新しい宗派に降りかかる法難
鎌倉幕府が成立する十年前の1175年に誕生したとされる「浄土宗」。人々に支持されながらも、それまで主流の宗派だった「南都六宗」や「天台宗」などには浄土宗は秩序を乱す存在とみなさてしまいます。法然はその辺はなんとか対処していたのですが、1206年に朝廷内で起こった事件により四国に流罪となってしまいました。
仏教に対する弾圧事件を「法難」といって、法然が流罪となった事件を「承元の法難」といいます。
法然の弟子だった親鸞もまた他の六人の弟子と一緒に僧籍をはく奪されて流罪となりました。親鸞は越後国(現在の新潟県)に流され、そこで大人しくなるのかと重いきやまったくそんなことはなく、僧でも俗人でもない「非僧非俗」の生活をはじめます。
僧侶だけど妻もいれば肉も食べる
ところで、親鸞が他の僧侶と大きく違うところがありました。実は、親鸞には奥さんと七人の子どもがいて、さらに肉を食べたのです。流された先の越後国にも奥さんの「恵信尼(えしんに)」や子供たちとも一緒でした。流罪が許された後も家族と一緒に東国で二十年もの間布教活動をしています。
しかし、この時代の僧侶は妻帯も肉食も社会的に許されていません。
なぜ、親鸞は僧侶の身でありながら、出家していない普通の人々と同じように妻帯と肉食を行ったのでしょうか?
親鸞が説いた「悪人正機」とは
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
これは『歎異抄』という鎌倉時代後期の仏教書に書かれた親鸞の言葉です。これを字面のまま読んでしまうと、「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」。なんだかちょっと変ですね?
というのも、ここで語られる「悪人」というのは、私たちが考える「罪を犯した人」ではありません。この「悪」は、「人間をはじめ、欲を持つすべての生命」のことを指していて、「道徳に基づいた悪」ではなく、「生命の根源にある悪」なのです。つまりは、私もあなたも「悪人」なんですね。
そして、ここで語られる「善人」もまた私たちの考える「善良な人」のことではありません。この「善人」とは、「自分が悪人だということに無自覚な、本当の時分の姿が見えていない人」のことを意味します。
以上のことから考えると、
「本当は自分が悪人であるとわかっていない人でさえ救われるのだから、自分が悪人だと自覚している人はなおさら阿弥陀仏によって救われる」
という意味になりますね。
親鸞が、出家していない普通の人々と同じように妻帯と肉食を行ったことで「このように煩悩に支配されたありのままの生命だとしても、阿弥陀仏は見捨てずに必ず救い上げてくださるのだ」ということを身をもって人々に示したのです。
この考えは、親鸞が受け継いだ法然の教えをさらに展開させたものでした。
「浄土真宗」として発展
しかし、生前の親鸞はあくまでも「浄土宗」の僧侶であり、彼は自身は法然から継承した教えをさらに高めることに尽力し、自ら新しい宗派を開くことはありませんでした。
「浄土真宗」が成立したのは親鸞が亡くなったあと。親鸞の門弟たちが親鸞の教えを教団として発展させたのです。
本願寺建立と宗派内での対立
親鸞のひ孫の「覚如」は親鸞の祖廟継承を主張して本願寺(ほんがんじ。大谷本廟。京都市、知恩院の近く)を建立しました。ところが、関東でさかんに布教活動を行っていた佛光寺や専修寺と本願寺は次第に対立していくことになります。
しかし、当時の本願寺は天台宗の末寺に過ぎない小さなお寺でした。そのため他の宗派や、佛光寺などの浄土真宗他派に押されて本願寺は次第に衰退していったのです。
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