今回は武田信繫を取り上げるぞ。武田信玄の弟、しかもものすごく出来た人だったんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代にも興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田信繫について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田信繫は、甲斐の国の生まれ

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武田信繁(たけだのぶしげ)は、大永5年(1525年)、甲斐武田氏18代の守護大名武田信虎の4男として躑躅が崎の館で誕生。母は正室の大井氏で、3人の兄のうち長兄と3兄は夭折し、4歳上の同母兄が武田信玄

幼名は次郎、諱は信繫、左馬助(さまのすけ)を任官したので、唐風に典厩(てんきゅう)とよばれ、のちに息子も典厩を名乗ったので、後世では「古典厩」と呼ばれて区別されているそうです。

1-2、信繫の子供時代

兄信玄と信繫は子供の頃から較べられることが多く、信繫は上手に馬を乗りこなしても信玄は下手だったとか、刀の試し切りで罪人を斬れと父信虎が命じたとき、信玄は震えて出来なかったが、信繫は難なく据物斬りを行ったなど、兄の信玄よりも器量が勝っていたという逸話がてんこ盛り

そういうわけで、子供の頃から父信虎は跡取りの信玄よりも信繫を可愛がっていたそうで、天文7年(1538年)正月元日の祝儀の席上で、信虎は18歳の信玄の盃に酒をつがずに、14歳の信繁にだけ酒をついだという出来事もあったので、ついには兄信玄を追放して信繫を跡取りにするつもりだったのではと言われています。

しかし信繁は兄の信玄を差し置いて父信虎の寵愛をかさに着たり、出しゃばったりすることはなく、むしろ兄を尊敬するあまりに常に控えめで、ひたすら兄に従っていたということです。尚、母の大井殿は禅僧の岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を大井氏の菩提寺である長禅寺に招き、息子信玄に「四書五経」「孫子」「呉子」等を学ばせたということなので、当然信繫も一緒に学んだはず、賢い信繫は「論語」などから長幼の序をみっちりと学んで実践したのでしょう

1-3、信繫、兄と同時元服も遠慮

天文5年(1536年)3月、兄の信玄は15歳で元服したのですが、同時に元服をすすめられた11歳の信繁は、「兄上の許可なくして元服はしない」という起請文を出して辞退し、後で兄信玄の許可を得てから元服したという話があるということで、正室から生まれ同じように育てられたはずの同母兄弟なのに、まるで庶子のようなへりくだり方。

尚、当時は元服後すぐに初陣を行ったものだそうですが、信繫の初陣の時期は定かではなく、父信虎の時代の合戦時は甲府で留守居を命じられていたため、戦陣へ出る機会はなかったということです。

1-4、父信虎が追放に

「高白斎記」によれば、天文10年(1541年)6月、信玄21歳、信繁は17歳のとき、父信虎が信濃国から凱旋したのちに、信玄、信繫の姉婿でもある駿河の守護大名の今川義元と会うため、河内路を通って駿河国に赴いたのですが、板垣信方、甘利虎泰らの譜代家臣の支持で兄の信玄が甲駿国境を封鎖、信虎が帰れないようにして駿河へ追放、強制隠居に追い込みました

そして兄信玄が19代として武田家の家督と守護職を相続。尚、父信虎は当時49歳で、隠居料をもらって娘婿の今川義元の元に寓居、信玄、信繫らの母で信虎の正室大井夫人は甲斐国に残留したが、信虎の側室は駿河国へ赴いてその後も弟や妹が生まれたそう。

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父信虎の追放の理由

信玄を廃嫡して信繫を跡継ぎにしようとしたのを信玄が阻止した親子不和説家臣との関係悪化説などがあるということで、信虎は度重なる戦のための軍資金調達で農民や国人に重い負担の税を課し、領民からも嫌われていたので、信虎の追放と代替わりは領民からも歓迎されたそう。

また、後に描かれた武田24将図にあらわされたごとく、信虎はトップではあっても24将のうちのひとり、重臣たちとは合議制だったということで、重臣の力がかなり強いため、信虎が重臣たちの意にそぐわなくなったため追放されたということらしいです。

2-1、信繫、信玄の右腕として大活躍

父を追放して当主となった信玄は、甲斐武田家の体制刷新を行いましたが、信繁は信玄の次弟として穴山信友(信玄らの妹の婿で、信君の父)と共に御親類衆として高い地位に置かれたということ。

また信玄は今川氏との同盟関係を継続する一方で信濃国へ侵攻を試み、まず諏訪氏の領地奪取に本腰を入れたのですが、信繁は宿老の板垣信方と出陣、諏訪攻略の中心的存在になり、諏訪郡の平定後は、板垣信方と共に統治と鎮定も担当して領民の安定にも貢献しました。信繫は天文14年(1545年)の高遠頼継が反乱を起こした際も、鎮圧のため派遣された軍の大将として高遠頼継を討伐し、大井氏や藤沢氏といった北信濃の有力豪族を次々と下したということ。

信繫は合戦の指揮だけでなく、占領した領地の統治などにも関わり、内政や諸大名や豪族達との外交折衝も担当、軍事、政治を行う上で、信玄の右腕として欠かせない存在となっていたということです。尚、信繫は占領した地の暫定統治は行ったが、自分の城、直轄地などの領地は持たなかったそう。

2-2、甲州法度の次第を制定

天文16年(1547年)6月、信玄は武田家の分国法である「甲州法度之次第」を制定

もちろん信繫もこの制定に深くかかわったということで、内容は中国古典の「論語」などの引用が多く多岐に渡り、領主である信玄自身もこの法度を守ると宣言しているのがみそだということで、この法度を見れば武田氏の領国経営の概略がわかるうえに、戦国期の社会構造の一端も垣間見えるといわれています。

2-3、信繫、信玄が完敗した戦いで挽回

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兄信玄は家督相続以来、信濃制圧のための戦いで連戦連勝を続けていたが、天文17年(1548年)2月、北信濃の戦国大名村上義清との上田原(現長野県上田市)の合戦では大敗、板垣信方と甘利虎泰らの重臣が討死したりと多くの将兵を失ったが、信繫は7月に騎馬隊500を率いて塩尻峠で奇襲攻撃を行い、小笠原長時を圧倒、おかげで武田軍は勢いを盛り返したということです。そして天文20年(1551年)には、信濃最後の強豪だった村上義清の砥石城を攻略して、武田家による信濃支配が確立しました。

2-4、信繫、吉田家の名跡を継ぐ

天文19年(1550年)に兄信玄の嫡男義信が元服すると、信繫は翌年の天文20年(1551年)に武田氏の庶流である吉田氏の名跡を継ぐことに。信繫が吉田姓を名乗ったことは文書上でも確認されていないのですが、これによって武田の惣領家に対する信繫の遠慮、臣下の礼を取る気持ちが示されたそうです。

また信繫は、天文20年(1551年)7月、村上攻めのために先陣として出陣し、天文22年(1553年)4月には甲斐衆今井岩見守に対して、落城した信濃国苅屋原城主の任命を通達、4月には攻略した村上方の葛尾城に在城していた秋山虎繁(信友)に対して信玄の上意を通達、恩賞を与えるなど信玄の代理の役目を行った記録があるそう。

また武田氏は征服した信濃諸族に対して一族の子を養子にして懐柔させる方針だったので、信繁の庶長子も信濃佐久郡の望月氏の養子に入ったということです。

\次のページで「2-5、信繫、家訓を作成」を解説!/

2-5、信繫、家訓を作成

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永禄元年(1558年)4月、信繫は99箇条の家訓を作成して嫡子の信豊に与えたということで、序文は長禅寺住職の春国光新が撰文し、内容も「論語」などの中国古典から引用され、「惣領家に対して謀反をしてはならない」などと、ひたすら兄信玄の御屋形様に服従をうたい、「他家の人に家中の悪事ゆめ語るべからず」と諭し、家臣を大事にしろとこと細かく指示し、信繁の教養や心配り誠実な人柄を彷彿とさせるものだそう。

信玄が制定した「甲州法度之次第」もこの信繁の家訓参考にしたということで、信繁の家訓は江戸時代の武士や儒学者にも武士の心得を示すものと愛読されて、信繫は「まことの武将」とうたわれることに。また信繁は、天文17年(1548年)に公卿の四辻季遠らが甲斐を訪れた際、和歌を詠んだなど教養が高かったことが伺われるということです。

2-6、川中島合戦の勃発

信濃の領主だった村上義清は、その後北方へと落ち延びて越後の上杉謙信を頼り、奥信濃の高梨、井上両氏らも武田家の脅威に不安を感じ上杉謙信に助けを求めたために、謙信は武田家の行動を脅威として信濃へ出兵。

そういうわけで北信濃の川中島で、上杉軍と武田軍が天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)まで、5回にわたり12年もの間戦うことに。信繁は北信濃戦線の専任指揮官に任命され、川中島で上杉軍と戦ったのですね。

2-7、川中島での最期

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戦国武将には必ず影武者がいたといわれていますが、武田信玄にも何人かの影武者がいたということで、もうひとりの弟である武田信廉が信玄にそっくりだったとして有名だが、信繫自身も信玄によく似ていたため影武者の一人であったとか、信繫が常日頃から、もし御屋形様(信玄)に一大事があれば、かならず自分が身代わりとなると話していたということで、永禄4年(1561年)9月の第4次川中島合戦での上杉謙信との一騎打ちも、信玄ではなく信繫だったかもと言われています。

この合戦では、妻女山に陣取った上杉謙信の陣に別働隊が攻撃を仕掛ける間に、信玄の本隊が退却してくる上杉軍を待ち伏せて挟み撃ちにする啄木鳥戦法の作戦をとったのですが、謙信はこの作戦を見破って武田の別働隊が妻女山山頂へ到達する前に下山、武田軍本陣前の千曲川へと布陣して夜明けと共に戦闘状態に入りました。

信繁の守る武田軍本陣は8000、上杉軍は妻女山麓に抑えに1000を残して、総大将の謙信が1万2000の軍を指揮していたということで、謙信の陣形は「車懸かり」という戦法で、武田軍の陣形は「鶴翼の陣」だったということ。そしてこの戦いは、戦国史上最大の死傷者を出す大決戦となり、戦いの最中、武田本隊に謙信は単騎で突入、床机に座した信玄に馬上から三太刀斬りつけ、信玄は鉄製の軍配で太刀を防いだという伝説が生まれ、両大将が直接対決する激戦に。

信繁は本隊の前衛として布陣していたのですが、別働隊が千曲川流域へ到達するまでの時間稼ぎとして自らも槍を持ち、信玄には、全員が討死覚悟なので援軍は不要、自分たちが戦う間に勝利の工夫をせよと使者を送り、家臣の春日源之丞に「長老丸(信豊)の事を頼む」と愛用の母衣を渡して戦闘に飛び込んだが、数刻後、武田軍の別働隊が上杉軍の後背をついて優勢を取り戻したときには、すでに信繁は37歳で討死した後だったそう。

信繁を討った人物は特定できないが、信繁の忠臣が信繁の首を上杉軍から取り戻し、兄信玄は信繁の遺体を抱き寄せて号泣し、家臣たちも敵味方問わずに悔やんだということです。

3、信繫の死後の評価

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信繫は名高い名将だっただけに、川中島で戦死した事を悔やむ者は多く、敵の上杉謙信からもその死を悼まれたという話もあり、武田方の武将の山県昌景と内藤昌豊は、「万事よく整えてこなせる素晴らしい副将」と評し、当時は、信玄の近習として仕えていた武藤喜兵衛昌幸、後の真田昌幸は、信繁の武徳にあやかろうとして「信繁」と名付けた次男が、後年大坂夏の陣で活躍した真田信繁(幸村)だったということは有名。

また、その後、信玄と嫡男義信の関係が悪化し、義信は切腹に追い込まれるのですが、信繫が生きていればそうならなかった、そしてその後の武田家滅亡もなかったかもと言われるほど、有能で誠実な副将であった信繫の存在は武田家にとってかけがえのない副将、その早すぎる死は武田家にとってかなりの打撃だったことは間違いないことでしょう。

兄信玄に従い、副将として人生を捧げた

武田信繫は守護大名の武田信虎の4男、あの武田信玄の4つ違いの弟として生まれ、子供の時から信玄よりも可愛かったのか才気煥発だったのか、父信虎に可愛がられて、信玄を廃嫡して跡取りにされそうになった人。

こういう事例は武家にはよくあることで、織田信長と弟勘十郎信行、伊達政宗と弟小次郎、徳川家光と弟忠長など、すべて兄が継承して当主となったあとに弟を殺害に追い込むのが定番ですが、信玄と信繫は違ったのですね。追放されたのは父信虎で、信繫は常に信玄を立てて、信玄も信繫を信頼して軍事から民事、外交まで任せたという最高の主従関係となり、信繫はその後も武田家になくてはならない存在に。信繫は教養もある人で、息子に残すために書いたという99か条の家訓は有名で、最後は信玄の身代わりとなって川中島合戦で討ち死に、信玄は号泣したということ。

そしてその死後も、信繫がもし生きていればその後の武田家の内紛も収めただろう、また武田家も滅亡しなかっただろうと言われるほど惜しまれ、武田家家臣だった真田昌幸は次男に信繫の名をつけたし、江戸時代にも人気があったのも納得。信玄の偉大さに隠れているが、もっと知られてもよい武将ではないでしょうか。

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室町時代戦国時代日本史歴史

兄の武田信玄を支え続けた名将「武田信繫」をわかりやすく歴女が解説

今回は武田信繫を取り上げるぞ。武田信玄の弟、しかもものすごく出来た人だったんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代にも興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、武田信繫について5分でわかるようにまとめた。

1-1、武田信繫は、甲斐の国の生まれ

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武田信繁(たけだのぶしげ)は、大永5年(1525年)、甲斐武田氏18代の守護大名武田信虎の4男として躑躅が崎の館で誕生。母は正室の大井氏で、3人の兄のうち長兄と3兄は夭折し、4歳上の同母兄が武田信玄

幼名は次郎、諱は信繫、左馬助(さまのすけ)を任官したので、唐風に典厩(てんきゅう)とよばれ、のちに息子も典厩を名乗ったので、後世では「古典厩」と呼ばれて区別されているそうです。

1-2、信繫の子供時代

兄信玄と信繫は子供の頃から較べられることが多く、信繫は上手に馬を乗りこなしても信玄は下手だったとか、刀の試し切りで罪人を斬れと父信虎が命じたとき、信玄は震えて出来なかったが、信繫は難なく据物斬りを行ったなど、兄の信玄よりも器量が勝っていたという逸話がてんこ盛り

そういうわけで、子供の頃から父信虎は跡取りの信玄よりも信繫を可愛がっていたそうで、天文7年(1538年)正月元日の祝儀の席上で、信虎は18歳の信玄の盃に酒をつがずに、14歳の信繁にだけ酒をついだという出来事もあったので、ついには兄信玄を追放して信繫を跡取りにするつもりだったのではと言われています。

しかし信繁は兄の信玄を差し置いて父信虎の寵愛をかさに着たり、出しゃばったりすることはなく、むしろ兄を尊敬するあまりに常に控えめで、ひたすら兄に従っていたということです。尚、母の大井殿は禅僧の岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を大井氏の菩提寺である長禅寺に招き、息子信玄に「四書五経」「孫子」「呉子」等を学ばせたということなので、当然信繫も一緒に学んだはず、賢い信繫は「論語」などから長幼の序をみっちりと学んで実践したのでしょう

1-3、信繫、兄と同時元服も遠慮

天文5年(1536年)3月、兄の信玄は15歳で元服したのですが、同時に元服をすすめられた11歳の信繁は、「兄上の許可なくして元服はしない」という起請文を出して辞退し、後で兄信玄の許可を得てから元服したという話があるということで、正室から生まれ同じように育てられたはずの同母兄弟なのに、まるで庶子のようなへりくだり方。

尚、当時は元服後すぐに初陣を行ったものだそうですが、信繫の初陣の時期は定かではなく、父信虎の時代の合戦時は甲府で留守居を命じられていたため、戦陣へ出る機会はなかったということです。

1-4、父信虎が追放に

「高白斎記」によれば、天文10年(1541年)6月、信玄21歳、信繁は17歳のとき、父信虎が信濃国から凱旋したのちに、信玄、信繫の姉婿でもある駿河の守護大名の今川義元と会うため、河内路を通って駿河国に赴いたのですが、板垣信方、甘利虎泰らの譜代家臣の支持で兄の信玄が甲駿国境を封鎖、信虎が帰れないようにして駿河へ追放、強制隠居に追い込みました

そして兄信玄が19代として武田家の家督と守護職を相続。尚、父信虎は当時49歳で、隠居料をもらって娘婿の今川義元の元に寓居、信玄、信繫らの母で信虎の正室大井夫人は甲斐国に残留したが、信虎の側室は駿河国へ赴いてその後も弟や妹が生まれたそう。

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