日本史

戦国時代の貴重な史料を残した宣教師「ルイス・フロイス」をわかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回はルイス・フロイスを取り上げるぞ。戦国時代に日本に来た宣教師だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをキリスト教にも戦国時代にも興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、キリスト教家庭の出身で戦国時代、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ルイス・フロイスについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ルイス・フロイスはポルトガルのリスボンの生まれ

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ルイス・フロイスは天文元年(1532年)に、ポルトガルのリスボンで誕生。貴族の子弟として9歳でポルトガルの宮廷に仕え王室秘書庁で働いていましたが、天文17年(1548年)、16歳でイエズス会に入会、キリスト教伝導の聖職者の道に入りました。

1-2、フロイス、インドのゴアでザビエルと出会う

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「フロイス日本史」によれば、フロイスは天文17年(1548年)3月に、2ヶ月間の研修を経てからインドに向かってリスボンを出帆、10月にゴアに到着後、聖パウロ・コレジオで研鑽を積み、ゴアやマラッカでの宣教活動について詳細な記述を残すなどで文才を発揮していました。

またイエズス会創設者の一人で、日本へ宣教に行く直前だったフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウと出会ったことが、フロイスのその後の人生を決定したのですね。そしてフロイスは天文23年(1554年)、ベルショール・ヌーネス・バレト師とともにマラッカへ赴いて日本を目指したが果たせず、3年後にはゴアに戻ったそう。

フロイスは永禄4年(1561年)に司祭に叙階し、学院長、管区長らの秘書を務めつつ、東アジアから届きヨーロッパに送られる文書の係として日本事情に詳しくなり、日本への布教を夢見ていたそうです。

2-1、フロイス、戦国時代の日本に

そしてフロイスは永禄6年(1563年)、31歳のときに、日本初のキリシタン大名で1カ月前に洗礼を受けたばかりの大村純忠が治めていた貿易港の横瀬浦(現長崎県西海市北部の港)に上陸。しかし大村純忠と後藤貴明の争いにより、横瀬浦が破壊されたので平戸に近い度島に避難し、ここで10ヶ月、病気で療養しつつ同僚から日本語や日本の風習を学んだそう。

永禄7年(1564年)に、平戸から口之津を経て京都に向かい12月に京都入り、ガスパル・ヴィレラ、日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を行ったということです。しかしキリスト教布教の保護者だった当時の室町幕府の将軍足利義輝が永禄の変で殺害、フロイスらは三好党に京都を追われて、摂津国、堺に避難し、翌年、ヴィレラが九州に行ったためにフロイスが京都地区の布教責任者に

そしてフロイスがイエズス会へ向けて布教活動の詳細な報告を送り続けたことで、どのようにして当時のイエズス会士たちが日本文化に呼応したり、日本人と交流したのかが、貴重な歴史資料として残ることに。フロイスはまた日本語を習得したことで、日本人信徒や信長などの要人たちとも交流していくようになりました。

2-2、フロイス、織田信長と出会う

永禄12年(1569年)、フロイスは、将軍足利義昭を擁して上洛し、台頭してきた織田信長と、二条城の建築現場で初めて出会いました。信長は、既存の仏教界を嫌っていたことや、南蛮文化の新しもの好きということもあって、フロイスは信長の信頼を獲得、畿内での布教を許可されて、宣教師のグネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行って、多くの信徒を得、信長の居城のある岐阜を訪問して布教活動を行ったそう。

後にフロイスが著した「日本史」などでも、信長とフロイスはその後も何度も会い、フロイスから見て信長は異教徒ではあるが、かなり好意的な記述がされているということ。

フロイス、天台宗僧侶と激論

この永禄12年(1569年)の春、信長が京都にいたときのこと、和田惟政が申し次となり、300人の織田家家臣の見守る中でフロイスはロレンゾ了斎を通訳に信長に拝謁、当時信長の寵僧だった天台宗の朝山日乗と問答を行った話があります。
「街道をゆく22 南蛮のみち」によれば、日乗は天台宗の経典に詳しく、キリスト教の霊魂の存在を否定し、またキリシタンを毛嫌いしていたのでフロイスらに教議論をふっかけたそう。そして霊魂の存在を否定したが論破されて逆上し、ロレンゾを殺して人間の中にあるとフロイスが言った魂の存在を見せろと刀を抜いたため、側の信長の家来たち(秀吉を含む)が取り押さえたということで、この狂態を見て信長は日乗への寵愛が冷め、仏教から遠ざかったということです。

2-3、フロイス、秀吉の伴天連追放令でも日本を去らず

フロイスは、その後、九州での布教活動で活躍、日本語も達者になったようで、天正8年(1580年)、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日したときは通訳として視察に同行して安土城で信長に拝謁し、その後は越前北の庄も訪問

天正11年(1583年)に本能寺の変が勃発してフロイスらに好意的だった信長が倒されて、その後、豊臣秀吉が天下を統一し、当初、秀吉は信長の対イエズス会政策を継承したものの、天正15年(1587年)6月、伴天連追放令を発令。フロイスは畿内を去り、加津佐を経て大村領の長崎に落ち着いたということです。

2-4、フロイス、「日本史」を執筆

天正7年(1579年)に、ポルトガル国王エンリケ1世の命令で、イエズス会司祭のジョヴァンニ・ピエトロ・マフェイが「ポルトガル領東インド史」の編纂を開始したとき、イエズス会総長を通じて、当時、インドと日本からの通信者だったフロイスに対して、同年11月に日本でのキリスト教布教史を書くよう依頼しました。
これはヨーロッパから日本布教に赴くための資料にするためで、天正11年(1583年)にフロイスは口之津でこの指令を受取ったあと、布教活動の第一線から退き、10年以上にわたって1日10時間以上もかけたりして執筆にあたることに。

そして翌年には、第1巻の「日本総記」(現在は「日本総論」の目次を除いて喪失)を書き上げ、天正13年(1585年)には「日欧文化比較」も加津佐で執筆、天正14年(1586年)には「日本史1549年から1578年」の部がほぼ完成、ガスパル・コエリョと共に五畿内をまわって、大坂城で豊臣秀吉に謁見したということです。

2-5、フロイス、一時マカオへ渡るも再来日

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天正18年(1590年)、天正少年遣欧使節が帰国し、マカオから一緒にヴァリニャーノが再来日したので、フロイスは通訳として同行して聚楽第で秀吉と会見、文禄元年(1592年)にはヴァリニャーノと一時マカオに渡り、そこで天正遣欧少年使節についての記述を完成させました。

またフロイスの「日本史」もマカオで完成し、イエズス会の総長クラウディオ・アクアヴィーヴァに送られたのですが、フロイスの記述様式をヴァリニャーノは快く思わず、長すぎるから短くしろと命令されてフロイスは拒否。しかし、ヴァリニャーノが冗長すぎと嫌った事細かい描写が、歴史資料として貴重なものになっているということ。

フロイスは文禄4年(1595年)に再び長崎に戻り、慶長2年( 1597年)、「26聖人の殉教記録」を最後に、5月に大村領長崎のコレジオで65歳で死去。尚、フロイスの墓所は不明。

天正遣欧少年使節とは
イエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案で、天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名だった大友宗麟)、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年が中心の14名の使節団のこと。

彼らは長崎を出発してローマへ向かい、リスボンには天正12年(1584年)に到着、ローマでは教皇グレゴリウス8世に謁見しと各地で大歓迎され、使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになったということで、天正18年(1590年)に帰国。尚、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機で、キリシタン版といわれる日本語の書物の活版印刷が初めて行われたそう。

3-1、フロイスの著作からの逸話

フロイスは早くから文筆の才を注目されていたため、「日本史」のほかにも、毎年書かれていた「イエズス会日本通信」、「日欧文化比較」などの著書も残しました。「日本史」は、1549年のサビエルの来日に始まり、1593年で終わっているということで、フロイスの死後、原稿はマカオのマカオ司教座聖堂で忘れ去られていたが、1742年になって、ポルトガルの学士院が写本を作成して本国に送付。しかし1835年にマカオ司教座聖堂が焼失したため、原本は焼失し、写本も各地に散逸したそう。そして近年になって再度蒐集され、行方不明の第1巻以外は20世紀以後に徐々に刊行。

フロイスの著作は、西洋のキリスト教徒から見た日本の歴史上の事件に関する記述、重要な研究史料であるうえに、表音文字のアルファベットで書かれた書物のために、日本語の仮名や漢字だけではわかりにくい、当時の人物名、地名や文物の発音などが表記押されているので日本語、言語学、歴史言語学などの史料としても重要だということです。

このフロイスの著作にある色々な逸話についてご紹介しますね。

3-2、フロイスの織田信長評

「彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼法、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なしていた。」

「彼はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されることだけに満足せず、全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、突如としてナブコドノゾール(紀元前12世紀のバビロニア王)の無謀さと不遜に出ることに決め、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望」と、「ルイス・フロイス日本史」にあり、フロイスはまた信長を「きわめて稀に見る優秀な人物で、非凡な司令官として、大いなる賢明さで天下を統治した者」として、高く評価。

安土城では信長がちょっと手招きするだけで家臣がわらわら登場、二条城工事現場で婦人にちょっかいを出す人夫をその場で成敗するなどの生々しい目撃談も。

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信長って、外国人から見ても独裁者っぽい人だったんだな

3-3、安土城について

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信長が築城後、わずか3年で本能寺の変後に焼失してしまったため、なんと安土城の様子を知る貴重な見聞録がフロイスの著書になるということ。

「中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たち(ヨーロッパ)の塔より気品があり壮大な建築で、この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営。事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしているそう」

「外部は、これらの階層ごとに色が分かれていて、あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさ。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色。このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われ、それらは青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いたものも。屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面の瓦も」

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へええ、安土城って3年しか存在してなかったのか、貴重な記録だな

3-4、フロイスの豊臣秀吉評

優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠け、身長が低く、醜悪な容貌の持ち主。片手には6本の指があり、眼がとび出ており、支那人のように鬚が少ない。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺。抜け目なき策略家」

「ルイス・フロイス日本史」にはこう書いてありますが、秀吉が多指症だった(右手の親指が2本あった)というのは前田利家の話としても残っているそう。

3-5、フロイスの明智光秀評

「信長の宮廷に十兵衛明智殿と称する人物がいたが、その才略、思慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていたということ。殿内にあって彼はよそ者で、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていたそう」

「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人で、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。」

と「ルイス・フロイス日本史」にあるのが、明智光秀に関しての評判で、このほかにも光秀は人を欺く方法を知っていると吹聴したり、信長に対しておべっかを使い、信長の嗜好や希望を調べつくして逆らわないようにして、信長の前では空涙を流すことも辞さないとまで。

3-6、日欧文化比較

「フロイスの日本覚書」には、非常に細かい日常生活のことまで、ヨーロッパと日本との違いがあげられています。

例えば「ヨーロッパ人の子供は4歳ではまだ一人で食べることが出来ないが、日本人の子供は3歳でもう箸を使って食べる」とか、「ヨーロッパ人の子供はまず初めに読むことを習い、次いで書くことを教わるが、日本人の子供はまず書くことを習い、その後に読むことを学ぶ」、「ヨーロッパでは言葉の明瞭であることが求められて曖昧な言葉は避けるが、日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉とされる」など、ほかにも大変興味深いものばかり。

3-7、長崎26聖人の報告書

フロイスは慶長2年(1597年)2月の長崎の26聖人殉教事件を目撃し、3月に報告書を作成して送ったものの、正式な報告書とはみなされずにバチカンの文書館で忘れられていたが、1936年に発見されて復刻刊行されたそう。この報告書によって研究者の疑問点がいくつも明白となり、殉教の場所も特定されたために、1956年、西坂の丘が長崎の史跡として認められて、26聖人のモニュメントが造られたということです。

長崎26聖人とは
慶長元年(1597年)12月、豊臣秀吉の命令で石田三成によって、京都などで捕縛されて長崎へ送られ磔の刑に処された26人のカトリック信者のことです。日本では最高権力者による最初のキリスト教信者たちの処刑で、カトリック教的には「26聖人の殉教」といわれる出来事。

西洋諸国では「聖パウロ三木と仲間たち」とも呼ばれ、処刑された26人は後にバチカンの教皇庁によって聖人の列に加えられたために「日本26聖人」と呼ばれることに。

キリスト教宣教師として来日し、貴重な資料を残した

ルイス・フロイスはポルトガルのリスボンの貴族の出身で、若くしてイエズス会に入り聖職者となり、大航海時代にふさわしく海を越えてアジアまでキリスト教の布教に赴いた人。フロイスには文筆や語学の才能があったために、日本語を習得して日本人と交わって布教に役立てたり、また当時の権力者とも日本語で交流して信頼関係を築くなどが出来、それをイエズス会の命令で文章にまとめたことで、現代のわれわれにも当時の様子が伝わる貴重な史料として伝わることになりました。

フロイスの語る人物が、キリスト教布教に理解があったかどうかなどを割り引いて見る必要があるのですが、それにしても信長や秀吉に実際に会って書かれた人物評や、失われた安土城に実際に行って書かれた描写、また当時の日本の風習やローマ字で表された読み方まで、本当に貴重な体験談、目撃談がてんこ盛りであります。

フロイスはまた、日本におけるキリスト教布教の最盛期に来日して30年を過ごし、その後の迫害や衰退も目撃したが、日本を去らずに日本で亡くなることを選んだ日本を愛した外国人でもあったのです。

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