今回は鎌倉時代初期に活躍した僧「親鸞聖人」について勉強していくが、彼がどういう人物だか知っているか?親鸞は教えを自ら実践して人々に示した……んですが、まあ、それがまたすごい。昔の僧侶が普通はしないことをやってのけた。

それにはきっちりした理由もあったんですが、それを当時の歴史的背景の解説をまじえながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。得意分野の平安時代から派生して、平安時代前後に活躍した仏教の宗派について勉強し、まとめた。

1.親鸞の生きた平安時代後期から鎌倉時代初期

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不明 - 「扇の的」平家物語絵巻, パブリック・ドメイン, リンクによる

平安時代末期に生まれて

親鸞(しんらん)は平安時代末期の1173年、都の郊外(現在の京都市伏見区)に生まれました。父は日野有範という下級貴族でしたが、親鸞は9歳になるころ(1181年)には世俗を捨てて、天台宗の青蓮院(京都市東山区)にて出家します。

さて、この時期に朝廷のトップに立っていたのは藤原氏ではなく、「平氏の一族」。いわゆる『平家物語』の世界ですね。それ以前の政治勢力は弱り、ほぼ平家一強の時代でした。しかし、「驕る平家は久しからず」なので、1180年には平家を打倒すべく多くの人々が立ち上がり、六年間に及ぶ「源平合戦(治承・寿永の乱)」が始まります。

源平合戦は平家が滅亡するまで続くわけですから、どちらの勢力も多くの死者を出しました。その上、戦いの最中に奈良の大仏でおなじみの東大寺や、興福寺が焼失したりと仏教界も甚大な被害を受けてしまいます。さらに、合戦が始まった翌年1181年には養和の飢饉が起こって多くの死者が出るような凄惨な状況でした。

苦しみにあふれているのは「末法の世」だから

立ち行かない政治に戦争、飢饉と続けば世の中が荒れていくのは火を見るよりも明らかですね。

どうしてこんなにひどいことばかり起こったのでしょうか?ここで仏教の経典を紐解くと、平安時代後期の1052年以降は「末法の世」といわれることがわかります。

では、「末法の世」とはいったいなんでしょうか?

さらに経典を読めば、末法の世は、仏教の開祖「ガウタマ・シッダールダ(お釈迦様)」の入滅から2000年後のことを指していました。お釈迦様が亡くなり、そこから時代が進むにつれて仏法の力が徐々に弱くなっていくというのです。そうして、すっかり仏法が衰えてしまうのが2000年後。これが末法の世の到来でした。

末法の世では戦乱や飢饉、災害に疫病とおそろしいことばかりが続き、人々は煩悩に囚われて苦しみ続けるとされています。

1180年から始まる源平合戦に、1181年の飢饉は、まさに末法の世の再現そのものでした。さらに、源平合戦後は天皇を中心とする従来の朝廷ではなく、武士の源頼朝が政権を握って鎌倉幕府が成立します。権力者の交代、しかも貴族から武士へとまったく身分の違うものへの交代であり、ここから江戸時代が終わるまでの長い武士の時代の幕開けとなるのです。

仏教の世界観「輪廻転生」

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一方、権力争いに関係のない一般の人々は、戦乱や飢饉などでとても苦しんでいました。現代のように国が生活を保障してくれることはありません。生活もままならない、戦いに巻き込まれて死ぬかもしれない、そういう人がたくさんいたのです。

そうすると、どうすればこの苦しみから逃れ、救われるのか?と、みんな考えますよね。しかし、苦しみぬいて死んでしまったとしても、また別の苦しみに苛まれることになります。というのも、仏教の世界観の大きな枠組みとして「輪廻転生」というシステムがあるからです。生き物が死ぬと、無限に続く前世から背負った業によって次の転生先が決まり、何度も何度も生まれては死ぬというサイクルを繰り返すのでした。どの世界でも苦悩は絶えません。生きても死んでも、ずっと苦しみ続けるというわけですね。

どうすれば輪廻転生から逃れられるのか

輪廻転生から唯一解放される方法がありました。それは、仏教の修行をして「悟り」を開くことです。悟りを開き、心の迷いが解けて世界の真理を会得することで輪廻転生から解放される「解脱」が可能になるのでした。

平安時代後期にももちろん、仏教の教えは残っていました。しかし、そこは仏法の力がすっかり衰えた末法の世です。いくら正しい修行をしても「悟り」は到底開けず、誰も解脱することはできません。死ぬことでさえも救いにならない。末法の世とはそんな世界でした。

\次のページで「阿弥陀仏の力で浄土へ行こう」を解説!/

阿弥陀仏の力で浄土へ行こう

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そんな時代に流行したのが「浄土信仰(浄土教)」でした。現世で悟りを開けず、苦しみの無限ループから出られないはずが、実は、抜け道があったのです。

仏教には「六道」とはまた別に「浄土」という世界がありまして、日本で「浄土」と言うと特に「西方極楽浄土」を指します。その西方極楽浄土を開いたのが「阿弥陀仏(あみだぶつ)」という仏様でした。

阿弥陀仏は仏様のなかでも特に力を持っていて、阿弥陀仏が遠い昔に悟りを開く際に立てた48の本願に「浄土に生まれ変わりたいと願い、たとえ十回でも念仏を唱えれば必ず往生できるようにしましょう」というものがありました。阿弥陀仏の本願のおかげで「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」ととなえれば誰でも浄土へ行けるのです。

広がる浄土信仰

浄土信仰が日本に伝わったのは奈良時代。聖徳太子が活躍していたころですが、実は伝来当時はそれほど流行ってはいませんでした。しかし、念仏を唱えれば末法の世でも関係なく浄土に行けるのですから、日頃忙しくてお寺に通えない庶民でも実践することができたわけです。

2.親鸞とその師・法然上人の布教

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親鸞と法然の出会い

今回のテーマ「浄土真宗」とよく似た名前の「浄土宗」がありますね。実は、浄土宗の開祖「法然(ほうねん)」は親鸞の師匠でした。

青蓮院で出家した親鸞はその後に比叡山で修行し、29歳のとき自力修行に限界を見て下山します。それから、聖徳太子が建立したとされる頂法寺の六角堂(京都市中京区)で百日の参籠(祈願のために寺社などにこもること)を行いました。そこで親鸞の夢に聖徳太子が現れたのです。

夢の中の聖徳太子は「修行しているものが前世の因縁で女性と婚姻するなら、私がその女性になり、死後は極楽まで導きましょう」と、親鸞に告げ、広めるように言いました。これを「女犯偈(にょぼんげ)」といいます。

親鸞は夢のお告げに従って法然を訪ねたのです。そうして、法然の掲げるただ一心に念仏を唱える「専修念仏」に感化され、入門しました。

他宗派に弾圧され、承元の法難へ

法然のもとで順調に学んだ親鸞でしたが、法然の「専修念仏」は当時の寺院の秩序を乱すとされて各宗派から弾圧を受けていました。

僧侶は寺院で修行するものでしたが、浄土信仰や「専修念仏」は念仏を唱えればいいので寺院も仏像もいりません。ということは、当時の社会を作っていた朝廷、寺社、公家の三者も関係なくなってきますよね。だから、旧来の秩序を乱すとされたのです。それに、法然の弟子の一部は「念仏を唱えれば極楽往生だから」と寺院や仏像を腐したり、あえて悪事を働いたりする人も現れていました。

それで、法然は興福寺や比叡山延暦寺の弾圧に対して、弟子たちの言動を正す『制誡七箇条』をつくります。けれど、その甲斐もむなしく「承元の法難」が起こったのでした。

親鸞、越後へ流罪になるも

仏教に対する弾圧事件を「法難」といいます。法然に対する法難が起こった当時の年号から、これを「承元の法難」としました。

法然はこれで讃岐国(香川県)に流罪となり、弟子のなかでも覚えの良かった親鸞もまた越後(新潟県)に流されてしまいます。このとき、法然と親鸞、他の弟子たちは僧をやめさせられ(還俗)ましたが、親鸞は「愚禿釈親鸞」と名乗って非僧非俗の生活をはじめました。

妻帯、肉食を行った親鸞

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ところで、当時の僧侶は結婚して妻帯することも、動物の肉を食べることも社会的に許されていません。しかし、親鸞は僧侶に関わらず奥さんの「恵信尼(えしんに)」がいました。流罪の際、親鸞は恵信尼を連れて越後へ行き(越後で再婚した説もあり)ましたし、それに、お肉も食べています。

なぜ、親鸞は僧侶でありながら妻帯と肉食を行っていたのでしょうか?その答えは、親鸞の説いた教えのひとつ「悪人正機」にありました。

「悪人正機」を自らの身で実践

「悪人正機」には、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という文があります。これは、親鸞の弟子・唯円が親鸞の言葉を記した『歎異抄』に書いたものです。一見すると「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」と、ストレートに読むとなかなか意味の捉えにくい文章ですね。善良な人よりも悪い人がなおさら救われるなんて、どういうことだ!?となりますよね。

けれど、これはそのまま読むのではありません。この一文にある「善人」と「悪人」は私たちの道徳でいう善悪ではないのです。

ここでいう「悪」とは、「欲を持つすべての生命」のこと。つまり、すべての人間の本質なのです。欲にまみれた生命だとわかっているからこそ阿弥陀仏に頼まないと救われず、また、阿弥陀仏はそういう人々を救うべく本願を立てたのですから。

一方、ここでいう「善人」はこの人間の本質に対して無自覚で、阿弥陀仏の本願に頼らず、自力でなんとか浄土へ往生して救われようとする人のことを指しました。親鸞はこれを「自力作善」と言って批判しています。

以上のことを鑑みると「自力作善の人ですら救われるのだから、自力ではどうにもできないことをわかった人が阿弥陀仏に頼ればなおさら救われる」ということですね。

親鸞が妻帯と肉食を行ったのは、僧侶ではない普通の人々と同じことをすることによって、特別出家しなければならないことなんてないのだ、と自らの教えを伝えたのです。

\次のページで「妻子と一緒に関東へ布教」を解説!/

妻子と一緒に関東へ布教

流罪になり、還俗させられたとしても親鸞はめげません。流罪が許されるまで非凡非俗の生活を続けていましたし、許されたあとは都に戻って法然との再会を願っていました。しかし、親鸞が許されたのは冬の真っ只中。子ども連れで越後の豪雪のなかを旅するのは厳しいと判断して留まる選択をしたのです。そして残念なことに、その二ヶ月後に法然が入寂(僧侶が死ぬこと)してしまったために、この願いはかないませんでした。

翌年になっても親鸞は都には帰らず、その代り、1214年に関東に移って布教をはじめます。家族と弟子を連れて常陸国(茨城県)へ出発し、現在の茨城県笠間市に「稲田の草庵」を結んで約20年に及ぶ布教活動の拠点としました。そして、布教活動を行いつつ親鸞の主著となる『教行信証』を稲田の草庵で執筆しはじめます。

六十歳、都に戻って

関東で20年を過ごし、再び京都に戻った親鸞は『教行信証』をようやく書き終え、他の著書の執筆にも入ります。そうして、90歳まで活動を続けて1262年に入寂。娘の覚信尼(かくしんに)が親鸞の遺骨を納める廟堂を建て、これが現在の西本願寺と東本願寺のもととなったのです。

人々に救いの道を見せるために

末法の世の到来によって人々は浄土信仰と阿弥陀仏に頼って浄土へ往生しようとした時代、親鸞はわずか9歳で出家して天台宗の僧侶となりました。しかし、比叡山での修行に限界を感じた親鸞はそこで一旦延暦寺を去り、そして、聖徳太子の夢を見て法然に弟子入りを果たします。

現代だと珍しくはありませんが、親鸞は妻帯し、肉食する当時の僧侶としてはなかなか考えられないことをしていました。けれど、それは普通の人々と同じ状態になることによって、出家して僧侶にならなくても阿弥陀仏は救ってくださるのだということを自らの身を持って示す行動でした。

新しい宗教として登場し、数々の困難を乗り越えた親鸞。あくまでも法然の弟子であり、自ら宗派を立ち上げることはありませんでした。親鸞を宗祖とする「浄土真宗」は、親鸞の没後に弟子たちによって立ち上げられたのです。

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日本史歴史鎌倉時代

僧侶なのに妻帯・肉食!?「親鸞」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

今回は鎌倉時代初期に活躍した僧「親鸞聖人」について勉強していくが、彼がどういう人物だか知っているか?親鸞は教えを自ら実践して人々に示した……んですが、まあ、それがまたすごい。昔の僧侶が普通はしないことをやってのけた。

それにはきっちりした理由もあったんですが、それを当時の歴史的背景の解説をまじえながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。得意分野の平安時代から派生して、平安時代前後に活躍した仏教の宗派について勉強し、まとめた。

1.親鸞の生きた平安時代後期から鎌倉時代初期

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不明 – 「扇の的」平家物語絵巻, パブリック・ドメイン, リンクによる

平安時代末期に生まれて

親鸞(しんらん)は平安時代末期の1173年、都の郊外(現在の京都市伏見区)に生まれました。父は日野有範という下級貴族でしたが、親鸞は9歳になるころ(1181年)には世俗を捨てて、天台宗の青蓮院(京都市東山区)にて出家します。

さて、この時期に朝廷のトップに立っていたのは藤原氏ではなく、「平氏の一族」。いわゆる『平家物語』の世界ですね。それ以前の政治勢力は弱り、ほぼ平家一強の時代でした。しかし、「驕る平家は久しからず」なので、1180年には平家を打倒すべく多くの人々が立ち上がり、六年間に及ぶ「源平合戦(治承・寿永の乱)」が始まります。

源平合戦は平家が滅亡するまで続くわけですから、どちらの勢力も多くの死者を出しました。その上、戦いの最中に奈良の大仏でおなじみの東大寺や、興福寺が焼失したりと仏教界も甚大な被害を受けてしまいます。さらに、合戦が始まった翌年1181年には養和の飢饉が起こって多くの死者が出るような凄惨な状況でした。

苦しみにあふれているのは「末法の世」だから

立ち行かない政治に戦争、飢饉と続けば世の中が荒れていくのは火を見るよりも明らかですね。

どうしてこんなにひどいことばかり起こったのでしょうか?ここで仏教の経典を紐解くと、平安時代後期の1052年以降は「末法の世」といわれることがわかります。

では、「末法の世」とはいったいなんでしょうか?

さらに経典を読めば、末法の世は、仏教の開祖「ガウタマ・シッダールダ(お釈迦様)」の入滅から2000年後のことを指していました。お釈迦様が亡くなり、そこから時代が進むにつれて仏法の力が徐々に弱くなっていくというのです。そうして、すっかり仏法が衰えてしまうのが2000年後。これが末法の世の到来でした。

末法の世では戦乱や飢饉、災害に疫病とおそろしいことばかりが続き、人々は煩悩に囚われて苦しみ続けるとされています。

1180年から始まる源平合戦に、1181年の飢饉は、まさに末法の世の再現そのものでした。さらに、源平合戦後は天皇を中心とする従来の朝廷ではなく、武士の源頼朝が政権を握って鎌倉幕府が成立します。権力者の交代、しかも貴族から武士へとまったく身分の違うものへの交代であり、ここから江戸時代が終わるまでの長い武士の時代の幕開けとなるのです。

仏教の世界観「輪廻転生」

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一方、権力争いに関係のない一般の人々は、戦乱や飢饉などでとても苦しんでいました。現代のように国が生活を保障してくれることはありません。生活もままならない、戦いに巻き込まれて死ぬかもしれない、そういう人がたくさんいたのです。

そうすると、どうすればこの苦しみから逃れ、救われるのか?と、みんな考えますよね。しかし、苦しみぬいて死んでしまったとしても、また別の苦しみに苛まれることになります。というのも、仏教の世界観の大きな枠組みとして「輪廻転生」というシステムがあるからです。生き物が死ぬと、無限に続く前世から背負った業によって次の転生先が決まり、何度も何度も生まれては死ぬというサイクルを繰り返すのでした。どの世界でも苦悩は絶えません。生きても死んでも、ずっと苦しみ続けるというわけですね。

どうすれば輪廻転生から逃れられるのか

輪廻転生から唯一解放される方法がありました。それは、仏教の修行をして「悟り」を開くことです。悟りを開き、心の迷いが解けて世界の真理を会得することで輪廻転生から解放される「解脱」が可能になるのでした。

平安時代後期にももちろん、仏教の教えは残っていました。しかし、そこは仏法の力がすっかり衰えた末法の世です。いくら正しい修行をしても「悟り」は到底開けず、誰も解脱することはできません。死ぬことでさえも救いにならない。末法の世とはそんな世界でした。

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