
ムッソリーニの独裁政治
Bundesarchiv, Bild 102-09041 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
ムッソリーニ内閣は発足したあと、すぐに独裁政治に移行したわけではありませんでした。ムッソリーニが、首相、内相、外相を兼務。そのほか、ファシスト党出身の閣僚は3名のみでした。複数の政党を人事に反映させる配慮がありましたが、1925年に独裁制を宣言します。
イタリア国民のファシスト化を宣言
1925年にムッソリーニが宣言したのが「イタリア国民のファシスト化」。国家ファシスト党の党大会がその舞台でした。ファシストの語源が「束」や「結束」。つまりファシスト化とは、国民をすべて束にまとめて結束=管理することを意味します。
ファシスト化のためにムッソリーニが行ったことが組織化。イタリア国民を、年齢、性別、職業、居住地ごとにグループ化します。それにより国民の行動や選択の自由はなくなりました。暦もローマ進軍を基準にファシスト版に変更されます。
自由経済から計画経済にシフト
当時のイタリアは第一次世界大戦の敗戦や世界恐慌の影響があり経済的に困窮。そこでムッソリーニ政権は自由経済を廃止して計画経済に移行させます。海外との貿易を制限して、イタリア国内の産業を保護する政策がとられました。
不況により農民が都市部に流れていることを受けて農業政策も重視。開拓事業を進めることで農民の失業者を減らそうとします。成果は地域ごとに異なりますが、一定の成果があってもイタリア経済を回復させるまでには至りませんでした。
日本・ドイツ・イタリアの共同防衛
日本との関わりでいえば日独伊防共協定を避けて通ることはできません。これは1936年に結ばれた協定で、共産主義の防衛を目的とするものです。最初は日本とドイツで交渉が進められていましたが、途中でイタリアも合流する形になりました。
この協定自体はほとんど機能せず自然消滅します。しかしながら、日本、ドイツ、イタリアの三国の関係は深まり、第二次世界大戦では「枢軸国」を形成。イギリス、フランス、ソ連、アメリカなどの「連合国」と対立するようになりました。
ムッソリーニとヒトラーの思想上の違い
Istituto Nazionale Luce (State-run production house active between 1932-1946 and 1950-1961. In 1963 it was restructured and renamed as Istituto Luce.) – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID cph.3b45656. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる
ムッソリーニとヒトラーは同じ思想を共有していると思われがちですが、必ずしもそうではありません。ヒトラーと行動を共にするものの、ムッソリーニは考え方の違いを強く意識していました。
ムッソリーニは人種差別政策は実施せず
ヒトラーの政策のなかでとくに有名なのが人種差別。アーリア人至上主義を掲げる一方、ユダヤ人を迫害します。そのためファシズム=ユダヤ人迫害と思われがちですが、ムッソリーニはそのような視点は持っていませんでした。
ナチス政権のユダヤ人迫害が過激になると、ムッソリーニは思想上の違いを示すために、徐々にヒトラーと距離をとるようになります。とはいえ、黒人や黄色人と言われる人々に対しては差別的なまなざしを向けていました。
\次のページで「インテリのムッソリーニ、小学校を出ていないヒトラー」を解説!/