本願寺中興の祖「蓮如」登場
そんな状況下の本願寺を救ったのは、室町時代に登場した親鸞の嫡流「蓮如」でした。
蓮如は「南無阿弥陀仏」と書いた掛け軸を門徒(信者)に渡し、その掛け軸をかけた部屋はどこでも念仏の道場になるとしたのです。また、蓮如は経典や親鸞の教えをわかりやすく書いた「御文」を書いてさらに門徒を増やしていきました。
一向一揆の始まり
本願寺はただ一向(ひたすら)に念仏をとなえればよいという教えから「一向宗」と呼ばれます。一向宗が門徒を増やしていくと、比叡山の延暦寺から「神仏をないがしろにしている」と非難され、1465年に比叡山の僧兵たちに本願寺を襲撃される事件が発生しました。
蓮如自身は難を逃れて近江国(滋賀県)にいましたが、そこがさらに襲撃されたため、門徒たちが道場に立てこもって応戦したのです。これが最初の「一向一揆」とされます。
ちょうどそのころ、都では「応仁の乱」が起こり、全国に戦が波及して戦乱の世が始まったのです。
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加賀を治めた一向一揆
応仁の乱が続く状況のなか、加賀の守護大名・富樫政親は東軍に、その弟の富樫幸千代が西軍について対立し、とうとう弟が兄を追い出す事態に発展しました。
そのとき、加賀の一向一揆は兄・政親に味方して弟を倒します。ところが、政親が一向一揆の勢いに不安を感じて本願寺の門徒を弾圧してしまったため、加賀の一向一揆は政親を攻め滅ぼしました。その後、約百年もの間、一向一揆が加賀を治めるようになったのです。
このようにして各地の一向一揆は拡大していき、戦国時代には戦国大名とも対立するほどの一大勢力となりました。蓮如の没後は、大谷の本願寺を石山本願寺へと移動して、そこで織田信長と十一年も戦い続けたのです。
教如と准如、本願寺の分裂
石山合戦が終わり、当時の法主だった「顕如」が石山本願寺を退去したあとのこと。
本願寺は顕如の三男・准如を十二世宗主とすの浄土真宗本願寺派(西本願寺、京都市下京区堀川通花屋町)と、長男・教如を十二世宗主とする真宗大谷派(東本願寺、京都市下京区烏丸七条)に別れることになります。どちらも日本の仏教で最大の宗派ですね。
その後も分派したりして、「浄土真宗」の系譜から派生した宗派は、真宗各派協和会に加盟した「真宗十派」はもとより、それよりも多く存在しています。
信仰から一揆まで起こった
浄土宗の法然の弟子だった親鸞が発展させた教え。それを新たな教団としてできたのが「浄土真宗」でした。しかし、宗派が弾圧されると自分たちを守るために応戦し、各地で一向一揆を起こし、ついには織田信長と対立するほどの勢力となったのです。