日本史

日本にキリスト教をもたらした「フランシスコ・ザビエル」をわかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回はフランシスコ・ザビエルを取り上げるぞ。日本にキリスト教を伝えたことで有名だが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをキリスト教、戦国時代、安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

angelica

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、キリスト教家庭の育ちで戦国時代、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、フランシスコ・ザビエルについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、フランシスコ・ザビエルはバスクの生まれ

1506年頃の4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で誕生。父は地方貴族でドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタ(ドン、ドーニャは敬称)。ザビエルは兄2人、姉2人の5人きょうだいの末っ子。

1-2、ザビエルの名前の発音は

日本ではザビエルと呼んでいますが、スペイン語では「ハビエル」ポルトガル語では「シャヴィエル」と発音し、バスク語で「新しい家」という意味だそう。またかつて日本のカトリック教会では、イタリア語読みで「ザベリオ」と呼んでいたり、ザビエルにゆかりの深い山口県では、現在でも「サビエル」。

しかし「街道をゆく22 南蛮のみち」によると、「南蛮のバテレン」の著者の松田毅一教授が、ザビエルとはパリ大学に入学時に名乗った母方の姓で、正しくはバスク語で「フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエイタ・イ・エチェベリーア」だということ。

1-3、ザビエルの生家は

ザビエルはスペインとフランスの国境に近い、バスク地方の出身です。ここは独立国家でスペインでもフランスでもない独自の文化を持つ小国で、ベレー帽の発祥の地としても有名。

ザビエルの父は北イタリアのボローニャ大学で法律を治めて学位を取った文官でナバラ王フアン3世の信頼厚い宰相、末子のフランシスコ・ザビエルが生まれたときは、すでに60歳過ぎで忙しくてあまり家にいなかったうえに、ザビエルが6歳の時に死去。ナバラ王国は独立した小国でしたが、フランス、カスティーリャとアラゴンが合併したスペインの間で紛争となり、1515年スペインと併合されてしまったそう。

ザビエルの父フアンはこの激動の中で死去し、ザビエルの一族はその後もバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることに。

1-4、ザビエル、パリ大学でイエズス会に

ザビエルは兄たちに軍人になることをすすめられたが、学問の道を選び、1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院で自由学芸を修めて哲学を学び、哲学教授を目指していたそう。

そしてフランス出身で後にイエズス会創始者のひとりとなったピエール・ファーヴルと同室となり、ザビエルと同郷のバスク人で37歳のイグナチオ・デ・ロヨラに目をつけられたということです。デ・ロヨラは軍人としてパンプローナの戦いで片足の自由を失った後、故郷のロヨラ城で療養し、スペインのアルカラ大学からパリ大学モンテーギュ学院へ来て学んでいたということ。

そして1529年、ザビエルの母が亡くなり、4年後にはガンディアの女子修道院長の姉も亡くなったこともあったのか、20代のザビエルは哲学コースの最後の課程で学んでいた時期にデ・ロヨラにも強い影響を受けて、聖職者を志したのですね。

1-5、ザビエル、イエズス会創設のメンバーに

1534年8月15日、ロヨラの感化を受けた、ロヨラ、ザビエル、ファーブル、シモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂で神に生涯を捧げるという誓いを立てる、「モンマルトルの誓い」を行い、イエズス会が創立されました。この時、唯一司祭の資格を持っていたファーブルがミサを執り行ったということです。

7人は高潔で学識も高かったために当時のローマ教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられ、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階。尚、エルサレム巡礼の誓いを立てたものの、国際情勢の悪化で渡航は断念。

イエズス会とは
キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にローマ教皇パウロ3世が承認。世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を布教。

尚、「イエズス」とは中世ラテン語で、昔からカトリックでのイエス・キリストの日本語表記ということです。イエズス会は創設当初から世界各地での宣教活動や教育を重視したために、優秀な宣教師たちを積極的に世界に向けて派遣し、キリスト教教育を行う学校を設立。

尚、現在もイエズス会はカトリックでは2番目に大きな修道会で、現ローマ教皇フランシスコは初のイエズス会出身のローマ教皇なのですね。

2-1、ザビエル、インドのゴアへ派遣

イエズス会の方針のひとつに世界への宣教があったこともあり、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することに。

ザビエルは、シモン・ロドリゲスとポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデスとともに、1541年4月7日の35歳の誕生日にリスボンを出発。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発し、5月6日ゴアに到着

ゴアを拠点にしてインド各地で宣教活動に入り、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島で宣教活動を続けて多くの人々をキリスト教徒に改宗させたそう。そして1547年12月、マラッカに戻ったザビエルは鹿児島出身の日本人ヤジロウ(アンジロウ)に出会いました

ヤジロウ(アンジロウ)とは
ヤジロウは薩摩国または大隅国(現鹿児島県)の出身といわれる、日本人として最初にキリスト教の洗礼を受けた人物です。ヤジロウはもとは貿易に従事、またはルイス・フロイスの「日本史」では海賊であったということで、彼自身、そしてザビエルの書簡によれば、ヤジロウは若い頃に殺人を犯して、天文15年(1546年)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船に乗ってマラッカへ逃亡。この船の船長のジョルジュ・アルヴァレスが、ヤジロウにザビエルを紹介、罪を告白するためにヤジロウはザビエルを訪ねたということ。

ヤジロウはザビエルの導きでゴアに送られて、1548年の聖霊降臨祭(キリスト教の祭日で復活祭の50日後の日曜日)にボン・ジェス教会で日本人として初めて洗礼を受けたそう。洗礼名は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」で、その後ヤジロウは聖パウロ学院でキリスト神学を学ぶことに。

ヤジロウの人柄とアドバイスから、ザビエルは日本での布教活動を決意し、1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従ってゴアを離れて同年8月15日に鹿児島に上陸、しかしその後のヤジロウの生涯は不明。フロイスの記述では、ザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れ、海賊に戻って最後は中国近辺で殺害された説。またフェルナン・メンデス・ピントの「東洋遍歴記」、ジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」では、日本で仏教の僧侶らに迫害を受けて出国し、中国付近で海賊に殺された説。また鹿児島県には、ヤジロウが身を潜めて宣教を続けた伝承があり、甑島(こしきしま)にある天上墓はヤジロウの墓であり、クロ教(クロ宗)はヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰であるという伝説があるそう。

2-2、ザビエル、布教のため日本へ

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1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、ヤジロウに話を聞くだけでなく、船長のジョルジュ・アルヴァレスに日本や日本人について記述させて日本への布教への情報を得ました。

そして翌1549年4月15日、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人らとともにジャンク船でゴアを出発し、日本へと船出。 一行は明の上川島(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内で薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、天文18年(1549年)8月15日に現鹿児島市祇園之洲町に来着。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げたということです。

2-3、ザビエル鹿児島で布教

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ザビエルは9月には、伊集院城(または一宇治城、現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名島津貴久に謁見、宣教の許可を得ました。

ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人と宗教論争を行ったり、日本人初のヨーロッパ留学生となった鹿児島のベルナルドなどに出会い、約100人の日本人をキリスト教に改宗させ、キリストの教えと仏教の考え方に共通するものがあるのを見出したといわれています。しかし、島津貴久が仏教僧の助言を聞き入れてキリスト教の禁教に傾いたため、薩摩を去ったそう。

初のヨーロッパ留学生ベルナルド
薩摩出身で鹿児島のベルナルドと呼ばれ、日本名は伝わっていないが、日本人最初のヨーロッパ留学生。ザビエルの鹿児島での宣教活動で最初に洗礼を受けたキリシタンのひとりで、その後、平戸、山口、京都とザビエルに同行。ザビエルは離日するときに、ベルナルドと山口のマテオを渡欧させようとインドに同伴したが、マテオはゴアで病死。

ベルナルドは天文22年(1553年)にリスボンに到着し、日本人として初めてヨーロッパへ渡航した人物となりました。そしてリスボンでイエズス会に入会、書簡などでベルナルドについて聞き知っていたイエズス会総長デ・ロヨラの招きでローマへ行き、ローマ教皇にも謁見を許されたのですが、長旅のせいか病弱となり、ポルトガルのコインブラ大で勉学中に1557年に病死。ベルナルドの深い信仰と清々しい生き方に対してイエズス会員たちは深い感銘を受けたということです。

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