平安時代後半、「末法思想」によって国も人々もすさんだ時代が訪れた。仏法も衰え、誰も救われない絶望的な状況のなか、阿弥陀仏の本願によって人は死後に極楽浄土に迎え入れられるという「浄土信仰(浄土教)」がブームとなったんです。

今回は、浄土信仰から生まれた宗派のひとつ「浄土真宗」について、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。得意分野の平安時代から派生して、平安時代前後に活躍した仏教の宗派について勉強し、まとめた。

1.平安時代後期の凄惨な有様

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伝狩野元信 - 『源平合戦図屏風』 赤間神宮所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

平安時代後期に「末法の世」が到来して国も人々も荒れ果てた、と冒頭で桜木先生がおっしゃいましたが、具体的には何が起こったのでしょうか?

「末法の世」はいつから始まっていつまで?

そもそも「末法の世」とは、仏教の開祖「ガウタマ・シッダールダ(お釈迦様)」の入滅から2000年後のことを指していいます。仏教の経典には、お釈迦様が亡くなってから時代が進むにつれて仏法は次第に衰えていく、と書かれていました。2000年後にそのピークがくるというわけですね。しかも、ピークはすぐには過ぎ去らず、末法の世は一万年続くとされています。なので、実は現代もまた「末法の世」の真っ只中なんです。

では、「末法の世」のなにがおそろしいのでしょうか?

「末法の世」では仏教の力「仏法」がすっかり衰えるとされています。仏法が衰えると、世の中は戦乱や飢饉、災害や疫病にあふれ、人々は煩悩に囚われて苦しみ続けるのです。

実際の平安時代後期

お釈迦様の入滅から2000年後を西暦でいうと1052年。日本ではちょうど平安時代後期にあたります。

このころの朝廷は藤原氏の力が弱まり、摂関政治から後三条院(引退した第71代天皇)が直接政治を行う「院政」へ変わった時期でした。また、仏教界では武装した僧兵たちが徒党を組んで朝廷に自分たちの意見を通そうと「強訴」を起こし、内部の腐敗が進んでいったのです。

そうしたなか、「保元の乱」と「平治の乱」を経て権力を握った平清盛が20年に及ぶ恐怖政治を開始します。その極めつけが六年も続く「源平合戦(治承・寿永の乱)」です。源平合戦の後、平家に続いて奥州藤原氏を滅ぼした「源頼朝」のもとへと政権が渡って鎌倉幕府が成立。そして武士の世が訪れるのです。

権力の変遷が巡るましく起こり、それまでずっと都の天皇家と貴族たちが中心になっていた政治が、とうとう武士の手に渡ったのでした。

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阿弥陀仏が開いた極楽浄土の世界

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この動乱を一般の庶民たちはどう感じていたのでしょうか。政治は不安定で、戦が乱発し、いつ死ぬともわかりません。もし死んでしまったとしても、輪廻転生によって六道世界のどこかに生まれ変わり、また苦しみを味わう無限ループ。

ですが、この苦しみの輪廻とはまた別に「浄土」という場所がありました。語弊ありきですが、「浄土」をイメージしやすいように言い換えると「天国」です(キリスト教の天国とはまた違うのですが、あくまでイメージとして)。

日本で「浄土」というと、特に「阿弥陀仏(あみだぶつ)」が開いた「西方極楽浄土」を指しました。

どうすれば「浄土」へ行けるのか

誰でも死んだ後に行きたいのは地獄よりも天国ですよね。けれど、半端な気持ちや修行では到底「浄土」へはいけません。

まず、生前に多くの善行を行って徳をたくさん積むのは大前提。その上で非常に大切なのが、阿弥陀仏と浄土を思い描いて念仏をとなえることです。しかし、これがまた大ベテランの僧侶でも一切の雑念を捨てて念仏をとなえるのは難しいこととされていました。

それじゃあ、誰も「浄土」へ行けなかったのかと言うと、実はそうでもないのです。

「西方極楽浄土」を開いた阿弥陀仏は、他の仏様よりもずっと抜きんでた力を持った仏様でした。その根拠となるのが、阿弥陀仏の48の本願のお話です。本願の中に「西方極楽浄土へ行きたいと願ったものが、たとえ十回でも念仏をすれば、必ず浄土へ生まれ変わるようにする」というものがありました。この本願によって、念仏をとなえれば阿弥陀仏の力によって死後に「浄土」へ生まれ変われるのです。

このときにとなえる念仏というのが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」で、これは「阿弥陀仏に帰依(信仰)しています」という意味になります。

そして、「浄土」に生まれ変わったあと、阿弥陀仏のもとで修業して悟りを開くところまでがセットでした。「浄土」に行けたからといって、決して堕落してはいけないのです。

このようにして「浄土」へ生まれ変わり、そこで悟りを開くという思想を、「浄土信仰」、あるいは「浄土教」といいました。

浄土信仰の広がり

浄土信仰が日本に伝わったのは飛鳥時代。聖徳太子が活躍していたころですね。そのころから阿弥陀仏の仏像がたくさんつくられ、平安時代へと受け継がれました。そして、平安時代に新しく起こった「天台宗」の修法のひとつ「常行三昧」に基づいた念仏が広がって各地のお寺で念仏衆が集まるようになります。

一方、庶民のところへは「空也(くうや)」という聖(ひじり)が市井に現れ、「南無阿弥陀仏」ととなえながら踊る「踊念仏」で念仏を広めていきました。

そうしたなか、天台宗の僧侶だった「法然(ほうねん)上人」が、ただ一心に念仏をとなえる「専修念仏」をかがけた「浄土宗」を開くのでした。念仏以外の教義や修行、寺院を必要としないところが従来の宗派とは一線を画す特徴です。

その法然の弟子のひとりに、のちに「浄土真宗」の宗祖となる「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」がいました。

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2.法難を乗り越え、浄土信仰を深めた親鸞

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新しい宗派に降りかかる法難

鎌倉幕府が成立する十年前の1175年に誕生したとされる「浄土宗」。人々に支持されながらも、それまで主流の宗派だった「南都六宗」や「天台宗」などには浄土宗は秩序を乱す存在とみなさてしまいます。法然はその辺はなんとか対処していたのですが、1206年に朝廷内で起こった事件により四国に流罪となってしまいました。

仏教に対する弾圧事件を「法難」といって、法然が流罪となった事件を「承元の法難」といいます。

法然の弟子だった親鸞もまた他の六人の弟子と一緒に僧籍をはく奪されて流罪となりました。親鸞は越後国(現在の新潟県)に流され、そこで大人しくなるのかと重いきやまったくそんなことはなく、僧でも俗人でもない「非僧非俗」の生活をはじめます。

僧侶だけど妻もいれば肉も食べる

image by PIXTA / 49055914

ところで、親鸞が他の僧侶と大きく違うところがありました。実は、親鸞には奥さんと七人の子どもがいて、さらに肉を食べたのです。流された先の越後国にも奥さんの「恵信尼(えしんに)」や子供たちとも一緒でした。流罪が許された後も家族と一緒に東国で二十年もの間布教活動をしています。

しかし、この時代の僧侶は妻帯も肉食も社会的に許されていません。

なぜ、親鸞は僧侶の身でありながら、出家していない普通の人々と同じように妻帯と肉食を行ったのでしょうか?

親鸞が説いた「悪人正機」とは

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

これは『歎異抄』という鎌倉時代後期の仏教書に書かれた親鸞の言葉です。これを字面のまま読んでしまうと、「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」。なんだかちょっと変ですね?

というのも、ここで語られる「悪人」というのは、私たちが考える「罪を犯した人」ではありません。この「悪」は、「人間をはじめ、欲を持つすべての生命」のことを指していて、「道徳に基づいた悪」ではなく、「生命の根源にある悪」なのです。つまりは、私もあなたも「悪人」なんですね。

そして、ここで語られる「善人」もまた私たちの考える「善良な人」のことではありません。この「善人」とは、「自分が悪人だということに無自覚な、本当の時分の姿が見えていない人」のことを意味します。

以上のことから考えると、

「本当は自分が悪人であるとわかっていない人でさえ救われるのだから、自分が悪人だと自覚している人はなおさら阿弥陀仏によって救われる」

という意味になりますね。

親鸞が、出家していない普通の人々と同じように妻帯と肉食を行ったことで「このように煩悩に支配されたありのままの生命だとしても、阿弥陀仏は見捨てずに必ず救い上げてくださるのだ」ということを身をもって人々に示したのです。

この考えは、親鸞が受け継いだ法然の教えをさらに展開させたものでした。

「浄土真宗」として発展

しかし、生前の親鸞はあくまでも「浄土宗」の僧侶であり、彼は自身は法然から継承した教えをさらに高めることに尽力し、自ら新しい宗派を開くことはありませんでした。

「浄土真宗」が成立したのは親鸞が亡くなったあと。親鸞の門弟たちが親鸞の教えを教団として発展させたのです。

3.本願寺中興の祖「蓮如」と一向一揆

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月岡芳年 - Turnbull, Stephen (2003). Japanese Warrior Monks AD 949-1603. Oxford: Osprey Publishing., パブリック・ドメイン, リンクによる

本願寺建立と宗派内での対立

親鸞のひ孫の「覚如」は親鸞の祖廟継承を主張して本願寺(ほんがんじ。大谷本廟。京都市、知恩院の近く)を建立しました。ところが、関東でさかんに布教活動を行っていた佛光寺や専修寺と本願寺は次第に対立していくことになります。

しかし、当時の本願寺は天台宗の末寺に過ぎない小さなお寺でした。そのため他の宗派や、佛光寺などの浄土真宗他派に押されて本願寺は次第に衰退していったのです。

\次のページで「本願寺中興の祖「蓮如」登場」を解説!/

本願寺中興の祖「蓮如」登場

そんな状況下の本願寺を救ったのは、室町時代に登場した親鸞の嫡流「蓮如」でした。

蓮如は「南無阿弥陀仏」と書いた掛け軸を門徒(信者)に渡し、その掛け軸をかけた部屋はどこでも念仏の道場になるとしたのです。また、蓮如は経典や親鸞の教えをわかりやすく書いた「御文」を書いてさらに門徒を増やしていきました。

一向一揆の始まり

本願寺はただ一向(ひたすら)に念仏をとなえればよいという教えから「一向宗」と呼ばれます。一向宗が門徒を増やしていくと、比叡山の延暦寺から「神仏をないがしろにしている」と非難され、1465年に比叡山の僧兵たちに本願寺を襲撃される事件が発生しました。

蓮如自身は難を逃れて近江国(滋賀県)にいましたが、そこがさらに襲撃されたため、門徒たちが道場に立てこもって応戦したのです。これが最初の「一向一揆」とされます。

ちょうどそのころ、都では「応仁の乱」が起こり、全国に戦が波及して戦乱の世が始まったのです。

加賀を治めた一向一揆

応仁の乱が続く状況のなか、加賀の守護大名・富樫政親は東軍に、その弟の富樫幸千代が西軍について対立し、とうとう弟が兄を追い出す事態に発展しました。

そのとき、加賀の一向一揆は兄・政親に味方して弟を倒します。ところが、政親が一向一揆の勢いに不安を感じて本願寺の門徒を弾圧してしまったため、加賀の一向一揆は政親を攻め滅ぼしました。その後、約百年もの間、一向一揆が加賀を治めるようになったのです。

このようにして各地の一向一揆は拡大していき、戦国時代には戦国大名とも対立するほどの一大勢力となりました。蓮如の没後は、大谷の本願寺を石山本願寺へと移動して、そこで織田信長と十一年も戦い続けたのです。

教如と准如、本願寺の分裂

image by PIXTA / 59808247

石山合戦が終わり、当時の法主だった「顕如」が石山本願寺を退去したあとのこと。

本願寺は顕如の三男・准如を十二世宗主とすの浄土真宗本願寺派(西本願寺、京都市下京区堀川通花屋町)と、長男・教如を十二世宗主とする真宗大谷派(東本願寺、京都市下京区烏丸七条)に別れることになります。どちらも日本の仏教で最大の宗派ですね。

その後も分派したりして、「浄土真宗」の系譜から派生した宗派は、真宗各派協和会に加盟した「真宗十派」はもとより、それよりも多く存在しています。

信仰から一揆まで起こった

浄土宗の法然の弟子だった親鸞が発展させた教え。それを新たな教団としてできたのが「浄土真宗」でした。しかし、宗派が弾圧されると自分たちを守るために応戦し、各地で一向一揆を起こし、ついには織田信長と対立するほどの勢力となったのです。

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平安時代日本史歴史

「浄土真宗」とは?信仰から一向一揆まで歴史オタクがわかりやすく5分で解説

2.法難を乗り越え、浄土信仰を深めた親鸞

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新しい宗派に降りかかる法難

鎌倉幕府が成立する十年前の1175年に誕生したとされる「浄土宗」。人々に支持されながらも、それまで主流の宗派だった「南都六宗」や「天台宗」などには浄土宗は秩序を乱す存在とみなさてしまいます。法然はその辺はなんとか対処していたのですが、1206年に朝廷内で起こった事件により四国に流罪となってしまいました。

仏教に対する弾圧事件を「法難」といって、法然が流罪となった事件を「承元の法難」といいます。

法然の弟子だった親鸞もまた他の六人の弟子と一緒に僧籍をはく奪されて流罪となりました。親鸞は越後国(現在の新潟県)に流され、そこで大人しくなるのかと重いきやまったくそんなことはなく、僧でも俗人でもない「非僧非俗」の生活をはじめます。

僧侶だけど妻もいれば肉も食べる

image by PIXTA / 49055914

ところで、親鸞が他の僧侶と大きく違うところがありました。実は、親鸞には奥さんと七人の子どもがいて、さらに肉を食べたのです。流された先の越後国にも奥さんの「恵信尼(えしんに)」や子供たちとも一緒でした。流罪が許された後も家族と一緒に東国で二十年もの間布教活動をしています。

しかし、この時代の僧侶は妻帯も肉食も社会的に許されていません。

なぜ、親鸞は僧侶の身でありながら、出家していない普通の人々と同じように妻帯と肉食を行ったのでしょうか?

親鸞が説いた「悪人正機」とは

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

これは『歎異抄』という鎌倉時代後期の仏教書に書かれた親鸞の言葉です。これを字面のまま読んでしまうと、「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」。なんだかちょっと変ですね?

というのも、ここで語られる「悪人」というのは、私たちが考える「罪を犯した人」ではありません。この「悪」は、「人間をはじめ、欲を持つすべての生命」のことを指していて、「道徳に基づいた悪」ではなく、「生命の根源にある悪」なのです。つまりは、私もあなたも「悪人」なんですね。

そして、ここで語られる「善人」もまた私たちの考える「善良な人」のことではありません。この「善人」とは、「自分が悪人だということに無自覚な、本当の時分の姿が見えていない人」のことを意味します。

以上のことから考えると、

「本当は自分が悪人であるとわかっていない人でさえ救われるのだから、自分が悪人だと自覚している人はなおさら阿弥陀仏によって救われる」

という意味になりますね。

親鸞が、出家していない普通の人々と同じように妻帯と肉食を行ったことで「このように煩悩に支配されたありのままの生命だとしても、阿弥陀仏は見捨てずに必ず救い上げてくださるのだ」ということを身をもって人々に示したのです。

この考えは、親鸞が受け継いだ法然の教えをさらに展開させたものでした。

「浄土真宗」として発展

しかし、生前の親鸞はあくまでも「浄土宗」の僧侶であり、彼は自身は法然から継承した教えをさらに高めることに尽力し、自ら新しい宗派を開くことはありませんでした。

「浄土真宗」が成立したのは親鸞が亡くなったあと。親鸞の門弟たちが親鸞の教えを教団として発展させたのです。

3.本願寺中興の祖「蓮如」と一向一揆

Azukizaka 1564.JPG
月岡芳年 – Turnbull, Stephen (2003). Japanese Warrior Monks AD 949-1603. Oxford: Osprey Publishing., パブリック・ドメイン, リンクによる

本願寺建立と宗派内での対立

親鸞のひ孫の「覚如」は親鸞の祖廟継承を主張して本願寺(ほんがんじ。大谷本廟。京都市、知恩院の近く)を建立しました。ところが、関東でさかんに布教活動を行っていた佛光寺や専修寺と本願寺は次第に対立していくことになります。

しかし、当時の本願寺は天台宗の末寺に過ぎない小さなお寺でした。そのため他の宗派や、佛光寺などの浄土真宗他派に押されて本願寺は次第に衰退していったのです。

\次のページで「本願寺中興の祖「蓮如」登場」を解説!/

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