
インテリのムッソリーニ、小学校を出ていないヒトラー
ムッソリーニは、問題児であったものの頭脳明晰で、若いころから政治思想や経済理論の書物を読み込んでいました。イタリア未来派の芸術家のなかには、ムッソリーニを優れた知性を持っていると評価する人もいたようです。
一方ヒトラーは、小学校も卒業していません。ムッソリーニは知識が豊富であるがゆえに、ヒトラーと話すと教養の差が出てしまい、軽蔑しているところがあったとも言われています。
ムッソリーニの最期は公開処刑
ムッソリーニは、第二次世界大戦の終戦間際に公開処刑により死亡します。処刑されるまでの経緯は不明なことが多数。そのため、今でも歴史家による議論や調査が続けられています。
ムッソリーニはレジスタンスと連合軍に追われる身
第二次世界大戦末期になると、日独伊の枢軸国は欧米諸国などの連合国に追い詰められていました。さらにドイツとイタリアの関係も変わり、イタリア北部はドイツが占領。ムッソリーニの権力は形式的なものになります。
さらにイタリア国内ではレジスタンス運動が活発化。ムッソリーニは逃亡を余儀なくされます。そこでムッソリーニは家族をスペインに逃し、自身は愛人女性といっしょにスイスに向かいました。その途中でレジスタンスの構成員に捕まります。
ムッソリーニの死体はミラノで吊るされる
1945年4月25日にムッソリーニと愛人女性は射殺。その亡骸はミラノに運ばれ、市民らにより激しい暴行を受けました。さらに死体は吊るされて人々の前にさらされます。その様子は写真と共に世界中で報道されました。
その後、ムッソリーニの亡骸は無記名の墓におさめられましたが、ファシズムの支持者がたびたび盗み出します。最終的に彼の亡骸はムッソリーニ家の納骨堂におさめられました。
ムッソリーニの評価は今でも分かれる
ムッソリーに対する評価は今でも分かれています。ムッソリーニには、理論家と政治家というふたつの顔があり、どこに着目するかで評価が変わりました。勉強熱心で知性あふれるムッソリーニのファシズム理論は、政治理論として高く評価できる一面も。また、ヒトラーと行動を共にするまでは、ムッソリーニの政策に理解を示す人も多かったようです。もともと経済的に苦しかったイタリアは、戦況が悪くなるなかで、追い詰められた状況にありました。政策が過激になっていったのは、ムッソリーニなりの国の守り方だったのかもしれません。