室町時代戦国時代日本史歴史

戦国時代の貴重な史料を残した宣教師「ルイス・フロイス」をわかりやすく歴女が解説

3-5、フロイスの明智光秀評

「信長の宮廷に十兵衛明智殿と称する人物がいたが、その才略、思慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていたということ。殿内にあって彼はよそ者で、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていたそう」

「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人で、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。」

と「ルイス・フロイス日本史」にあるのが、明智光秀に関しての評判で、このほかにも光秀は人を欺く方法を知っていると吹聴したり、信長に対しておべっかを使い、信長の嗜好や希望を調べつくして逆らわないようにして、信長の前では空涙を流すことも辞さないとまで。

3-6、日欧文化比較

「フロイスの日本覚書」には、非常に細かい日常生活のことまで、ヨーロッパと日本との違いがあげられています。

例えば「ヨーロッパ人の子供は4歳ではまだ一人で食べることが出来ないが、日本人の子供は3歳でもう箸を使って食べる」とか、「ヨーロッパ人の子供はまず初めに読むことを習い、次いで書くことを教わるが、日本人の子供はまず書くことを習い、その後に読むことを学ぶ」、「ヨーロッパでは言葉の明瞭であることが求められて曖昧な言葉は避けるが、日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉とされる」など、ほかにも大変興味深いものばかり。

3-7、長崎26聖人の報告書

フロイスは慶長2年(1597年)2月の長崎の26聖人殉教事件を目撃し、3月に報告書を作成して送ったものの、正式な報告書とはみなされずにバチカンの文書館で忘れられていたが、1936年に発見されて復刻刊行されたそう。この報告書によって研究者の疑問点がいくつも明白となり、殉教の場所も特定されたために、1956年、西坂の丘が長崎の史跡として認められて、26聖人のモニュメントが造られたということです。

長崎26聖人とは
慶長元年(1597年)12月、豊臣秀吉の命令で石田三成によって、京都などで捕縛されて長崎へ送られ磔の刑に処された26人のカトリック信者のことです。日本では最高権力者による最初のキリスト教信者たちの処刑で、カトリック教的には「26聖人の殉教」といわれる出来事。

西洋諸国では「聖パウロ三木と仲間たち」とも呼ばれ、処刑された26人は後にバチカンの教皇庁によって聖人の列に加えられたために「日本26聖人」と呼ばれることに。

キリスト教宣教師として来日し、貴重な資料を残した

ルイス・フロイスはポルトガルのリスボンの貴族の出身で、若くしてイエズス会に入り聖職者となり、大航海時代にふさわしく海を越えてアジアまでキリスト教の布教に赴いた人。フロイスには文筆や語学の才能があったために、日本語を習得して日本人と交わって布教に役立てたり、また当時の権力者とも日本語で交流して信頼関係を築くなどが出来、それをイエズス会の命令で文章にまとめたことで、現代のわれわれにも当時の様子が伝わる貴重な史料として伝わることになりました。

フロイスの語る人物が、キリスト教布教に理解があったかどうかなどを割り引いて見る必要があるのですが、それにしても信長や秀吉に実際に会って書かれた人物評や、失われた安土城に実際に行って書かれた描写、また当時の日本の風習やローマ字で表された読み方まで、本当に貴重な体験談、目撃談がてんこ盛りであります。

フロイスはまた、日本におけるキリスト教布教の最盛期に来日して30年を過ごし、その後の迫害や衰退も目撃したが、日本を去らずに日本で亡くなることを選んだ日本を愛した外国人でもあったのです。

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