今川義元との桶狭間の戦いによって一躍有名になった「織田信長」の「織田政権」。琵琶湖の安土城にあり、従来の常識にとらわれない政策を実施したことで大成功をおさめたんです。

今回は「織田政権」について、織田信長や当時の環境をまじえながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものをテーマにしたゲームも大好き。子どものころから親しんだ織田信長について詳しくまとめた。

1.戦国時代と戦国大名のはじまり

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室町幕府の支配システム

室町時代、地方の国々を支配するために「守護大名」という役職が置かれます。守護大名による領国支配体制を「守護領国制」といいました。

守護大名は、国内の武士の間で起こる紛争への介入権と司法執行権を持ち、また、税の徴収も行います。そのため、本来の税よりもこっそり多く徴収することもできたのです。これらの権限によって室町時代中期までに守護大名たちの権能は巨大なものとなっていました。

守護大名たちのなかでも特に有力だったのが足利氏の一門だった斯波(しば)氏や畠山氏、数ヶ国を支配する山名氏や細川氏です。しかし、彼らは幕府の政治にかかわるため都(京都)にいることが多く、領国には代理として家臣を「守護代」に任命して置きました。

室町幕府のシステム外にできた「戦国大名」

「戦国大名」は、守護大名と違って幕府に任命されてなるものではありません。戦国大名は幕府の権力から離れ、その土地の有力者や武装集団をおさえて独自に統治するようになった実力者たちでした。

将軍に任命されたわけではないので、将軍に対して戦国大名は臣下の礼を取る必要もないのです。なので、将軍の許可なく他国に戦争をしかけたり、独自の法律「分国法」をつくったりと、いろんなことが自由にできたのでした。

また、実力と下剋上の世界ですから、大名の出身家系も関係ありません。そのため、守護大名から戦国大名となった甲斐国(山梨県)の武田氏や、駿河国(静岡県)の今川氏がいるかと思えば、もともとは斯波氏の守護代だった織田信長の織田家や、農民出身の豊臣秀吉などとバリエーション豊かでした。

室町幕府の弱体化

1467年、将軍の跡継ぎ争いから「応仁の乱」が勃発しました。応仁の乱によって都は荒れ果て、ようやく乱が終わったと思いきや今度は1493年に細川政元にクーデター「明応の政変」が続き、幕府の権威はどんどん低下していきます。さらに泣きっ面に蜂とばかりに各地で一向宗(浄土真宗)による「一向一揆」がさかんになり、加賀などは大名に代わって一向一揆に治められるような事態に。

戦乱は全国に波及し、守護大名の疲弊と各地で戦国大名の台頭がはじまります。しかし、これで足利将軍家がなくなったわけではありません。たとえ、都にいなくても、足利将軍家は「征夷大将軍」の称号を持ち、すべての武士に命令できる武家の棟梁として健在だったのです。

将軍を目指した戦国大名たち

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各地で戦いを繰り広げる戦国大名たちでしたが、彼らはみんな同じように天下統一を目指しました。

しかし、天下取りのためには、武家の棟梁の証「征夷大将軍」の称号が必要です。そのため、戦国大名自身が征夷大将軍になるか、現在の征夷大将軍の足利氏を擁立するかの二択が彼らの目標になりました。

そして、どちらを実現させるにもまずは都に行かなければならず、戦国大名たちはこぞって上洛を目指したのです。その影響で起こったのが今川義元と織田信長の「桶狭間の戦い」でした。

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2.天下人「織田信長」の誕生

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狩野宗秀 (Kanō Sōshū, 1551 - 1601) - en:Image:Odanobunaga.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

守護代の家系だった織田氏

織田信長は尾張国(現在の愛知県西部)斯波氏の家臣清州織田氏に生まれた戦国大名でした。

織田氏は斯波氏の力が弱まると同時に、どんどん領地を広げていった戦国大名です。信長が織田氏の家督を継ぐと、分裂していた他の織田家を排除、尾張国の支配を固めていきました。

負け濃厚だった桶狭間の戦いで勝利

そんな最中の1560年、今川義元が天下統一を目指して大軍を率いて都にのぼろうとします。今川義元の駿河国から都の京都へ行く過程で信長の尾張国があり、今川義元が尾張を侵攻する形で押し通ろうとして「桶狭間の戦い」が起こったのです。

今川義元の大軍が二万から五万と言われているのに対して、信長の軍勢はわずか三千から五千人ほど。数の上では信長の負けが濃厚で、信長自身も死を覚悟した戦いでした。

しかし、ここで信長は今川義元に勝つために真っ向勝負ではなく、奇襲を仕掛けます。そうして、精鋭を率いた信長が今川義元の宿営に突っ込んだ乱戦の末、信長が今川義元を討ち取ったのでした。

桶狭間の戦いに勝利したことにより、信長は窮地を脱すると同時に、天下にその名を知らしめたのです。

足利義昭と信長包囲網に苦戦

桶狭間の戦いのあと、織田信長は尾張の統一、美濃国の征服を成し遂げます。そこへ助けを求めてきた十二代将軍・足利義晴の息子「足利義昭」を十五代足利将軍にすることで、信長は上洛を果たしたのです。

しかし、信長は自ら擁立した足利義昭の行動に制限をかける「殿中御掟」を成立させるなど、足利義昭を将軍として敬うより、信長のかいらいのように扱ったために対立。足利義昭によって「信長包囲網」が結ばれると、信長はいっきにピンチに陥りました。

最初は信長の妹・市が嫁入りした浅井長政を頼りに、信長包囲網の一翼を担う越前国(福井県北部)の朝倉義景に挑みます。けれど、ここで浅井長政が朝倉義景に味方するというまさかの展開に煮え湯を飲まされ、信長は撤退を強いられました。

信長包囲網、なんとか突破

そんな苦しい状況下でも、なんとか朝倉・浅井の連合軍を破り(姉川の戦い)、さらに琵琶湖周辺で巨大な力を持ち、朝倉・浅井に味方していた比叡山延暦寺を焼き討ちにしてしまいます。ちなみにですが、同じ天台宗でも延暦寺と対立していた比叡山のふもとにある天台宗寺門派の三井寺(天台寺門宗総本山、園城寺)は信長に味方していたため焼き討ちにはあいません。

織田信長は諦めることなく各地の反勢力と戦い続け、とうとう武田信玄の病死をきっかけにして信長包囲網を瓦解させたのでした。そうして、1573年7月、二条城や槇島城に立てこもった足利義昭を破り、追放して室町幕府を滅ぼしたのでした。

その後も、一向一揆や石山本願寺、中国地方の毛利輝元らと戦い、勝利と敗北を繰り返しながらも信長は徐々に勢力を強めていきます。

3.斬新な政策で大成功した織田政権

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従来の城とは一味違う安土城

槇島城の戦いで足利義昭を京都から追放したあと、織田信長は天下統一への一歩として琵琶湖東岸の安土山(滋賀県近江八幡安土町)に安土城を築きました。安土城は、戦国時代の従来の城との相違点がいくつもあります。

戦国時代以降の城には、シンボルとなる「天守閣」というものがありました。天守閣は城の中でも一番高い建物で、物見やぐらの他、天下に城主の威厳を見せつける役割持っていました。だから、特別に目立つように作られるんですね。他にも、城攻めを想定して天守閣を籠城の場とするために、石落としなど多くの工夫がされました。

天守閣は高い場所にあるので、その分、登っていくのも大変です。戦国時代なので、もちろんエレベーターなんていう便利なものはありませんね。そのため、天守閣は普段は物置として使われることが多かったとか。そんな不便な天守閣を居住区としたのが信長です。安土城には大型の天守閣があったとされ、そのため、信長はそこで生活していたと推測されます。

さらに、安土城には中央の礎石がひとつ足りません。そこには心柱ではなく、円筒形の仏塔があったのではないかと推測されています。また、城郭の中に堂塔伽藍のある寺院(摠見寺、臨済宗)が建てられたのも、日本では安土城が最初で最後。戦国時代の城でありながら、非常に宗教色の濃い場所でもあったのです。

他の城と違って天守閣を住宅にしたり、寺院があったり、逆に普通はつけられる防御策が一切なかったりと、安土城は従来の城とは一線を画します。信長は安土城を戦いのための城ではなく、政治を行うための城と定めたのでしょうね。

超実力主義!信長の人事

織田信長は尾張統一時から、信長に権力を集中させる体制をつくりあげてきました。その中には旧来の家臣から、信長自ら目を付けて途中登用した羽柴秀吉(豊臣秀吉)までその他にも顔ぶれはさまざま。家督を継げない三男坊、四男坊だろうが、農民だろうが、ともかく信長のお眼鏡にかなう実力があればいいのです。逆に、由緒正しい家系でも実力がなければ冷遇されてしまうような、本当の実力主義社会でした。

その人事もさらなる領土拡大に伴い、続々と優秀な人材を登用していったため、役職が細分化していきます。

また、珍しいもの好きの信長は、ポルトガルの宣教師「ルイス・フロイス」とともに渡日したアフリカ出身の黒人を気に入って譲ってもらいました。そうして、彼を「弥助」と名付けて武士にし、信長の身辺に置いたのです。

農業よりも商業!既成概念を破る信長の政策

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織田信長の政策で最も有名な「楽市楽座」。これは当時の農業を重視した社会を一変する斬新なアイデアでした。

現代と違って、戦国時代は食べ物にあふれた世界ではありません。農民がしっかり農業に従事せず、あるいは、天候に恵まれなければ簡単に飢饉が起こってしまう時代です。人間はご飯を食べなければ生きていけませんから、農業が非常に大事だったんですね。しかし、信長は農業ではなく、商業を重視した政策を実施します。

当時は、室町時代に始まった「座」という同業者同士の組合があり、座の加盟者たちが大名らにワイロを渡して品物の独占販売を行っていました。このワイロや、業者にかけた多額の税金によって大名は懐をあたためたわけです。

信長はまず、自分の城下の市にかかる税金を免除します。税金がかからない市なんてあれば、商人はみんなそこで商売がしたいと思いますよね。敵国の商人だってそんなオイシイ話を聞けば飛びつきたい。だから、信長は関所を廃止して、通行税もやめてしまいます。

さらに「座」を廃止して、職人や商人に自由なものづくりと商売を促したことで、信長の思惑通り、城下にはたくさんの商人がやってきました。

城下が潤えば、当然、そこを治める信長のお財布も膨らむわけで。信長も商人も町もwin-winで、「楽市楽座」は大成功をおさめたのです。

完全な武士の部隊で年中戦いができる

当時、戦いに駆り出される武士の半分ほどは武家出身の、いわゆる職業軍人ではなく、大名が自分の領地から連れてきた農民だったのです。けれど、農民が田畑を耕さず、また収穫期に作物を取らないと、大名たちの懐に税は入りません。そもそも農民がいなければ食べ物がなくなって飢饉が起こる可能性もありますよね。そのため、特に収穫期の秋は、戦国大名といえども戦はできませんでした。

けれど、ここで信長はそういった従来の概念を打ち破ってしまいます。農民も武士と同じように嫡男(長男)が家を継ぐのが普通で、次男以降は自分で家をつくるか、跡取りのいない家の養子になるしかありません。信長はこの行き場のない農家の次男坊や三男坊たちを専業の武士に取り立て、一年中戦いができる部隊を作り上げたのです。

農民と武士を完全に隔てたこの政策を「兵農分離」といいました。信長はいち早く「兵農分離」に成功したため、他の大名の守りが手薄になる収穫期に攻め入ったりと有利に戦いを進めることができたのです。

信長亡き後の後継者

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非常に有能な織田信長でしたが、部下の明智光秀の謀反「本能寺の変」によって亡くなってしまいます。その後、羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討って発言力を強めました。

そうして、信長の後継者を決める「清須会議」で秀吉は生き残った信長の次男・信雄、三男・信孝を抑え込み、亡くなった長男・信忠の息子で、信長の孫にあたる三法師(さんぽうし)を後継者とします。秀吉自身は三法師の後見人となりました。そして、反発した柴田勝家らを滅ぼしていき、ついに天下人となったのです。

従来の枠にとらわれない非凡な政権

守護代の家系でありながら、戦で多くの領地を勝ち取って勢力を強めた織田信長。織田政権が推し進めた「楽市楽座」「兵農分離」は大成功をおさめたのですが、このあと明智光秀の謀反「本能寺の変」によって信長は亡くなってしまいます。非凡で有能な武将だけに、信長がもし生きのびていたら歴史はずいぶん違ったものとなっていたでしょう。

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安土桃山時代日本史歴史

実力主義と非凡な政策を打ち立てた「織田政権」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

今川義元との桶狭間の戦いによって一躍有名になった「織田信長」の「織田政権」。琵琶湖の安土城にあり、従来の常識にとらわれない政策を実施したことで大成功をおさめたんです。

今回は「織田政権」について、織田信長や当時の環境をまじえながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものをテーマにしたゲームも大好き。子どものころから親しんだ織田信長について詳しくまとめた。

1.戦国時代と戦国大名のはじまり

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室町幕府の支配システム

室町時代、地方の国々を支配するために「守護大名」という役職が置かれます。守護大名による領国支配体制を「守護領国制」といいました。

守護大名は、国内の武士の間で起こる紛争への介入権と司法執行権を持ち、また、税の徴収も行います。そのため、本来の税よりもこっそり多く徴収することもできたのです。これらの権限によって室町時代中期までに守護大名たちの権能は巨大なものとなっていました。

守護大名たちのなかでも特に有力だったのが足利氏の一門だった斯波(しば)氏や畠山氏、数ヶ国を支配する山名氏や細川氏です。しかし、彼らは幕府の政治にかかわるため都(京都)にいることが多く、領国には代理として家臣を「守護代」に任命して置きました。

室町幕府のシステム外にできた「戦国大名」

「戦国大名」は、守護大名と違って幕府に任命されてなるものではありません。戦国大名は幕府の権力から離れ、その土地の有力者や武装集団をおさえて独自に統治するようになった実力者たちでした。

将軍に任命されたわけではないので、将軍に対して戦国大名は臣下の礼を取る必要もないのです。なので、将軍の許可なく他国に戦争をしかけたり、独自の法律「分国法」をつくったりと、いろんなことが自由にできたのでした。

また、実力と下剋上の世界ですから、大名の出身家系も関係ありません。そのため、守護大名から戦国大名となった甲斐国(山梨県)の武田氏や、駿河国(静岡県)の今川氏がいるかと思えば、もともとは斯波氏の守護代だった織田信長の織田家や、農民出身の豊臣秀吉などとバリエーション豊かでした。

室町幕府の弱体化

1467年、将軍の跡継ぎ争いから「応仁の乱」が勃発しました。応仁の乱によって都は荒れ果て、ようやく乱が終わったと思いきや今度は1493年に細川政元にクーデター「明応の政変」が続き、幕府の権威はどんどん低下していきます。さらに泣きっ面に蜂とばかりに各地で一向宗(浄土真宗)による「一向一揆」がさかんになり、加賀などは大名に代わって一向一揆に治められるような事態に。

戦乱は全国に波及し、守護大名の疲弊と各地で戦国大名の台頭がはじまります。しかし、これで足利将軍家がなくなったわけではありません。たとえ、都にいなくても、足利将軍家は「征夷大将軍」の称号を持ち、すべての武士に命令できる武家の棟梁として健在だったのです。

将軍を目指した戦国大名たち

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各地で戦いを繰り広げる戦国大名たちでしたが、彼らはみんな同じように天下統一を目指しました。

しかし、天下取りのためには、武家の棟梁の証「征夷大将軍」の称号が必要です。そのため、戦国大名自身が征夷大将軍になるか、現在の征夷大将軍の足利氏を擁立するかの二択が彼らの目標になりました。

そして、どちらを実現させるにもまずは都に行かなければならず、戦国大名たちはこぞって上洛を目指したのです。その影響で起こったのが今川義元と織田信長の「桶狭間の戦い」でした。

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