今回はフランシスコ・ザビエルを取り上げるぞ。日本にキリスト教を伝えたことで有名ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをキリスト教、戦国時代、安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、キリスト教家庭の育ちで戦国時代、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、フランシスコ・ザビエルについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、フランシスコ・ザビエルはバスクの生まれ

1506年頃の4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で誕生。父は地方貴族でドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタ(ドン、ドーニャは敬称)。ザビエルは兄2人、姉2人の5人きょうだいの末っ子。

1-2、ザビエルの名前の発音は

日本ではザビエルと呼んでいますが、スペイン語では「ハビエル」ポルトガル語では「シャヴィエル」と発音し、バスク語で「新しい家」という意味だそう。またかつて日本のカトリック教会では、イタリア語読みで「ザベリオ」と呼んでいたり、ザビエルにゆかりの深い山口県では、現在でも「サビエル」。

しかし「街道をゆく22 南蛮のみち」によると、「南蛮のバテレン」の著者の松田毅一教授が、ザビエルとはパリ大学に入学時に名乗った母方の姓で、正しくはバスク語で「フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエイタ・イ・エチェベリーア」だということ。

1-3、ザビエルの生家は

ザビエルはスペインとフランスの国境に近い、バスク地方の出身です。ここは独立国家でスペインでもフランスでもない独自の文化を持つ小国で、ベレー帽の発祥の地としても有名。

ザビエルの父は北イタリアのボローニャ大学で法律を治めて学位を取った文官でナバラ王フアン3世の信頼厚い宰相、末子のフランシスコ・ザビエルが生まれたときは、すでに60歳過ぎで忙しくてあまり家にいなかったうえに、ザビエルが6歳の時に死去。ナバラ王国は独立した小国でしたが、フランス、カスティーリャとアラゴンが合併したスペインの間で紛争となり、1515年スペインと併合されてしまったそう。

ザビエルの父フアンはこの激動の中で死去し、ザビエルの一族はその後もバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることに。

1-4、ザビエル、パリ大学でイエズス会に

ザビエルは兄たちに軍人になることをすすめられたが、学問の道を選び、1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院で自由学芸を修めて哲学を学び、哲学教授を目指していたそう。

そしてフランス出身で後にイエズス会創始者のひとりとなったピエール・ファーヴルと同室となり、ザビエルと同郷のバスク人で37歳のイグナチオ・デ・ロヨラに目をつけられたということです。デ・ロヨラは軍人としてパンプローナの戦いで片足の自由を失った後、故郷のロヨラ城で療養し、スペインのアルカラ大学からパリ大学モンテーギュ学院へ来て学んでいたということ。

そして1529年、ザビエルの母が亡くなり、4年後にはガンディアの女子修道院長の姉も亡くなったこともあったのか、20代のザビエルは哲学コースの最後の課程で学んでいた時期にデ・ロヨラにも強い影響を受けて、聖職者を志したのですね。

1-5、ザビエル、イエズス会創設のメンバーに

1534年8月15日、ロヨラの感化を受けた、ロヨラ、ザビエル、ファーブル、シモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂で神に生涯を捧げるという誓いを立てる、「モンマルトルの誓い」を行い、イエズス会が創立されました。この時、唯一司祭の資格を持っていたファーブルがミサを執り行ったということです。

7人は高潔で学識も高かったために当時のローマ教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられ、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階。尚、エルサレム巡礼の誓いを立てたものの、国際情勢の悪化で渡航は断念。

イエズス会とは
キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にローマ教皇パウロ3世が承認。世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を布教。

尚、「イエズス」とは中世ラテン語で、昔からカトリックでのイエス・キリストの日本語表記ということです。イエズス会は創設当初から世界各地での宣教活動や教育を重視したために、優秀な宣教師たちを積極的に世界に向けて派遣し、キリスト教教育を行う学校を設立。

尚、現在もイエズス会はカトリックでは2番目に大きな修道会で、現ローマ教皇フランシスコは初のイエズス会出身のローマ教皇なのですね。

2-1、ザビエル、インドのゴアへ派遣

イエズス会の方針のひとつに世界への宣教があったこともあり、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することに。

ザビエルは、シモン・ロドリゲスとポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデスとともに、1541年4月7日の35歳の誕生日にリスボンを出発。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発し、5月6日ゴアに到着

ゴアを拠点にしてインド各地で宣教活動に入り、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島で宣教活動を続けて多くの人々をキリスト教徒に改宗させたそう。そして1547年12月、マラッカに戻ったザビエルは鹿児島出身の日本人ヤジロウ(アンジロウ)に出会いました

ヤジロウ(アンジロウ)とは
ヤジロウは薩摩国または大隅国(現鹿児島県)の出身といわれる、日本人として最初にキリスト教の洗礼を受けた人物です。ヤジロウはもとは貿易に従事、またはルイス・フロイスの「日本史」では海賊であったということで、彼自身、そしてザビエルの書簡によれば、ヤジロウは若い頃に殺人を犯して、天文15年(1546年)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船に乗ってマラッカへ逃亡。この船の船長のジョルジュ・アルヴァレスが、ヤジロウにザビエルを紹介、罪を告白するためにヤジロウはザビエルを訪ねたということ。

ヤジロウはザビエルの導きでゴアに送られて、1548年の聖霊降臨祭(キリスト教の祭日で復活祭の50日後の日曜日)にボン・ジェス教会で日本人として初めて洗礼を受けたそう。洗礼名は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」で、その後ヤジロウは聖パウロ学院でキリスト神学を学ぶことに。

ヤジロウの人柄とアドバイスから、ザビエルは日本での布教活動を決意し、1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従ってゴアを離れて同年8月15日に鹿児島に上陸、しかしその後のヤジロウの生涯は不明。フロイスの記述では、ザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れ、海賊に戻って最後は中国近辺で殺害された説。またフェルナン・メンデス・ピントの「東洋遍歴記」、ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」では、日本で仏教の僧侶らに迫害を受けて出国し、中国付近で海賊に殺された説。また鹿児島県には、ヤジロウが身を潜めて宣教を続けた伝承があり、甑島(こしきしま)にある天上墓はヤジロウの墓であり、クロ教(クロ宗)はヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰であるという伝説があるそう。

2-2、ザビエル、布教のため日本へ

image by PIXTA / 12444220

1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、ヤジロウに話を聞くだけでなく、船長のジョルジュ・アルヴァレスに日本や日本人について記述させて日本への布教への情報を得ました。

そして翌1549年4月15日、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人らとともにジャンク船でゴアを出発し、日本へと船出。 一行は明の上川島(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内で薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、天文18年(1549年)8月15日に現鹿児島市祇園之洲町に来着。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げたということです。

2-3、ザビエル鹿児島で布教

image by PIXTA / 33815418

ザビエルは9月には、伊集院城(または一宇治城、現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名島津貴久に謁見、宣教の許可を得ました。

ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人と宗教論争を行ったり、日本人初のヨーロッパ留学生となった鹿児島のベルナルドなどに出会い、約100人の日本人をキリスト教に改宗させ、キリストの教えと仏教の考え方に共通するものがあるのを見出したといわれています。しかし、島津貴久が仏教僧の助言を聞き入れてキリスト教の禁教に傾いたため、薩摩を去ったそう。

初のヨーロッパ留学生ベルナルド
薩摩出身で鹿児島のベルナルドと呼ばれ、日本名は伝わっていないが、日本人最初のヨーロッパ留学生。ザビエルの鹿児島での宣教活動で最初に洗礼を受けたキリシタンのひとりで、その後、平戸、山口、京都とザビエルに同行。ザビエルは離日するときに、ベルナルドと山口のマテオを渡欧させようとインドに同伴したが、マテオはゴアで病死。

ベルナルドは天文22年(1553年)にリスボンに到着し、日本人として初めてヨーロッパへ渡航した人物となりました。そしてリスボンでイエズス会に入会、書簡などでベルナルドについて聞き知っていたイエズス会総長デ・ロヨラの招きでローマへ行き、ローマ教皇にも謁見を許されたのですが、長旅のせいか病弱となり、ポルトガルのコインブラ大で勉学中に1557年に病死。ベルナルドの深い信仰と清々しい生き方に対してイエズス会員たちは深い感銘を受けたということです。

\次のページで「2-4、ザビエル、平戸で日本初の教会を建てる」を解説!/

2-4、ザビエル、平戸で日本初の教会を建てる

image by PIXTA / 50624105

天文19年(1550年)6月、ザビエルはポルトガル船が寄港したと聞き、9月にコスメ・デ・トーレス神父と宣教師フアン・フェルナンデスと平戸に移住。鹿児島での布教活動はヤジロウに委ねられたそう。

ザビエルは平戸でのわずか20日間の布教活動で、鹿児島での1年より多くの信者を獲得し、翌年1月、平戸に日本初の教会が建築されました。この教会の遺構は現在、復元されたオランダ商館の近くにある平戸崎方公園に残っているそう。ザビエルは10月には、日本全土での布教活動の許可を得るために天皇と謁見しようとして京都へ。

2-5、ザビエル、山口から堺、京都へ

ザビエルは11月上旬に周防国山口に到着し、領主に無許可で宣教活動を行いました。当時の周防の守護大名だった大内義隆に謁見したが、男色を罪としているキリスト教の教えが義隆の怒りを買ったために、12月17日に周防を発ち、岩国から海路で堺に上陸、豪商の日比屋了珪と出会ったそう。

ザビエル一行は、天文20年(1551年)1月、豪商日比屋了珪の支援で京に到着し、了珪の紹介で小西行長の父で豪商の小西隆佐に歓待されました。ザビエルは、日本全国での宣教の許可を「日本国王」から得ようとし、インド総督とゴアの司教の親書をもって、当時の後奈良天皇、室町幕府の14代将軍足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわず。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も拒まれたということですが、室町幕府は応仁の乱後、権威失墜していて戦乱の真っただ中で、それどころではなかったということ。当時の御所や京の町はかなり荒廃していたので、ザビエルは京での滞在をあきらめて、山口を経て、3月には平戸に戻ったそう。

2-6、ザビエル、再び山口へ

image by PIXTA / 48585157

ザビエルは、平戸に置いていた献上品を携えて、三たび山口に入り、天文20年(1551年)4月下旬、守護大名大内義隆に再謁見しました。貴人との会見時には外観が重視されると経験したザビエルは、美服を着用してヨーロッパからの珍しい文物を義隆に差し出したということ。

献上品は、天皇に捧呈しようと用意したインド総督とゴアの司教の親書、望遠鏡、洋琴、置時計、鏡、眼鏡、ギヤマンの水差し、ワイン、書籍、絵画、小銃などで、ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだそう。義隆は品々を受け取ってザビエルに宣教を許可し、廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えたので、ザビエルはこの大道寺で1日に2度のお説教を行って、約2ヵ月間に500人以上を改宗させました。

そして山口では、ひとりの盲目の琵琶法師がキリスト教の教えに感動してザビエルに従ったということで、これが後にイエズス会の強力な日本人宣教師となったロレンソ了斎。

2-7、ザビエル、豊後国でも布教

ザビエルは、豊後国府内(現大分県大分市)にポルトガル船が来着したと聞き、山口での布教活動をトーレスに託して豊後へ。

天文20年(1551年)9月、ザビエルは豊後国に到着し、守護大名の大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、保護を受けて布教活動に。大友義鎮は、27年後に洗礼を受けてキリシタン大名となるのですが、最初に出会ったザビエルを記念して、フランシスコの洗礼名を選んだという話が。

尚、有名な宗教画家のアンソニー・ヴァン・ダイクが想像して描いたという「豊後の大名、大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」がヨーロッパに残されているそうです。

2-8、ザビエル、再びインドへ

日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはイエズス会のアジア布教の本拠地であるインドのゴアからの連絡がなく、様子がわからないことを気にしていたために、インドに戻ることを決意。11月15日に鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの日本人4人を同行し、トーレス神父、フェルナンデス修道士らを日本に残して出帆。種子島、中国の上川島を経て、1552年2月15日、ゴアに到着

ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校の聖パウロ学院に入学させたが、マテオはゴアで病死、ベルナルドは前述のように学問を修めてヨーロッパに留学した最初の日本人に。

2-9、ザビエル、中国を目指したが

1552年4月、ザビエルは再び日本全土でキリスト教布教をすることを考え、そのためにはまず日本文化に大きな影響を与えてきた中国での宣教が不可欠と、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、ザビエル自身は中国を目指して、9月に四川省の上川島(じょうせんとう)に到着したが、中国への入境が出来ないままに病を得て12月3日、46歳で死去

3-1、ザビエルの死後

ザビエルの遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬されたあと、1553年2月にマラッカに移送、さらにゴアに移されました。ザビエルの遺骸は亡くなった後も生けるがごとく腐敗しなかったということで、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂で棺から出されて一般に拝観されたそう。

そのとき参観者の一人の婦人が、ザビエルの右足の指2本を噛み切って逃走。この2本の指は彼女の死後聖堂に返還され、1902年になってからはそのうちの1個がザビエルの故郷のハビエル城に帰還。ザビエルの遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されていて、10年に1度御開帳され、2014年11月23日から2015年1月4日の間にも行われたということです。

\次のページで「3-2、ザビエル、聖人となる」を解説!/

3-2、ザビエル、聖人となる

Franciscus de Xabier.jpg
不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

カトリック教会では、信者や聖職者の中で殉教した人などを列福、列聖し、聖人崇拝しています。資格は本人に徳があり、聖人にふさわしい人物ということと、生前と死後に奇跡が3回ずつ起きたということ、そして遺体が腐敗しないということで、バチカンの教皇庁が長い年月をかけて調査して決定。

ザビエルの場合もこの証明のため、1614年に右腕下膊が、ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断されてバチカンに送られたということです。この時、ザビエルの死後50年以上経過していましたが、右腕からは鮮血があり「奇跡」とされたそう。尚、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されていて、日本にはザビエル来朝400年記念と450年記念で1949年と1999年に、また2018年にはカナダに運ばれ、腕型の箱に入れられて展示されたということです。

尚、ザビエルの右腕上膊はマカオに、耳と毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京と分散保存。ザビエルは1619年10月25日に教皇パウルス5世に列福、1622年3月12日に盟友イグナチオ・ロヨラとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖されています。

3-3、ザビエルの日本人評と影響

ザビエルは膨大な書簡を残していて、日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじている」と高評価。

また、幕末に長崎で蘭学医たちに初めて体系的にオランダ医学を教えたオランダ人医師ポンペは、著書の中で、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と言ったザビエルの話はヨーロッパで広く知られているため、アメリカ合衆国がペリーのアメリカ艦隊を送った遠因でもあるは明らかだと述べているそうです。

3-4、ザビエルの兄の子孫が日本へ

ザビエルの兄ミゲルの子孫であるルイス・フォンテス神父(子孫と知ったのは最近らしい)は、ザビエルが日本からパリに送った手紙を少年期に読んで感動、母国スペインの神学校を卒業後に来日して教師になり、日本に帰化して泉類治と名乗って、宇部市のチャペル付きブライダル施設で司祭として活動されているそうです。

日本に初めてキリスト教をもたらしたイエズス会の創始者

フランシスコ・ザビエルは、フランスとスペインの国境にある小国バスクの貴族の生まれで、幼い頃に国が滅びてしまい、軍人になることを期待されたが、哲学者を志してパリ大学へ進み、そこで同国人の傷痍軍人イグナチオ・デ・ロヨラらと出会って聖職者の道に進み、イエズス会を結成しました。

そしてイエズス会の方針として世界への布教のため、インドのゴアへ渡りそこで日本人ヤジロウと出会ったのです。当時のヨーロッパ人にとって東の果ての日本はおとぎの国のように思えたようで、日本人に興味を持ったザビエルはキリスト教を布教するべく日本へ向かい、わずか2年余りの間に数百人をキリシタンに改宗。ザビエルは哲学者でもあったために、仏教や神道しか知らない当時の日本人にキリスト教信仰についての色々な質問をされても、仏教の僧侶に論争を吹っ掛けられても、異教徒を納得させる説明などお手の物だったということで、日本に最初にキリスト教を伝えた人はかなり高徳で学識の高い人であったのですね。

ザビエルはその後、さらに日本で布教するために先に中国へ布教へ行こうとしたが、かなわず病死しましたが、死後も聖人に祀られてにヨーロッパでは忘れることが出来ない存在に。ザビエルは日本に最初にキリスト教の足跡を残しただけでなく、ヨーロッパにも日本や日本人に関して最初に高評価を伝えたということは、やはり忘れてはいけないのではないでしょうか。

" /> 日本にキリスト教をもたらした「フランシスコ・ザビエル」をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
安土桃山時代日本史歴史

日本にキリスト教をもたらした「フランシスコ・ザビエル」をわかりやすく歴女が解説

今回はフランシスコ・ザビエルを取り上げるぞ。日本にキリスト教を伝えたことで有名ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをキリスト教、戦国時代、安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、キリスト教家庭の育ちで戦国時代、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、フランシスコ・ザビエルについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、フランシスコ・ザビエルはバスクの生まれ

1506年頃の4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で誕生。父は地方貴族でドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタ(ドン、ドーニャは敬称)。ザビエルは兄2人、姉2人の5人きょうだいの末っ子。

1-2、ザビエルの名前の発音は

日本ではザビエルと呼んでいますが、スペイン語では「ハビエル」ポルトガル語では「シャヴィエル」と発音し、バスク語で「新しい家」という意味だそう。またかつて日本のカトリック教会では、イタリア語読みで「ザベリオ」と呼んでいたり、ザビエルにゆかりの深い山口県では、現在でも「サビエル」。

しかし「街道をゆく22 南蛮のみち」によると、「南蛮のバテレン」の著者の松田毅一教授が、ザビエルとはパリ大学に入学時に名乗った母方の姓で、正しくはバスク語で「フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエイタ・イ・エチェベリーア」だということ。

1-3、ザビエルの生家は

ザビエルはスペインとフランスの国境に近い、バスク地方の出身です。ここは独立国家でスペインでもフランスでもない独自の文化を持つ小国で、ベレー帽の発祥の地としても有名。

ザビエルの父は北イタリアのボローニャ大学で法律を治めて学位を取った文官でナバラ王フアン3世の信頼厚い宰相、末子のフランシスコ・ザビエルが生まれたときは、すでに60歳過ぎで忙しくてあまり家にいなかったうえに、ザビエルが6歳の時に死去。ナバラ王国は独立した小国でしたが、フランス、カスティーリャとアラゴンが合併したスペインの間で紛争となり、1515年スペインと併合されてしまったそう。

ザビエルの父フアンはこの激動の中で死去し、ザビエルの一族はその後もバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることに。

1-4、ザビエル、パリ大学でイエズス会に

ザビエルは兄たちに軍人になることをすすめられたが、学問の道を選び、1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院で自由学芸を修めて哲学を学び、哲学教授を目指していたそう。

そしてフランス出身で後にイエズス会創始者のひとりとなったピエール・ファーヴルと同室となり、ザビエルと同郷のバスク人で37歳のイグナチオ・デ・ロヨラに目をつけられたということです。デ・ロヨラは軍人としてパンプローナの戦いで片足の自由を失った後、故郷のロヨラ城で療養し、スペインのアルカラ大学からパリ大学モンテーギュ学院へ来て学んでいたということ。

そして1529年、ザビエルの母が亡くなり、4年後にはガンディアの女子修道院長の姉も亡くなったこともあったのか、20代のザビエルは哲学コースの最後の課程で学んでいた時期にデ・ロヨラにも強い影響を受けて、聖職者を志したのですね。

1-5、ザビエル、イエズス会創設のメンバーに

1534年8月15日、ロヨラの感化を受けた、ロヨラ、ザビエル、ファーブル、シモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂で神に生涯を捧げるという誓いを立てる、「モンマルトルの誓い」を行い、イエズス会が創立されました。この時、唯一司祭の資格を持っていたファーブルがミサを執り行ったということです。

7人は高潔で学識も高かったために当時のローマ教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられ、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階。尚、エルサレム巡礼の誓いを立てたものの、国際情勢の悪化で渡航は断念。

イエズス会とは
キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にローマ教皇パウロ3世が承認。世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を布教。

尚、「イエズス」とは中世ラテン語で、昔からカトリックでのイエス・キリストの日本語表記ということです。イエズス会は創設当初から世界各地での宣教活動や教育を重視したために、優秀な宣教師たちを積極的に世界に向けて派遣し、キリスト教教育を行う学校を設立。

尚、現在もイエズス会はカトリックでは2番目に大きな修道会で、現ローマ教皇フランシスコは初のイエズス会出身のローマ教皇なのですね。

2-1、ザビエル、インドのゴアへ派遣

イエズス会の方針のひとつに世界への宣教があったこともあり、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することに。

ザビエルは、シモン・ロドリゲスとポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデスとともに、1541年4月7日の35歳の誕生日にリスボンを出発。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発し、5月6日ゴアに到着

ゴアを拠点にしてインド各地で宣教活動に入り、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島で宣教活動を続けて多くの人々をキリスト教徒に改宗させたそう。そして1547年12月、マラッカに戻ったザビエルは鹿児島出身の日本人ヤジロウ(アンジロウ)に出会いました

ヤジロウ(アンジロウ)とは
ヤジロウは薩摩国または大隅国(現鹿児島県)の出身といわれる、日本人として最初にキリスト教の洗礼を受けた人物です。ヤジロウはもとは貿易に従事、またはルイス・フロイスの「日本史」では海賊であったということで、彼自身、そしてザビエルの書簡によれば、ヤジロウは若い頃に殺人を犯して、天文15年(1546年)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船に乗ってマラッカへ逃亡。この船の船長のジョルジュ・アルヴァレスが、ヤジロウにザビエルを紹介、罪を告白するためにヤジロウはザビエルを訪ねたということ。

ヤジロウはザビエルの導きでゴアに送られて、1548年の聖霊降臨祭(キリスト教の祭日で復活祭の50日後の日曜日)にボン・ジェス教会で日本人として初めて洗礼を受けたそう。洗礼名は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」で、その後ヤジロウは聖パウロ学院でキリスト神学を学ぶことに。

ヤジロウの人柄とアドバイスから、ザビエルは日本での布教活動を決意し、1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従ってゴアを離れて同年8月15日に鹿児島に上陸、しかしその後のヤジロウの生涯は不明。フロイスの記述では、ザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れ、海賊に戻って最後は中国近辺で殺害された説。またフェルナン・メンデス・ピントの「東洋遍歴記」、ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」では、日本で仏教の僧侶らに迫害を受けて出国し、中国付近で海賊に殺された説。また鹿児島県には、ヤジロウが身を潜めて宣教を続けた伝承があり、甑島(こしきしま)にある天上墓はヤジロウの墓であり、クロ教(クロ宗)はヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰であるという伝説があるそう。

2-2、ザビエル、布教のため日本へ

image by PIXTA / 12444220

1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、ヤジロウに話を聞くだけでなく、船長のジョルジュ・アルヴァレスに日本や日本人について記述させて日本への布教への情報を得ました。

そして翌1549年4月15日、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人らとともにジャンク船でゴアを出発し、日本へと船出。 一行は明の上川島(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内で薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、天文18年(1549年)8月15日に現鹿児島市祇園之洲町に来着。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げたということです。

2-3、ザビエル鹿児島で布教

image by PIXTA / 33815418

ザビエルは9月には、伊集院城(または一宇治城、現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名島津貴久に謁見、宣教の許可を得ました。

ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人と宗教論争を行ったり、日本人初のヨーロッパ留学生となった鹿児島のベルナルドなどに出会い、約100人の日本人をキリスト教に改宗させ、キリストの教えと仏教の考え方に共通するものがあるのを見出したといわれています。しかし、島津貴久が仏教僧の助言を聞き入れてキリスト教の禁教に傾いたため、薩摩を去ったそう。

初のヨーロッパ留学生ベルナルド
薩摩出身で鹿児島のベルナルドと呼ばれ、日本名は伝わっていないが、日本人最初のヨーロッパ留学生。ザビエルの鹿児島での宣教活動で最初に洗礼を受けたキリシタンのひとりで、その後、平戸、山口、京都とザビエルに同行。ザビエルは離日するときに、ベルナルドと山口のマテオを渡欧させようとインドに同伴したが、マテオはゴアで病死。

ベルナルドは天文22年(1553年)にリスボンに到着し、日本人として初めてヨーロッパへ渡航した人物となりました。そしてリスボンでイエズス会に入会、書簡などでベルナルドについて聞き知っていたイエズス会総長デ・ロヨラの招きでローマへ行き、ローマ教皇にも謁見を許されたのですが、長旅のせいか病弱となり、ポルトガルのコインブラ大で勉学中に1557年に病死。ベルナルドの深い信仰と清々しい生き方に対してイエズス会員たちは深い感銘を受けたということです。

\次のページで「2-4、ザビエル、平戸で日本初の教会を建てる」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: