の4つ違いの弟として生まれ、子供の時から信玄よりも可愛かったのか才気煥発だったのか、父信虎に可愛がられて、信玄を廃嫡して跡取りにされそうになった人。
こういう事例は武家にはよくあることで、織田信長と弟勘十郎信行、伊達政宗と弟小次郎、徳川家光と弟忠長など、すべて兄が継承して当主となったあとに弟を殺害に追い込むのが定番ですが、信玄と信繫は違ったのですね。追放されたのは父信虎で、信繫は常に信玄を立てて、信玄も信繫を信頼して軍事から民事、外交まで任せたという最高の主従関係となり、信繫はその後も武田家になくてはならない存在に。信繫は教養もある人で、息子に残すために書いたという99か条の家訓は有名で、最後は信玄の身代わりとなって川中島合戦で討ち死に、信玄は号泣したということ。
そしてその死後も、信繫がもし生きていればその後の武田家の内紛も収めただろう、また武田家も滅亡しなかっただろうと言われるほど惜しまれ、武田家家臣だった真田昌幸は次男に信繫の名をつけたし、江戸時代にも人気があったのも納得。信玄の偉大さに隠れているが、もっと知られてもよい武将ではないでしょうか。